琥珀色の戯言

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【読書感想】あなたはなぜ雑談が苦手なのか ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

ジェーン・スーさん推薦!
雑談って、こんなに深い! その魅力をやさしく伝える雑談入門。
「自分の話がうまくできない」「いつも聞き役ばかり」「もっと仕事以外の話がしたい」……そんな悩みに、これまで3000回以上のマンツーマン雑談を行ってきた著者がこたえます。よい雑談の条件やそのメリット、話が苦手な人の共通点とは? 雑談を通して考えや思いを相手に伝えることで、「自分がどうしたいか」がわかってくる――。
ジェーン・スーさんとのポッドキャスト「となりの雑談」でも人気の「サクちゃん」が、「不信メガネ」「プール理論」など独自の思考法を駆使して、そのエッセンスをやさしく伝える雑談入門!


僕もずっと「雑談が苦手」で、人にうまく話しかけられなかったり、話の途中で気まずい沈黙が訪れてしまったり、「なんであんなことを話してしまったのだろう……」と後悔したり、なんですよね。

年齢を重ねるとともに、「あんまりうまく話ぜないけど、話したいという気持ちはある」というくらいの「ぎこちなさ」が僕にとってはちょうどいい塩梅ではないか、などと思うようにもなったのです。

この新書のタイトルをみて、僕は「初対面の相手とか、仕事先の人、あるいは、すごく親しいというわけではないけれど、お互い黙っているには居心地が悪いくらいの知人と、それなりに会話を弾ませて、うまくその時間をやり過ごすための技術」が書かれていると思い込んでいました。

でも、実際に読んでみると、著者はこの本のなかで、「自己開示」や「自分を肯定すること」に繰り返し言及しており、著者にとっての「雑談」は、僕にとっては「カウンセリング」に近いのではないか、と感じたのです。


うーむ、僕は「その場をなんとなく良い雰囲気でやり過ごすライフハック」みたいなものを望んでいたんだけどなあ。

ただ、「雑談」についてあらためて考えてみると、人との会話がうまくかみ合うかどうかって、「自分がその相手に興味があるか」あるいは「自分がその人のことが好きか」が一番大事な気もするのです。

これから付き合おうか、あるいは、付き合いはじめのカップルって、電話とかでとりとめのないことを何時間も話していても、それなりにいい雰囲気が続くじゃないですか。
でも、その二人が結婚して、長年生活をともにすると、「雑談」をするのも面倒になってしまう。

「うまく雑談をやり過ごす技術」よりも、「話している相手に興味を持つこと」のほうが大切なんですよね。
そして、自分が自分自身に興味を持つことも。


著者は、有料、マンツーマンで希望者と「雑談」をする、というのをずっと続けておられます。
どんな話に対しても否定はしないけれど、自分で納得できないものを「肯定」することはないし、自分のことも自分の言葉で正直に話すそうです。

このマンツーマン雑談サービス「サクちゃん聞いて」の告知で、著者は「雑談」について、こんなふうに述べています。

 今回わたしが募集する「雑談」はマンツーマンで行います。
 話す内容に決まり事はないのですが、わたしがしたい雑談の目的は、直接的に悩みや問題を解決することではありません。
 わたしが何か答えを与える形ではなく、目の前の相手(わたし)に言葉にして出してみることがいちばん大事で、それができるだけで大きな価値があると思っています。
 出したものを一緒に分解したり整理整頓することもあるし、ただ聞くだけのこともあるし、わたしが自分の話をすることもあるかもしれません。
 もちろん、雑談という文字通り、ただくだらない話をして生産性がひとつもない時間に使うのも大歓迎です。


(中略)


 自分についてひとりで考えることと、誰かに話すことの間には大きな差があります。自分のことは自分がいちばんわかっているつもりでも、いざ誰かに話そうとするとうまく話せなかったりまとまらなかったりします。でも、はじめはまとまらないことも、誰かに繰り返し話すことで削られて磨かれていき、どうすると人に伝わりやすいかを考えながら話せるようになって、その作業によって自分自身も理解しやすくなります。
 でも、仲のいい友達や好きな人と雑談するのは楽しいけど、知らない人と雑談してもしょうがなくない?とお思いの方。もうすこしだけ聞いてください。
 話し相手がわたし(桜林)だということは、価値に入らないとは言いませんが、「意味のある話をする必要がない場所」は、それだけで大きな価値があると思っています。


読んでいて、僕は「レンタルなんにもしない人」を思い出しました。もちろん、著者は積極的に「雑談」をしてくれるわけですが、応募者としては、自分の生活や仕事に直接関係がない人だからこそ、自分を曝け出して話すことができる、気を遣わなくてすむ、という気楽さがあるのです。

 雑談をしているとよく出てくるテーマがある。

「やりたいことがわかりません」
「自分が何が好きなのかわからなくなってきました」
「怒りや喜びが薄くなってきて自分の感情がわかりにくいです」
 そういう人にこそ雑談が必要だと思っているので、ようこそ、よく来たね、と思う。
そして、かつてわたしも同じように感じていたので、その状態がとてもよくわかる。
 自分のことなのによくわからない。出そうとしても出てこない。絞り出すようにして出したとしても、出てきたものを「これ、ほんとかな?」と、いまいち信用できない。
 当たり前のように歌や感情が出てくる人からすれば、「好きとか怒りとかって、考えて出すものじゃないのでは?」と思うだろう。その通りで、本来は欲や感情は自然に出てくるものだ。小さな子供にとって、好きなものやしたいことに理由などない。うれしいときは全身で喜び、不快なときは泣いたり怒ったりして抗議する。だけど、いつしか出せなくなってしまった人がいる。それも、思ったより少なくない。
 自分の欲や感情をいつしか見失ってしまったと言う人たちに、いつからそうなのかなと「子供の頃からそうでしたか?」と聞いてみると、
「いつも母の持っている”正解”を当てるように行動していました」
「気分屋の父の機嫌を伺って過ごしていました」
「母がぜんぜん話を聞いてくれないので寂しかった」
 などと、当時を思い出しながらそれぞれの経験を語ってくれた。


