琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】「頭がいい」とは何か ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「頭がいい」とは、いったい何を指す言葉なのか。

成績がいいこと? 仕事ができること? 地頭がいいこと? 空気が読めること? 主体性があること?
私たちは学校から職場、さらには私生活に至るまで、無意識のうちに「頭がいい/悪い」という尺度で人を測り、また自分自身も測られてきました。
いまや、書店には「頭がいい人の○○術」のように、「頭がいい」をタイトルに冠する本が氾濫しています。

この曖昧で便利な言葉が広く使われるようになった背景には、〈能力主義〉の存在があります。
能力主義とは、「能力」を個人の資質や努力の結果とみなし、優れた者が多くを得ることを正当化する考え方です。しかし現実には、運や環境、偶然といった要素までもが「能力」に回収され、「評価に晒され続けること」が当たり前になった社会は、多くの人に生きづらさをもたらしています。

外資系コンサルティングファーム勤務を経て独立した著者は、「頭がいい」という言葉の曖昧さを手がかりに、能力主義が生む生きづらさの構造を解きほぐしていきます。

■「頭がいい」子に育てたい、という親の願いは正義なのか。
■「私、頭が悪いので」という前置きに込められた意味とは。
■「頭がいい」は、本当に〈良い〉ことなのか。

評価に振り回されずに生きるための、ポスト能力主義の思考を提示します。


2023年に上梓された『頭のいい人が話す前に考えていること』という本は、大ベストセラーになりました。
僕はこの本のタイトルを聞いたとき「頭のいい人」って、あけすけというか、まっすぐなタイトルだな、と思いました。
この本、内容的には、「表面に見えているものにとらわれずに、物事の本質や相手が本当に求めていることを見極める力の重要性と、それを実行するためのノウハウ」が書かれていたのです。



僕はいま50代なんですけど、子ども時代は、クラスの中で、「頭がいい=テストの点数が良い」みたいなシンプルな評価基準だったと思います。

それが、大人になるにつれて、「あいつは良い大学は出ているけれど、現場では使えないな」「テストの成績はよかったのかもしれないけれど、人の気持ちがわからない」など、「頭がいい」は、必ずしも称賛の意味だけではなくなっていきました。

「頭がいい」「頭が悪い」と公に他者を評価すべきではない、というような「配慮の風潮」もあったように思います。

「地頭がいい」なんて言葉も最近はよく使われるようになっています。
人間の頭のよさなんて、創造性など一部のジャンルを除けば、現在のAI(人工知能)とは比べ物にならない。僕と頭がいい人には、そこらへんを歩いているおじさんと全盛期のウサイン・ボルトくらいの走力の違いがあるとしても、AIは新幹線やリニアモーターカーレベル、と言っている人もいるのです。

僕自身、「頭がいい」というのはどういう人のことですか?と問われたら、現在は「問題解決能力が高い」(具体的なイメージとしては「『テトリス』が上手」)と答えます。付け加えるなら、「問題そのものを発見する能力が高い」。
まあでも、そういうのって、いかにも「コンサル的」な「頭のよさ」ではありますよね。
究極的には「自分と周囲を幸せにできる力」なのかもしれません。


この本の著者は、「組織開発専門家」として活動されています。
小学校6年生のときには、担任の先生から「リーダーシップが強すぎる」と問題視されたことがあるそうです。
それまでの担任には「リーダーシップがあって面白い」と褒められていたとのことで、結局のところ、人の能力とか性格というのは、周囲の環境やその人の置かれたポジションで、評価の基準も違うのです。

その後、社会教育学を学び、外資系のコンサルティングファームで「頭のいい」人たちのなかでの競争をしているなかで命にかかわる病に罹患し、もし自分が死んでしまったら、自分の子どもたちがこの能力主義社会で「使えないやつ」とみられてしまうのは嫌だ、こんな社会で良いのだろうか、と考えるようになったそうです。

