琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】パンチラインの言語学 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「興味深い分析がここにある…
なるほど、そういうことだったのか!!!」
――島本和彦(『吼えろペン』)

機動戦士ガンダム』、『タッチ』、『パルプフィクションクション』…
その「名台詞=パンチライン」はなぜ心に残るのか?

気鋭の言語学者・川添愛が名台詞の名台詞たる所以を
言語学的、私感的、そして機知的に解説‼

【⚠エンタメ8割、言語学2割】
※かなり笑えて、たまに勉強になります


本のオビに、この本のなかでも採りあげられている島本和彦さんの「興味深い分析がここにある…なるほど、そういうことだったのか!!!」というコメントがありました。

えっ、島本さん、効果的な表現として、狙って書いていたんじゃないの?

 構文と内容のずれによって、内容の方に特別な意味が付加されてるという効果もある。その例として『吼え(ろ)ペン』シリーズに出てくる「あえて………寝るっ!!」、「あえて遊びに行くぞっ!!!」といったセリフが挙げられる。多くの人間にとって「寝る」か「遊びに行く」といったことは比較的ハードルの低い行動だが、これらのセリフでは「あえて〇〇(する)」という構文との組み合わせによって「寝る」「遊びに行く」に対する心理的な抵抗の大きさと、それでも他の選択肢に代えがたい重要性が表現されている。

 また『吼えろペン』第9巻の萌(もゆ)のセリフ「ただ面白いだけよ!!」では、漫画において絶大な価値を持つはずの「面白い」という評価が、「ただ〇〇だけ(である)」という構文との組み合わせによって、その絶対的な地位から引きずり下ろされている。こういった、構文(容れ物)と内容のずれによって、漫画家の、というか作者のものの見方が効果的に表現されているのが興味深い。


こんな感じで、この本のなかでは、マンガや映画、ドラマなどの名ゼリフ(この本では、「パンチライン≒名ゼリフ、決めゼリフ」という解釈で使われているようです)について、言語学的な分析や解説がなされているのです。

「なぜ、登場人物のこのセリフは印象に残るのか?」

マンガにとって、重要な場面、クライマックスだから、ということもあれば、何気ない登場人物のセリフが、なぜかずっと心に残ってしまうこともありますよね。

(『機動戦士ガンダム』には)倒置法以外にもこだわりを感じさせるセリフは多いが、今回とくに注目したいのは、第42話に出てくるジオンの名もなき整備士による「偉い人にはそれがわからんのですよ」である。これは、地球連邦軍との最終決戦に臨むシャアが、未完成のモビルスーツジオング」に搭乗する場面に出てくるセリフだ。シャアがジオングを見て「足は付いていない」と言ったのに対し、整備士が「あんなの(=足)は飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」と返すのだ。名前すらクレジットされていない一介の整備士が、上官の前で臆することなく上層部への不満を口に出すのが印象的だ。
 それはともかく、『ガンダム』好きの読者の皆様の中には、このセリフを「偉い人にはそれがわからんのです」と記憶していう方も多いのではないかと思う。実は私もそのように覚えていた。調べてみたところ、最後の「よ」が付いていないバージョンは劇場版『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』に出てきたセリフであり、テレビアニメ版では「よ」が付いている。つまり、テレビ版にあった終助詞「よ」が、劇場版では削除されているのだ。
 個人的に、このセリフから「よ」を削除したのは英断だと思う。「偉い人にはそれがわからんのですよ」よりも、「偉い人にはそれがわからんのです」の方が、なんとなく良い気がするからだ。しかし、何がどう良くなったのかをきちんと言葉にするのは難しい。


この場面、懐かしいな……「足がないモビルスーツ」というのは、いかにも「未完成」な感じがしたのと、まあ確かに宇宙空間では、足にそんなに意味はないかもしれないな、という納得感と。

最終決戦という緊迫した場面で、軍の上層部に整備士が不満を述べるこのセリフは、なんだかとても印象深いものでした。
劇場版でこの整備士の言葉が採用されたことからも、多くの人に「刺さった」のではないかと思います。
あと、こんなふうに「上層部への愚痴」をこぼされるシャア・アズナブルという人は、あんな怪しい仮面をつけているけれど、部下に信頼され、慕われているんだな、とも感じました。

僕が記憶しているのは「偉い人にはそれがわからんのです『よ』」のほうでした。

テレビアニメ版と劇場版には、「偉い人にはそれがわからんのですよ」と「偉い人にはそれがわからんのです」という「よ」の有無の「違い」があるというのは、これを読んではじめて知りました。
著者はこのあとの文章で、なぜこの一介の整備士のセリフが多くの人の記憶に遺ったのか、そして、この「よ」の違いが、どういうニュアンスの差になるのかを詳しく分析し、「劇場版では『よ』が外された理由」についても考察しています。

