Kindle版もあります。
駿台・河合・代ゼミ。伊藤和夫、小田実、金ピカ先生……なぜ高校より面白かったのか?
大学受験に失敗したら予備校に行けばいい――昔は皆そう考えていたし、浪人生はドラマの主人公にさえなった……今は昔。なぜこうも変わったのか。本書は1970~90年代を「予備校文化」の黄金時代として描き、推薦・AO入試優勢の現代が見失った「学問への入口」として予備校を捉え直す。
「予備校」はいま、どうなっているのか?
僕はいま50代半ばなんですが、僕が大学の「受験生」だったのは、1990年前後でした。
当時、全寮制の高校に行っていた僕は、一度「予備校」というものに行って、その雰囲気や有名講師の授業を受けてみたくて(もちろん、これまで自分の学校でやってきた受験対策だけで本当に大丈夫なのか、という不安もあって)、3年生の夏休みに2週間ほど、福岡の河合塾の夏期講座に通わせてもらったことがあります。
都会での受験生・浪人生ってこんな感じなのか、福岡は遊ぶところがたくさんあって楽しそうだなあ、あっ、女子がたくさんいる!(男子校だったので)などと新鮮な体験ではあったのですが、「人が多くて疲れるな」というのが実感で、あのときのことでいちばん記憶に残っているのは、宿泊先のトイレで読み始めた筒井康隆さんの『旅のラゴス』にあまりにも夢中になってしまって、結局、一冊トイレで読み終えてしまったことでした。
すごい先生の面白い授業を受けたはずなんだけど、うーん、全然覚えていないなあ。
この年齢になって感じるのは、受験とか部活というのは、人生の一時期、数年間においては「世界のすべて」だけれど、その嵐が過ぎ去ってしまえば、すっかり興味を失ってしまう、ということです。
もちろん、受験の結果や学歴をひけらかしたりコンプレックスを抱きつづけたりする人はいるだろうし、若い頃にやっていた競技に一生こだわり続ける人もいるのだろうけど。
あの頃、1990年前後に「受験生」だった僕にとっては、予備校は意識せざるをえない存在だったし、「浪人したくはないけれど、都会での浪人生活にはちょっと憧れる」ものだったのです。
いま、あらためてこの本で、「予備校の歴史」を読むと、僕は、自分に縁がなくなってから、予備校というのもへの興味をすっかり失ってしまっていたのだなあ、と痛感します。
近年は、子どもたちの受験があるので、予備校というのものをまた別の立場で意識するようになりました。
代ゼミ、河合、駿台が3大勢力だった時代から、2000年以降、林修先生の『東進ハイスクール』や『鉄緑会』が勢力を伸ばし、そして現在は少子化や受験生の「現役志向」によって、予備校は(経営的に)厳しい時代を迎えている、というような「予備校の時代による変化」をずっと追いかけてきたわけではないのです。
だから、こうして、「自分が予備校と縁がなかった時代の予備校の変遷」は、すごく新鮮に感じました。
「そういえば、代ゼミって、最近見なくなったような気がするなあ」っていうくらいの印象なんですよね実のところ。
浪人の減少は現役志向の高まりと表裏一体である。これについて、旺文社教育情報センターが興味深いデータをまとめている。
1990年の現役受験生(高校三年生)の現役進学率は51.7%だったが、33年後の2023年は92.5%に達している。旺文社はこう解説する。高校既卒性は1991年の28万4000人がピークで、2023年は5万2000人にまで減った。減少の要因は、「大学の入学定員が増え続けたことにより入試が易化したため。それに加えて受験生や保護者の中で「大学は現役で行くもの」という価値観が広がったためと考えられる。
現在(2026年)は、僕が受験生だった1990年くらいと比べると、少子化による学生数の減少や経済的な負担から「大学浪人」が避けられるようになったそうです。高校生や親のあいだでは、「大学は現役で入るべき」という考え方が広がっているのだとか。
明治大学では、1995年はほぼ「現役3割、浪人7割」だったのが、2024年には「現役8割、浪人2割」という数字が紹介されています。
僕が大学に入ったときには、いわゆる難関大学は、浪人経由のほうが多数派だったのが、現在では難関校でも現役の割合が増えているそうです。浪人してでも志望校へ、というよりは、浪人するくらいなら受かったところに行くのです。