そして、「多様な人の多様な分業によって社会は成り立っている」という前提で、個人的能力主義に依存しない社会をつくる活動をされています。


現在の「頭がいい」という言葉は、便利に使われすぎているような気もするのです。

 海外のトレンドに目を向けたついでに、日本語以外の言語圏では「頭がいい」に相当する語彙にどのようなものが用いられているのかも調べてみました。


(中略)


 英語圏では、広義で賢さを意味する「smart」が最もメジャーではないでしょうか。日本語でもよく使われる「インテリ」の由来となった「Intelligent」は「smart」よりも高度な論理的思考やIQを統合させた知性、という意味合いで使われます。
 日本語で言うところの「地頭がいい」が「生まれつきの頭のよさ」を表すならば、英語圏では「naturally intelligent」(生来的な知性)や「innately smart」(生まれつきの賢さ)に近いでしょう。「頭の回転が速い」は反応や思考の速さを示し、英語の「quick-witted」(機転が利く)や「sharp」(鋭い)の感覚に近いですね。
 フランス語、ドイツ語はここでは代表的な単語のみに留めましたが、英語と同様に文脈やニュアンスに応じて多様な角度の表現の単語が存在していることは、言語学の専門家ではなくても理解できます。

 と、ここまで書いてはたと気づいたのですが、英語であれば「頭がいい」を表す4つの単語がそれぞれカテゴリー分けできますよね。対して、日本語ではこれらを一括して「頭がいい」「地頭がいい」の枠に無理やり押し込めてはいないでしょうか?
 つまり、テストで高得点を取れることも「頭のよさ」、仕事が速いのも「頭のよさ」、波風立てずに場を収めることができるのも「頭のよさ」。そんな風に学力や洞察力、器用さ、コミュニケーション力までも、あらゆるものがまぜこぜになった「頭がいい」という概念が存在している。 
 もしかしたらそれは、日本独自の「頭のよさ」概念のように私には感じられます。


日本の場合はとくに、「頭がいい」で、ひとくくりにされている面はありそうです。
「東大とか出ていて、頭がいいのに仕事ができない」という侮蔑の言葉も、「東大に合格・卒業できる能力と、仕事をうまくやる能力は必ずしも同じではない」のです。もちろん、重なるところはたくさんあるのだけれど。

入試でのペーパーテストは一時期「それだけで人間の能力を測るべきではない」と批判され、一芸入試や論文入試が多くの学校ではじめられましたが、「結局、ペーパーテストで入ってきた学生のほうが、平均的な能力も高くて優秀だった」という声もよく聞きました。
「仕事や社会に適応しやすい人間を選抜するためにブラッシュアップされつづけてきたペーパーテスト」の歴史は、侮れないものではあったのです。

企業が求めているものも、「従順さ」や「勤勉さ」から、「リーダーシップ」や「創造性」と、時代によって変わってきてもいますし。

 2025年夏、産業能率大学総合研究所が毎年恒例で実施している新人社員を対象とした調査において、驚きの結果が出ました。
「年功序列的な人事制度と成果主義的な人事制度のどちらを望むか」という毎年定番の設問に対して、「年功序列を望む」との回答が56.3%となり、1990年度の調査開始以来、はじめて「成果主義を望む」という回答(43.6%)を上回ったのです。
 この36年目にして初となる逆転現象の背景にあるものは、「頭のよさ」という曖昧にして協力な概念が氾濫している現状と決して無関係ではないと私は捉えています。

 人間を一列に並べて誰が優秀か、誰が役に立ちそうかを選抜するこの考え方は「メリトクラシー」(meritocracy)と呼ばれるものであり、イギリスの社会学者マイケル・ヤングが1958年に記した著書『The Rise of the Meritocracy』メリトクラシーの台頭)ではじめて提唱しました。


(中略)


 2000年代以降に新自由主義的な構造改革路線を推し進めた小泉純一郎政権下において、人は能力に応じて評価・選抜されるべきだとする評価観=能力主義は、非常に相性がいい思想でした。
 大勢の人を並べて、「能力」で断定・他者比較・序列化する。
 それによって選ばれた少数の人だけが肯定され、より多くの報酬と地位を得る正当性を持つ。
 選ばれないのは、個人の能力・努力が不足しているのだから、残念だけどまあ仕方ないよね……。もっと頭を使えばよかったのに、もっと頑張ればよかったのに……。

 さて、このような能力主義的発想が配分原理として用いられるようになった結果、日本はどんな国になりましたか?