アニメや小説のような「創作物」の場合、そこに書かれているもの、描かれているものには、すべて「存在する理由」があるのです(あるいは、「あるはず」です)。

劇場版で、「よ」だけを外したということに、制作者たちの「細部への、ひとつひとつのセリフへの気配り」をあらためて感じました。


この本で、いろんな作品の「パンチライン」を読んでいると、その作品全体の記憶も蘇ってきます。
北斗の拳』のラオウの「わが生涯に一片の悔いなし!!」というセリフだけでも、『北斗の拳』の数々のシーンを思い出してしまいます。
このセリフ以降の話はあんまり記憶にないことも。

言語学への興味とともに、「パンチライン」を生み出してきたアニメや映画、マンガのレビューとしても、著者と同世代の僕にとっては楽しめる本でした。


アニメ『タッチ』の「めざせカッちゃん甲子園」の回より。

 南ちゃんブームのころ、私は中学生で、本作のアニメも見ていたし単行本も持っていた。私も「♪デーンデデデデデデ デデデデーンデデデ デデデデデデデデ デデデデデデデ」というイントロが聞こえたら岩崎良美になりきって主題歌を歌える程度には星屑ロンリネスな人材だ。

 しかし正直に言うと、南ちゃんが苦手だった。成績優秀、容姿端麗で非の打ちどころのない女性であるという点は別にいいのだが、幼なじみの双子に好かれるというポジションにいて、自身は明らかにタッちゃんのことが好きなのに、自分の夢のためにカッちゃんを野球に駆り立てる神経が理解できなかった。私だったら、もしそんな胃痛ポジに置かれたらとりあえず引っ越したくなると思う。
 でも五十代になった今なら、また印象が変わるかもしれない……などと思ってコミックス(完全復刻盤)を再読した。結論から言うと、ものすごく面白かった。一人の隠れた天才がその才能を開花させるまでの長い道のりを、本人や周囲の葛藤や成長も絡めて丁寧に、そして巧みに描いた作品だと感じた。十代の頃は三人の恋愛模様にばかり目が行っていたが、今回はむしろ双子の兄弟の絆に心を打たれた。
 もちろん恋愛の描写も巧みだ。今回気づいたのは、この作品は登場人物たちの感情の機微を細やかに描いているにもかかわらず、「内言」、つまり心の中で囁かれる言葉の描写が非常に少ないということだ。達也と和也と南の三者がそれぞれに、他の二人の言動から彼らの真意を探るが、内言が少ないぶん、その探り合いの大部分に読者も頭を使う。結果、登場人物の内面を直接知るのとはまた別の形で、それぞれのキャラに感情移入しやすくなる。

 で、南ちゃんについてはどう思ったかというと、彼女の一人称が「南」であることに一瞬「うわっ」と思ったりはしたが、昔ほど「苦手だな~」という感じはしなかった。私もだいぶ丸くなったのだと思う。しかし、当時に比べて言語学の知識が増えたぶん、南ちゃんの思わせぶりな言動が目に付いた。


僕はリアルタイムで放映されていた頃、『タッチ』が大嫌いでした。
運動音痴でかわいい幼なじみなんていないどころか、女子とまともに話したこともなく、マイコンと本が友達だった僕にとって、『タッチ』はコンプレックスをグリグリと刺激してくる不快極まりない作品だったのです。
お前ら勝手にやっとけよ、と思いつつ、家のテレビから流れてくる、あのテーマ曲に背を向けていたのを思い出します。

そもそも、幼なじみとはいえ、双子を天秤にかけて競争させ、自分の望みを叶えようとするなんて、ひでえ女だ浅倉南
甲子園に行きたきゃ電車で行けよ!

いまはもう、そんな若い恋愛の世界とは無縁になったので、逆にファンタジーと割り切って恋愛ものも楽しめるようにはなりました。
僕にとっては、実現不可能であるからこそ割り切って楽しめるという意味で、『タッチ』とか「恋愛関連」は「異世界転生もの」とか「なろう小説」と同じカテゴリーなのかもしれません。

後年『タッチ』のマンガを読んでみたらけっこう面白かったし、他のマンガであれば丁寧に描くはずのところをあえて省略するという手法がすごく印象に残ったので、売れるだけのものはあった、のだとは思います。
というか、僕が自分のコンプレックスのために『タッチ』を敵視していただけなのでしょう。
『タッチ』とまともに戦わずに、ファンタジーとして楽しめる度量があの時代にあれば、もっとマシな人生を送れていたのではなかろうか。

この本を読んでいると、「あの頃、自分はこの作品をどう感じていたのか」を思い出してしまうのです。
「個人の感想」よりも「作品内の名ゼリフ」は、記憶を呼び覚ます力が強い気がします。


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島本和彦さんは、ある程度「計算」して描いているのではないか、と僕は思っていたのですが、クリエイターというのは、あまり意識せずに、こういう「引っかかる表現」を編み出すことができる人のことなのかもしれませんね。
(といいつつも、僕は半分くらい、島本さんは手の内を明かさないように自分のキャラクターを貫き、このコメントを出したのではないか、とも疑っています)

僕の人生にとって、「フィクション」として触れてきたさまざまなコンテンツには、現実以上に記憶に残っているものがたくさんあって、現実以上に影響を受けてきたような気がしています。


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