Kindle版もあります。
SNSで駆り立てられた「正義」。「真の弱者」から向けられた「偽りの弱者」への怒り。多くの人々が「この社会で損をしている」という思いに突き動かされている今、社会の至るところで噴出する「敵意」や「憎悪」から、私たちは何を聞き取るのか。そして、どう向き合うべきなのか。もっともクリティカルな日本社会論!
本当の「弱者」とは誰なのか?
ネットニュースへのコメントやSNSをみていると、「困っている人」に対して、「そのくらいはたいしたことはない」「自分のほうがもっときつい状況にある」というような「逆マウンティング」を見かけることが多いのです。
「高齢者は恵まれていて、日本が豊かだった時代の『貯金』で、逃げ切ろうとしている」と感じている人は多いのかもしれませんが、僕が病院でみている高齢者たちの多くは、年金だけでは生活できず、「こんな年齢、体調でも働いているのか」という状況で、老々介護に疲れ果てていたり、家族も困窮しています。
富裕層が多い地域の病院ならば、別の光景がみえるのかもしれませんが……
近年、日本でも、参政党などの「日本人ファースト」を掲げる政党が勢力を伸ばしてきています。
僕は彼らの主張を聞いて、「こんな時代錯誤で差別を助長するような公約なのに、なぜ投票する人がこんなにいるんだろう?」と疑問でした。
高齢者や外国人を差別するような社会で、自分が差別される側になったらどうなるのか、想像できないのだろうか?
高市政権の政策にしても、物価の上昇がみられ、大企業の給料や株価は上がっているけれど、その恩恵を受けられない人のほうが多数派なのに。
そんな僕の疑問に対して、ある程度答えてくれる本でした。
ひろゆきさん、安倍晋三元首相を暗殺した山上徹也容疑者、都知事選で予想以上の支持を集めた石丸伸二さん、参政党。
「社会現象」を巻き起こし、賛否両論となった(暗殺事件に「賛成」は少なかったとしても山上容疑者の境遇に対しては、同情の声も少なくありません)人や組織を題材に、「彼らはなぜこんなに支持されたのか?」「誰が彼らを支持している(いた)のか?」が検証されています。
石丸伸二さんに関しては、恋愛バラエティショーに出演されている姿をみていると、「あの都知事選での活躍は、いったいなんだったんだろう……」とも思うんですけどね。
ガーシー氏にしても、どうしてこの人がこんなに支持されたのか、と疑問になるのと同時に、いったん求心力を失うと、みんな彼らの存在すら忘れてしまっているようにすら感じます。
石丸伸二さんの都知事選での政策についての動画は、自分の政策よりも「若者への自己啓発的な内容だった(あるいは、そういう動画の再生数が多かった)」と著者は述べています。
僕は、なんでこんな具体的な政策をアピールできない人が支持されているんだろう?と疑問だったのですが、著者はこう分析しています。
自己啓発によって自己実現を図るというその志向は、一人一人が自己の成長を目指すことを意味するものだ。それはいつの時代でも若者世代に求められてきたことだが、しかし今日の社会ではややニュアンスが異なっている。
低成長の時代しか知らず、社会全体が成長していくというイメージを持ちにくい彼らには、その一員であるだけでは成長できないという感覚があるのではないだろうか。つまり社会の成長戦略は当てにならず、それに乗っていてもジリ貧になるばかりなので、自己の成長戦略が別途必要となる、というわけだ。その結果、「社会のよき一員」になるよりも「よき自分」になることが重視され、自己啓発的な意識が高まる一方で、社会的なものへの関心が薄らいでいく。
いわば社会は当てにならないというそうした感覚は、とりわけ社会保障をめぐる議論に顕著に現れる。ジリ貧になっていく社会保障制度のもとでは、自分の将来が守られるかどうかもわからないのに負担は増すばかりなので、もっぱらその受益者だと見られている高齢者に不満がぶつけられ、「老害批判」が加速される。また、どうせ当てにならないのなら負担は小さいほうがよいということで、社会保障給付金全体の抑制が求められ、「小さな政府」が望まれる。
こうして近年、とくに若者世代の意識の中には、自己啓発的な志向と結び付きながらネオリベラルな考え方が浸透してきたのではないだろうか。
ただしそれは、市場競争を勝ち抜いていこうとする者にありがちな考え方、すなわち強者の論理などではない。むしろ弱い立場に置かれた者が自らの身を守り、何とか生き残っていくための精一杯の手立て、いわば頼りないサバイバル術だ。
著者は、そのサバイバル術のひとつとして「投資ブーム」を挙げています。新NISAの推奨などで、本来は政府の役割のはずの経済成長戦略や社会保障の設計を、国民に「丸投げ」しているのではないか?という苦い感覚とともに。
どうせ自分たちはもらえないのに、年金の積み立てを払うなんてバカバカしい、という声は僕もけっこう耳にするのです。