ペーパーテスト以外の推薦枠や一芸入試による大学入学者の割合も増えています。
「いい大学、いい就職先」を志向する人が絶滅することはないでしょうし、受験生たちにとっては「易化した、と言われても、こっちは大変なんだよ!」だろうとは思うのですが、受験産業は、今後の人口動態をみても「斜陽」であることはまちがいないようです。
そういう意味では、僕の世代は「予備校文化の全盛期」を体験してきたわけで、この本で紹介されているさまざまなエピソードを読んでいると、なんだかとても懐かしくなります。
早稲田予備校はアントニオ猪木の「闘魂ビンタ」発祥の地だった。2022年猪木氏が亡くなったとき、早稲田予備校はブログで追悼文を発信しており、そのなかで触れている。1990年5月、早稲田予備校で猪木氏が講演したとき(題目は「五月病に卍固め」)、猪木氏は予備校生から腹部にパンチを受ける余興を行った。そのときのことだ。
「猪木さんを後援会でお招きした後、生徒と触れ合う企画があったそうで、ある生徒に「思いっきりかかってこい」というノリで腹にパンチをさせたようです。ただ、その生徒が空手か何かの有段者だったようで、けっこうな威力の一撃を見舞ったそうです。猪木さんは反射神経のようにビンタが出てしまい、周りのスタッフはその瞬間、凍りついたそうですが、その生徒がすぐに「ありがとうございます!」と言ったので、周りは和んだというか、別の盛り上がりを見せ、関係者は胸をなでおろしたそうです」(早稲田予備校ウェブサイト2022年10月1日)。
一方、代ゼミは浪人生の集客性を高くするために、わかりやすい作戦をとった。1979年、代ゼミ初めての地方進出である名古屋校開校はもちろん、河合塾が1977年に駒場校を作ったことに対する反転攻勢である(駒場校は東京大特化型の校舎として開校し2008年閉校。同年開校した本郷校に引き継がれる)。代ゼミの高宮行男理事長(当時)はこう話している。
「名古屋を基盤とする大手予備校が東京に進出してきたため、こちらも全国展開に踏みきったのです。(中略)そこでまず駅前に、七階建てで三階まではエスカレーター付きという豪華な校舎を造り、東京で最も人気のあった講師陣を集中して送り込みました。そのかいあって、どの教室も盛況という順調なスタートを切ることができました。もう一つ工夫したのは、受け付けや窓口など、生徒たちが毎日目にする場所です。先輩の予備校経営者のアドバイスで、ミスコンテストで優勝したような女性をずらりと並べました」(北海道新聞2001年11月16日)。
いまならばこのような発言はルッキズムの観点からアウトだが、当時は笑いを誘うような話題で済んだ。実際、名古屋市内および周辺の受験生たちは代ゼミの窓口職員を見に行くために足繫く通ったという説がある。
これに対して、本家である名古屋への進出をゆるした河合塾三代目理事長、河合邦人は対抗心をむき出しにする。こう毒づく。「代々木さんではね、エスカレーターを取り付けたんですが、うちでは生徒をエレベーターにも乗せません。エレベーターは先生がいそいでゆくために使わせているだけです。生徒たちに階段をのぼりおりさせるのも教育であり、健康のためでもあるんです。エスカレーターで甘やかすなんて、それだけでもう教育ではありませんねえ」(『宝石』1980年4月号)
なお、代ゼミは全国展開において、地元の予備校から訴訟を起こされるなど、いくつも裁判を抱えることになる。
2026年にこの代ゼミ、河合塾両陣営の発言を読むと、そして、「人を集める」という方策や「教育」について、この半世紀で変わったこと、そして変わらなかったことを考えさせられます。
当時の予備校は、名物講師による、「高校ではできない、学問の本質を伝えるようなオリジナルの講義」が受けられ、「大学への合格」というミッションのために他のことを二の次にできる「聖域」だったのと同時に「産業」でもありました。
そういう「刺激的な環境」に、当時の受験生たちは魅力を感じてもいたのです。
三大予備校のあいだだけではなく、地元の名門大学に強みを発揮していた地方の有名予備校と代ゼミや河合塾の勢力争いなど、予備校の「戦国時代」の熱気は、当時の学生たちにも伝わっていたように思います。