 成功した少数の強者が国や経済を回し、弱者にはとことん冷酷に自己責任を突きつけています。なぜなら、人生に失敗しているのは、愚かで努力をしていない人間だから──。福祉の削減や排除の正当化を支えるロジックは、このような発想に由来しているのでしょう。急激な人口減少が止まらないこの国では、もはや誰かを排除している場合ではないというのに。

 残念ながら、これが日本型メリトクラシーとも言うべき能力主義に社会全体が覆われ、失われた30年を経てたどり着いた日本社会の現在地です。


とはいえ、人口が減少し、少子高齢化がすすんでいる社会では、社会保障に使えるお金が、日本に「人口ボーナス」があった高度成長期ほど潤沢ではありえない、というのも事実なんですよね。
そして、日本で起こっていることは、アメリカでもすでに起こってきたことなのです(アメリカは人口が増えているので違いもあるのですが、能力主義と格差社会でも日本の『先進国』です)。

現場で仕事をしていると、やっぱり「仕事ができる人」と一緒に働いたほうが自分もラクができる、逆の場合には、自分の負担が大きくなる、のも事実です。
もちろん、僕自身も周りから「値踏み」されているのでしょうけど。

でも、どんな職場にもオールマイティな「頭がいい」人がいるはずもない。
プロ野球選手がみんな大谷翔平ではないのと同じです。
僕は自分や他者の仕事ぶりに物足りなさや不満を感じたときに、自分にこう言っています。

「ここはロサンゼルス・ドジャースじゃないし、日本の地方の独立リーグに大谷翔平がいるはずもない」

それでも、みんな自分ができることをできる範囲でやって、なんとか全体として業務をこなしている。

「頭が悪い人」を見下して「頭がいい人」を尊ぶ思考は、永遠に現れない完璧なスーパーマンを待ち望むような、「優秀な人材さえいれば解決する」という思い込みにも直結しています。

 ある離島の教育委員会で講演したときのことです。講演を終えたあと、「先生はそう言いますけど、そうは言ってもうちは島だから優秀な人がいないんでできませんよ!」とひたすらに繰り返す関係者がいました。
「優秀な人」がいない。でも、やるべきことは山積みで困っている。どこから手をつけていいかわからない。外部から「優秀な人」が来てさえくれれば解決するはずなのに、その切実な思いは理解できます。
 ただ、私がその講演で語った内容は、本書でも繰り返し述べているように「能力の高い優秀な人がいればすべてが片付くわけではない」「スーパーマンに頼らずにいまいる人を活かし合う方向へ舵を切っていきましょう」という、まさに真逆の話だったのですが……。


なんでもできる、「頭がいい人」をひたすら待ち望むのではなく、多くの人が、それぞれの「自分ができること」を持ち寄って、成果物を分け合うような社会へ。

僕がいま働いている地方の職場は、まさにそんな感じだよなあ、ところどころで「なんで自分ばっかり」と思うところはあるけれど、それはお互い様くらいの気持ちでいるべきなんだろうなあ、と思いながら読みました。

こうして、言語化して本を書ける人も「頭がいい」のです、きっと。
共産主義・社会主義の栄枯盛衰をみてきた僕としては、「頭がいい人がつくった平等や公正、分配の理念は、凡人の欲望を長くは制御できないし、それを不公平だと感じるのも人間なのだよな」なんて、斜に構えてしまうところもあるのですけどね。


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