
野心家の父ジョセフのもとで厳しいレッスンを受け、兄弟グループ「ジャクソン5」のメンバーとして幼くして成功を収めたマイケル・ジャクソン。やがて名プロデューサーのクインシー・ジョーンズと出会った彼は、ソロアーティストとして数々の歴史的名曲を生み出し、瞬く間に時代の寵児となっていく。しかしその栄光の裏には、早熟の天才ゆえの孤独感や、強権的な父の呪縛、家族への愛と自分の中にあふれるビジョンとの間で葛藤するひとりの人間の姿があった。
2026年10作目の劇場鑑賞。平日の夕方、19時からの回を観ました。
観客は20人くらいで、けっこう広い世代の人たちがいたのです。
感想としては、とにかく懐かしいマイケル・ジャクソンの曲がたくさん聞けて(『ジャクソン5』時代の曲もたくさんあって、それは僕にとっては守備範囲外ではありましたが)、ダンスも見ることができて、楽しかった。
僕自身は、マイケル・ジャクソンの大ファンというわけではないのです。
『ジャクソン5』の代表曲のひとつ、”I'll Be There”が流れてきて思い出すのは、マライア・キャリーのカバーですし。
マライア・キャリーの”I'll Be There”良かったよなあ!
シンデレラストーリーだった「歌姫」が、その後、さまざまなスキャンダルや私生活の問題に見舞われてしまったのも、マイケル・ジャクソンをなぞってしまったようにも思われます。
この映画の中の子供マイケルでも描かれているのですが、「スター」というのは、周囲から写真やサインを求められ、チヤホヤされる一方で、「対等の人間として見てもらえない」。
これを書いていて気になって調べて見たのですが、マライア・キャリーは元夫からのDVや離婚後の仕事でのトラブル(元夫はレコード会社の偉い人だったのです)などで、双極性障害を発症し、いまも闘病中なのだそうです。
2002年にマライアの”Through the Rain”を聴いたときには、彼女の人生を重ねてしまって、涙が止まらなくなったのを思い出します。もちろん、マライアは生きているし、彼女の歌も活きているのですが。
あんなに幸せそうにクリスマスを歌っていた人が、とか、つい考えてしまいます。
僕自身は、マイケル・ジャクソンのCDは持っていたけど(当時はみんな持っていたし)、大ファンというわけじゃなかった。
セガの体感ゲームの筐体を贈られたり、有名デパートを貸切にして一人で買い物をしたり、というようなエピソードを聴いて、「すごいなー、世界的な大スターは違うなあ、羨ましい」と思うのと同時に「ひとりで高級デパートを貸切にしたら、たくさん買わなきゃいけないプレッシャーがすごいだろうな」と、小市民的な心配もしていたのです。
大ファンじゃなくても、『Beat It』や『BAD』が流れてくると、「ああ!」と心も身体も揺さぶられてしまう。
マイケルのムーンウォーク、小学校で掃除の時間に男子がみんな真似していたのを思い出します。
この映画の中でも、キレキレのダンスシーンが見られて、マイケルの真似をしていた頃の自分や友達の記憶が蘇ってきました。
マイケル・ジャクソンは、もう、ファンだとかファンじゃないとかじゃなくて、1970年代から80年代の時代のアイコンだったのです。
チンパンジーのバブルス君(この映画にも出てきます)や、個人でつくりあげた遊園地『ネバーランド』、子どもが大好きだったけれど、その子どもに関するスキャンダルが報じられたり、整形が話題になったり、リアルタイムでは、決して「聖人君子」ではなかった。
けっこうネタとして消費されたところもあったんですよね、マイケル・ジャクソンって。
そういう下世話なネタを提供してくれるところも含めて、僕が知る限り「不世出のスーパースター」だったのは間違いありません。
ファンじゃなくても、あの時代を生きた人で、マイケル・ジャクソンの曲を聴いて、当時の自分のことを思い出さない人は、たぶんいない。
正直なところ、この映画のストーリーに関しては、マイケル・ジャクソンを「聖人化」「いいとこどり」しているように感じました。
大坂夏の陣で、「(豊臣)秀頼殿を助けたい」「平和な世の中を作りたい」と戦後平和教育的な価値観で天下をとる大河ドラマの『徳川家康』や、織田信長とやたらと仲良しな明智光秀の『麒麟がくる』のような居心地の悪さがあったのです。
主人公だからって、ちょっと美化しすぎなんじゃない?
