Kindle版もあります。
「黙っていたけど、あなたのお父さんは、役者でクリスマスツリー爆弾事件の 犯人なの。あなたが生まれる前のこと。
それからずっと、十四年も隠れて暮らしてるの
「見つかったらどうなるの?」 「逮捕されちゃう」左翼、革命、学生運動、自己批判、人民の子
……父は、何を守りたかったのだろう?1970年代、連続企業爆破事件の実行犯の一人として指名手配。50年もの逃亡の末、2024年1月に実名を明かして亡くなった、桐島聡。彼の生き様を描いた映画『桐島です』(監督:高橋伴明)は当時の学生運動の描写がリアルだと話題だ。本作のシナリオを書いたのは、同じく高橋伴明監督とタッグを組んだ『夜明けまでバス停で』で数々の評価を得た注目の脚本家・梶原阿貴。 1973年生まれの彼女がなぜ、この作品を克明に書けたのか? それは、彼女の父親も桐島聡と同じように爆破事件に関与し指名手配され逃亡していたからだった。逃亡の中で生まれた娘。家族は嘘を重ねていく。娘は嘘の渦に翻弄される。
「面白かった」
と言っていいのかどうか迷うところもあるのだけれど、こういう「自分には想像もつかないような人生を送ってきた人の体験談」というのは、すごく面白い。一気読みしてしまいました。
著者は僕とほぼ同世代の1973年生まれで、役者としても活躍され(『櫻の園』にも中島ひろ子さんやつみきみほさんと出演されていたんですね)、脚本家としてもアニメ『名探偵コナン』なども手がけておられます。
2025年に公開された映画『桐島です』の脚本を書くことになり、この『爆弾犯の娘』を同時期に上梓されたそうです。
「桐島聡」を名乗る男が名乗り出た、というニュースを聞いたときには、僕も驚きました。
「おい、桐島!」というポスターはずっと見かけていて、こんな昔の写真じゃ、もう捕まらないんだろうな、それにしても、どうやって警察や周囲の目から隠れているんだろう、もう生きてはいないのでは?と思っていたので。
著者のお父さんは、元役者で、石橋蓮司さんや緑魔子さんと共演され、役者としての将来も嘱望されていたようです。
それが、「いまの世の中を変えるには、演劇だけでは難しい」と思い詰め、「活動」の一環として爆弾を仕掛け、(死者は出なかったものの)犠牲者が出てしまった。
そこから、お父さんの「逃亡生活」がはじまります。
僕はオサマ・ビンラディンの潜伏生活を題材にしたドキュメンタリーを見たり、あさま山荘事件などを起こした日本の新左翼に関する本を読んだりもしてきたので、それなりの予備知識はあったつもりなのですが、この本を読んで、「爆弾犯」「活動家」として逃亡生活をおくることの過酷さとともに、ひとりの人間が「犯罪者」「逃亡者」になることによる周囲への負担を痛感しました。
とはいえ、この本を書いた、「爆弾犯の娘」である梶原阿貴さんは、その「逃亡生活」を、悲劇としてドラマチックに描いてはいません。
母親や周囲の子どもたちとの日常のなかに、アンタッチャブルな存在で、役に立たないわりにはご飯はたくさん食べるし理屈っぽいし働かない異物としての父親(らしき人)がいる、という状況を、まさにドラマの脚本のようにユーモアをまじえて書いているのです。
母が奥の部屋をノックする。すると、部屋の暗がりから、いつものように「あいつ」が現れる。あいつはいつものようにくぐもった声でこう言った。
「おかえり。僕もさっき戻ったところなんだ」
いつもの青白い男の顔に表情はない。私も機械的に表情を失くしてしまう。しかし母は、笑顔で返すのだ。
「お仕事お疲れ様でした。すぐご飯にするね」
これが、毎日のように繰り返される我が家の儀式、否、茶番劇。私がこのやりとりにうんざりしていることを、母は気づいていて、気づかないふりをする・母に言わせれば、「あいつ」は私が学校に行ったあと会社に行き、私たちが戻ってくる少し前に帰宅しているという。電車通勤をしているというが、その会社がどこにあるのかは、教えてもらえない。靴を持っていない人がどうやって会社に行けるのか? 裸足で電車に乗っていても怒られないか? あいつが時々かけているメガネにガラスが入っていないことを、母は知っているか? これらの疑問を訊いてはいけないことは、子供心に分かっていた。
そう、あいつが持っていないのは靴だけではない。もっと大切なもの、「名前」がなかった。
私は「あいつ」の名前を知らなかった。
名前がないと、その人の輪郭はあやふやになる。
電話のベルが鳴っている。三回鳴って、切れて、また三回鳴って、切れた。そしてまた鳴り出すと、ここでやっと母が受話器を取る。「…もしもし」。こんな時間に三回鳴らす暗号を使って電話をしてくるのは多分「ドウシ」だ。前に父と母が口論をしているのを盗み聞きしたことがある。
「……だから、このセンプク生活を続けること自体が運動なんだよ」
「でもその運動だって、結局は女が支えているわけじゃない? なのになんであんたたち男は自分たちばかりが戦ってるような顔してるの?」
この時、母が言った「あんたたち」が、ドウシのようだった。母は多分ドウシのことが嫌いだ。でもドウシは、カンパを集めたり、他にもいろいろな連絡をしてくれたりする重要な存在らしい。母はこの生活に疲れてきているとも言っていた。1978年頃だっただろうか、あいつのいないところでは、「こんな生活に、意味はない」とも言っていた。「あの子は私が産んだの。ジンミンじゃなくてワタシタチの娘なの。そうやって運動の象徴みたいにしないでよ!」
母は乱暴に言ったあと、傍らに立っていたあいつに受話器を渡して、そのまま奥の部屋に行ってしまった。父の声はくぐもって低いので、ここからは聞き取れない。ジンミンノコ……。それはミジンコの仲間なのだろうか。