著者は「共通一次が三大予備校の肥大化をもたらす」と見出しに書いています。
1979(昭和54)年、大学共通第一次学力試験(共通一次)が導入される。国立大入試はそれまで一期校、二期校に分かれて試験日程が異なっていたため二校受験できたが(たとえば一期校の東京大と二期校の横浜国立大)、共通一次導入と同時に、国立大学の受験回数は1回に限られるようになった。受験生は共通一次の点数で志望校を決めなければならなくなる。
予備校は受験生の自己採点(共通一次の結果)の点数を集め、そこから合否のボーダーラインを出す。受験生はこれに頼るしかなかった。共通一次は1000点満点で、「850点以上ならば東京大学合格圏内」といった具合だ。国立大学入試では二段階選抜が行われ、一段階目の共通一次の点数でふるいにかけられ、いったんここで合否が決まる。受験生は合格最低点を知る必要がある。予備校は合否のボーダーラインに関する情報を提供していた。こんなことができるのは駿台、河合塾、代ゼミのような、受験生のデータを大量に集められる大規模予備校に限られる。
大学受験制度の改革や共通一次、センター試験が、大手予備校の情報収集能力を際立たせることになり、それによって予備校(とその文化)が発展していったというのも歴史的な事実なのです。
もちろん、国は大手予備校のために仕組みを変えたのではないのでしょうけど。
佐藤忠志氏は1980年代、代々木ゼミナール、東進ハイスクールで英語を教えていた。カラフルなシャツ、ど派手なスーツ、金色のネックレスとブレスレットで着飾っていた。タレント講師、「金ピカ先生」と呼ばれ、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などバラエティ番組に数多く出演し、映画『恐怖のヤッチャン』『ガラスの中の少女』、ドラマ『天までとどけ』『最高の恋人』などにも登場していた。
佐藤氏は2001年参議院議員通常選挙に自由民主党公認で比例区から立候補する。2009年には鹿児島県西之表市(種子島)の市長選に立候補した。いずれも落選する。西之表市長では佐藤忠志ではなく、「金ピカ先生」として市選挙管理委員会に届け出をおこなって受理された。
「教育水準を日本一にしたい。役所で中高生に無料で授業をする」と公約に掲げていた。その後も佐藤氏はときおり、政治的な発言をしていた。「私は都民として利権まみれの東京でのオリンピック開催には大反対。利権屋を儲けさせるだけで都民には迷惑でしかない」(佐藤氏のブログ 2016年8月4日)。
佐藤氏は2018年に亡くなった。亡くなる1か月前、週刊誌が佐藤氏を訪ねた。次のように伝えている。1980年代、佐藤さんの最盛期の講義料は90分で200万。年間2億円以上の収入があった。だが、数千万するクラシックカーを次々購入するなどの浪費がたたり、気づけば一文無しになっていた。電気も止められ、家の中は真っ暗だった。
「電気代もガス代も払えなくてね。今年の五月から生活保護を受けていて、来週、保護費の7万8000円が入ってきたらそこから光熱費を払います。謝礼をもらうと保護を止められちゃうから……」(『週刊現代』2019年9月26日号)
僕もこの記事を読んだ記憶があって、あの「金ピカ先生」が、こんなことになっているのか……と驚いた記憶があります。
テレビにもよく出ていたし、著書(参考書も含めて)は書店でよく見かけていたので、「あんなに活躍していて、高い偏差値の学生たちを教えていた賢いはずの『先生』でも、こんなことになってしまうのか、もともとそういう気質の人だったのか、売れてちやほやされてしまったがゆえの『転落』なのかな……」と、諸行無常、を感じたものです。
これからの日本の人口動態やインターネットの発展を考えると、かつての「予備校文化」が、(少なくとも僕が生きているあいだには)また勢いを取り戻すとは思えません。
なんだか、ひとつの大きな時代と文化の栄枯盛衰を見届けてきた、そんな気がしてくる新書でした。
なんか『カノッサの屈辱』みたいだなあ、あれはあれで、テレビの深夜番組文化のひとつの「到達点」だったよなあ。