ああ、これは僕にもよくわかる。
けっこう長い間生きていると、「人は、自分自身の感情を、案外わかっていない」ことに気づきました。
自分は本当はどうしたいのか?
そもそも「本当」とは何なのか?
本当の感情、というと、何かに強く賛同したり否定したり、誰かを傷つけてしまいたい衝動、などを考えてしまうのですが、もっと踏み込んでいくと「そんな欲望なんかななくて、なんかめんどくさいなー、何もせずにぼーっとしていたいなー」が僕の「本物の真意」である場合が多そうなのです。

社会のなかで生きていると、どうしても、「相手の機嫌」が気になるし、「この場で自分に望まれている(であろう)役割」を演じようとしてしまう。
でも、そんな相手の顔色をうかがってばかりの会話って、お互いに心地よくはないですよね……
「あの人は自分のことばっかり」と言われるのはイヤだけれど、「個人情報は絶対に口にしない」みたいなスタンスの人と「雑談」するのも難しい。

家族とか子どもの話をするだけでも「結婚していない人、子供がいない人へのハラスメント」と受け取られることもある。本当に「災害ではない天気や気候の話」くらいしか、することがないし、そんな会話をしても楽しくはない。「とりあえず敵意はない」ことが伝わればそれでいい、のかもしれません。

雑談が苦手なのは、「雑談」というのを自分が値踏みされている、あるいは、カウンセリングされているように感じてしまうから、でもあるんですよね。
「余計なことを言うくらいなら、黙っていたほうがマシ」な状況もあるのです。
僕自身の経験上は「うまく言葉を紡ぎだせなかった」よりも、「余計なことを言ってしまった」ほうが「失敗した」と感じやすい。

僕は「これって、カウンセラーの資格を持たない人が、『雑談』という名目でやる「カウンセリング」みたいなものではないか、と思いながら読んでいたのです。

 わたしが「雑談」を仕事にしたのは、友達とカウンセラーの間がないなと感じたからだった。友達だから話せることや相談したいことはあるけれど、そのもっと手前の、まだ言葉になっていないまとまらないものを出していい場所がない。大きな悩みではないけれど、なんだかこのままではよくない気がする。何かを変えたいけれど、それが何なのかはわからない。おそらく誰もが抱え得るそういった違和感やモヤモヤを、思いきり出していい場所があったらいいなと思ったのだ。
「よい雑談」をするためには、自分の中にあるものを出すときに、誰かにわかってもらうことを目的にせず、ただ出せる場所、何を出してもいい場所が必要だ。


たしかに、現在の日本では、「友達」には話しづらいけど、「カウンセラー」は敷居が高い、という話題や感情を持っている人は多いのではないか、と思うのです。
大事な友達だから、この人には弱みをみせたり、迷惑をかけたりしたくない、ちゃんとしなきゃ、というプレッシャーもありますよね。

最近はAI(人工知能:ChatGPTやGeminiなど)を話相手、相談相手にする人が増えているそうですが、著者は「人間と話すことのメリット」をこのように考えているそうです。

 AIと話すよりも人間と話したほうがいい点のひとつは、人間は必ずしも役に立たないというところにあるのかもしれない。
 以前、臨床心理士の東畑開人さんに聞いた印象的な話がある。良くないクセは、何度も繰り返して「いつものパターン」になってしまう。たとえば、親密な友人やパートナーといつも同じような決別の仕方をしてしまうというような、うまくいかないときのパターンがある。それに気がついたら、毎回ちょっとずつ違うやり方を試してみるしかない。急に180度行動を変えてパターンから抜け出すことは難しいから、ほんの少しずつ、5度ずつ変えていくといい。というものだ。
 人が「変わりたい」とつよく願うとき、自分とは全く別の人になるように、まるで変身するように変わることを想像するが、実際は実に地道な練習の繰り返しで、本当に少しずつ時間をかけて変化する。
 AIが人の悩みに寄り添い、肯定しすぎると、それは「変わらなくていい」というメッセージになり得る。また、「こう考えるといいですよ」と真っ当なアドバイスをしてくれても、参考にはなれど、そう急にはできないものだ。寄り添いすぎると正当なアドバイスの極端な二択のAIに「5度ずつ変える」の5度の違いをキャッチできるだろうか。
 それに対してわたしは、たくさんの人と雑談をしながら、ただ聞き続けることで、本人が「いつもと違うやり方をやってみた」「ちょっとだけできた」「少しだけわかった気がする」と自分のタイミングで掴んでいくのを見てきた。そこが大きな違いかもしれない。

なるほどなあ、と思うのと同時に、AIの進化を目の当たりにしてきた僕は、こういう溝も、AIはごく近い将来に埋めてしまう、あるいは、もう埋めてしまいつつあるのではないか、とも感じています。

実際、ネット越しで文字のみであれば、自分が会話している相手が人間かAIかを判別するのは、かなり難しいはずです。
だからこそ「人間と顔をあわせて直接話をすること」の価値は高まっている。

小手先の「ライフハック」は手に入らないけれど、「自分を見つめる習慣をつくるきっかけになる」本だと思います。
正直、著者のような人には、なかなかなれないよなあ、と思うし、人と人の対話に重要なのは「技術」よりも、「この人と話してみたいと思われるような人間性」なんだろうな、と絶望的な気分にもなるのですけど。


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