ただ、この映画の観客は、僕も含めて、マイケル・ジャクソンのファンがどうかはさておき、「あの時代」とマイケルの音楽・ダンスに浸りたいのであって、マイケル・ジャクソンを断罪するドキュメンタリーを見たいわけではないんですよね。
それは、すごくよくわかるし、マイケルのスキャンダルをあれこれ取り上げるには上映時間も足りない。
そもそも、そんな話が出まくる前の「きれいなマイケル・ジャクソン」時代が主に描かれています。
父親・ジョゼフによる「底辺から成り上がるための芸能教育」が描かれ、「うわあ、『毒親』!マイケルかわいそう」「あのスーパースターには、こんな呪縛があったのか」と観客はマイケルに同情するのです。
……と言いたいところなのですが、たしかに「ひどい父親」なんですが、「じゃあ、父親がこんな強権的な人じゃなくて、マイケルに芸を仕込むことなく自由にさせていたら、『天才アーティスト、マイケル・ジャクソン』は存在していたのだろうか?」と僕は考えてしまうのです。
「毒親」に支配されることはないけれど、平々凡々な「労働者」として人生を送るのと、毒親のわがままと支配に振り回されながらも、「スーパースター」になれるのと、どっちが「マシ」なのか?
野球のイチロー選手のお父さんも、ずっと練習に付き合ってイチロー選手を育てたことが知られていますよね。
「チチロー」なんて呼ばれて、その子育て術はけっこう話題になりました。
それもまた、イチロー選手という「結果」が出たからみんな罵声を浴びせないだけで、「毒親ムーブ」ではないのか?
僕自身、子どもたちを見て、自分の子供の頃を思い出して、考えてしまいます。
子どもに「やりたいことをやれ」と言うけれど、子どもの感覚で本当に「今、やりたいこと」をやっていたら、「大人になったら、なりたいもの」にはなれない(なれなかった)のではないか、と。
いや、ある程度親のプレッシャーでやらされても、大概の人生って、なりたいものには、なれないものではあるんですけどね(もちろん僕もそうです)。
結局のところ、「結果論」でしか語られないし、世の中には「同じくらいの才能はあったけれど、毒親を引かなかったために平凡な人として一生を終えた人」って、けっこういるのかもしれません。
人間にとって「幸せ」ってなんだろう?
この映画は、常に「マイケルの視点」で語られていて、超絶天才アーティスト、マイケル・ジャクソンと「ジャクソン・ファミリーの絆にこだわり続け、マイケルを縛る父親」との葛藤が描かれているのですが、みんなが「マイケル」のほうばかり向いているなかで、ジャクソン5の他の兄弟たちは、マイケルをどう見て、どう接してきたのか、とも考えてしまうのです。
マイケルの恩恵を受けながらも、やっぱり辛かったんじゃないかなあ、とか。
女性である、ということで、『ジャクソン5』のメンバーではなかったラトーヤにとって、マイケルはどんな存在だったのだろう?
「そういうのを見せたい映画じゃない」のも間違いなくて、マイケル・ジャクソンを思いっきり「美化」し、彼の圧倒的なパフォーマンスを再確認しながら、当時の自分の記憶を辿ってみることができる、そんな映画ではあるんですよね。
これを書きながら思ったのですが、これは、上映時間が2時間あまりで膀胱に優しい、人間関係のドロドロした面や芸能界のしきたりなどにあまり踏み込まない、マイケル・ジャクソン版『国宝』なのでしょう。
「すごい芸」のためには、「凄まじい人生経験」が必要なのか?
芸が素晴らしかったら、その人が他者を傷つけてきたことも「芸の肥やし」として大目にみてもらえるのか?
「そんなことない!」って声が聞こえてきそうですが、実際のところ、観客はいつも移り気でダブルスタンダードで、「世論」に沿って手のひらをクルクルと返しまくる存在です。
そういう意味では、この映画は、続編は無いほうが良いんじゃないかな、”Heal the World”は聴きたいけれど。
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