『あさま山荘事件』を起こした連合赤軍や1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教のメンバーたちの手記や関係者に取材したノンフィクションを読んでいると、彼らは「本気」だった、というのと同時に、「革命家や改革者を演じているうちに、後戻りできなくなってしまった人々」のようにも感じるのです。
実際のところ、著者のお父さんである「爆弾犯」も、警察に捕まらないためにずっと逃亡・隠遁生活を続けているのですが、娘からみれば、「ずっと家に引きこもっていて働かず、スパイごっこ(「ごっこ」じゃないんでしょうけど)みたいなことをやって、妻に生活の面倒をみてもらいながら偉そうに難しいことばかり言っている人」でしかない。
「潜伏生活を続けること自体が運動」というのは、警察のリソースを浪費させる、という意味では正しいのかもしれませんが、まだ若くていろんな可能性を持っていた人が、「潜伏すること」「捕まらないこと」だけに時間を費やし、その後も長い間服役することになったのは、やっぱり「もったいない」気はするのです。
長く潜伏していれば、そんな生活に本人も周囲の人も疲れてくるのは当たり前だし、社会の変化にさらされている支援者たちも「こんなことに意味があるのだろうか?」と思うようになりますよね。
その一方で、こういう形で「仲間」の人生を変えてしまったことへの罪の意識は消えないし、支援を簡単に打ち切ることもできない。
著者のお父さんの潜伏生活は、著者にとって思いがけない形で終わることになるのですが、同世代を生きてきた僕からみると、「なんかせっかくの人生、ムダにしちゃったんじゃないかなあ……」と言いたくなってしまいます。
仲間は人気俳優、自分は爆弾犯。
「真面目」で「この世の中をなんとかしなければ」と思い詰めてしまったからこそ、日陰で生きる道を選ぶことになってしまった著者のお父さんは、かわいそうな気もするし、そんなお父さんの爆弾で人生が変わってしまった人たちは、もっとかわいそうというか、理不尽でもあります。
著者が、この本のなかで、父親の量刑について、「爆弾で人が死んだわけじゃないんだから、量刑が重すぎるのではないか」と感じたと書いているのを読んで、僕は、「でも、おかげでずっと歩けなくなった人や、トラウマを抱えた(であろう)人もいるのに、あまりにも罪の意識が軽すぎるのでは?」とイラっとしたんですよね。
その一方で、著者が爆弾を仕掛けたわけでもないし、犯罪者の身内の感覚って、このくらいが「リアル」なのかもしれないな、とも思ったのです。
「爆弾犯の娘」としての生活や思考を、「配慮」して罪の意識だらけにしたり、被害者への謝罪や罪悪感を強調したりしていないのは、この本の「なんかモヤモヤする」ところであり、「実際はこんなもんだよな」と、納得させられるところでもありました。
「僕のこと、お母さんに聞いたんでしょう?」
「うん、新聞の記事を見せてもらった」
「どう思った?」
「……どう、って」
「怖いと思った?」
「ううん。でもさ」
「うん?」
「なんで爆弾なんか仕掛けたの?」
父はここで立ち止まった。母は、ベトナム戦争や沖縄の基地に反対しているから、そのための行動を起こしたのだと言っていた。世の中に差別や貧困がなくなり、みんなが平等になるように、世界が平和になるように。でも、そのことと爆弾を仕掛けることは、真逆なことのような気がしていた。
「演劇だけじゃダメだと思った」
「どういうこと?」
「演劇の力で世の中を変えたいって思ってたけど、それだけじゃ足りないと思ったんだ」
自分のことよりも「世界」とか「社会」の方を優先したのだということは分かった。ただそのために、せっかくの役者の道を閉ざしてしまったこと、もうすでに14年もの時間を無駄にしていること、この先、刑務所での時間も無駄にすること、家族と離れ離れになること……人生と引き換えにしてでもやらなければならなかったことなのかどうかは、分からなかった。爆弾闘争って一体なんなのだろうか。
今の世の中、2026年を生きている僕の感覚からすれば、「そんなことで世の中は変わらないし、関係ない人を犠牲にしてしまった。本人や家族も時間を浪費しただけだった」と総括したくなるのです。
でも、「自分や自分の周りの人さえよければいい」という考えが「あたりまえのこと」になってしまった社会というのも、やっぱり怖い。
それが「時代の本音」なのだとしても。
「歴史は繰り返す」というけれど、過激な学生運動でみんな思い知らされたはずなのに、オウム事件が起こったり、2026年にもフェイクニュースやネット炎上はあふれています。
理想に生きようとして、現実に翻弄された著者の家族の記録は、なんだかとても演劇じみているし、区切りがついたときの家族それぞれの感情の移ろいも「人間って、家族って、そんなものだよなあ」と感じました。
僕は下世話な人間なので、正直、「逃亡犯とその家族の生活って、こんな感じなのか」「こんな人生をおくってきた人が、同世代にいるのか」と、最後のページまで見届けずにはいられなかったのです。
この本のオビには、
本書で伝えたいのは「どんな環境に生まれても努力次第で人生は切り拓ける」ということでは断じてありません。
という著者の言葉が書かれています。
あらためて考えてみると、ものすごく深刻な話のはずなのですが、「他人の人生って、面白い」のです。やっぱり。
なんのかんの言っても、著者は「生まれた環境をその後の仕事に活かしている」と言えなくもないですし。不本意かもしれないけど。