最後は国が、社会保障がなんとかしてくれる、という信頼があれば、みんなそのための税金も受け入れやすいし、昭和の日本はそうだったのだと思います。
でも、いま、どんどん高齢化がすすんでいく日本では、「どうせ将来見捨てられるのなら、いま社会保障費を負担しても払い損」だと考えてしまうのも無理はない。
チャリティー番組『愛は地球を救う』を観て、多額の寄付をしていた時代の日本には、まだ希望と将来への信頼があった、ということなのでしょう。
みんな「自分のことで精いっぱい」の時代になっているのです。
いや、「みんな」ではないですよね。
格差の大きさを示す指標であるジニ係数には、税制や社会保障制度による所得再分配の前のものと後のものとがあるが、日本ではとくに1990年代以降、再分配前の値は大きく上昇しているものの、再分配後の値は微増するに留まっている。たとえば厚生労働省の調査では、1996年と2023年を比較した場合、前者は0.3764から0.5037へと大きく変化しているが、後者は0.3096から0.3163へとほとんど変化していない。このことは、日本では所得格差が拡大している一方で、その分、所得再分配の強化が進められてきたことを意味している。
そこで富の主な移転先となっているのは、とりわけ高齢化の進行によって急増してきた高齢者層だが、では主な移転元となっているのは、格差の拡大によって生み出されてきた層、すなわち富裕層かというと、実は必ずしもそうではない。
ここで富裕層をめぐる状況に目を向けてみよう。日本では1980年代半ば以降、富裕層に有利になるような税制改革が繰り返し行われてきた。ピーク時にはそれぞれ70%、75%だった所得税と相続税の最高税率は、現在では45%、55%となっており、とくに金融所得については分離課税の扱いで、約20%という低税率となっている。そのため給与所得よりも金融所得の割合が高い富裕層では、所得が1億円を超えるあたりで所得税の負担率が低下するという、「1億円の壁」の問題が指摘されている。また、社会保険料についても上限が設定されているため、富裕層になればなるほど負担率は低下する。
このように今日では、富裕層からの所得移転の機能が大きく損なわれてしまっている。そうしたなかで再分配の強化が進められてきたため、一般の人々の負担が増すことになり、しかも主な移転先が高齢者層であることから、現役世代の不公平感が高まることになる。そこから生まれてきたのが世代間格差をめぐる議論であり、新旧対立という争点だったと言えるだろう。
こうしたことからすると、この問題の核心にあるのは、実は高齢者を優遇する政治ではなく、むしろ富裕層を優遇する政治だということになる。そしてそれを推し進めてきたのは、1980年代半ば以降、日本社会の中に徐々に姿を現してきたネオリベラリズムの政治だった。つまり世代間格差と言う問題の実質は、ネオリベラリズムによってもたらされた貧富の格差という問題だと見ることができる。
日本社会では、現在でも再分配はそれなりに機能しているのです。
そこで、高齢者が優遇されているようなイメージを持ってしまいがちだけれど、実際は富裕層の負担が軽くなり、中間層、一般の人たちの負担が重くなっています。
富裕層優遇については、人々の「やる気」や「向上心」を増すため、富裕層の海外への逃避を防ぐため、というような理由があるのだとしても、中間層が、「なんだか自分たちばっかり損をさせられている」感覚になるのは当然でしょう。
置かれている状況や体調、貧困への耐性を考えれば、高齢者への再分配は必要だし、誰もが富裕層になれるわけではないけれど、生きていれば高齢者にはなる。
にもかかわらず、高齢者は「仮想敵」として、批判される。
「もっと金持ちから税金取れよ!」って声は、ほとんど聞こえてこない。
メディアでの発言力がある人の多くは「富裕層」だから、彼らのポジショントークに誘導されている面もありそうです。
今の日本では、「中間層」と呼ばれる人たちの年収の中央値がどんどん減ってきており、「1億総中流」なんて言われていた時代とは、様相が大きく異なっています。
排外主義、太平洋戦争前のような家族主義を訴える参政党がなぜ支持されるのか?という問いには、こんな答えが提示されています。
著者は、参政党の政策を「左から入って右に行く」と述べているのです。
格差の是正、積極的な財政政策(国債発行などで得たお金をどんどん使っていく)による中間層への経済的な負担の改善を訴えて中間層を引きつけ、排外主義や家族主義政策に慣らしていく。
そういえば、うちの郵便受けに入っていた参政党の候補者のチラシも、「地元と家族を愛する、善き市民」的な内容だったものなあ。
これら(収入増や経済格差是正)の問題提起が導入部にあり、一方で右派的な主張が結論部にあるという彼らの政策は、いわば「左から入って右に行く」というスタンスのものだった。しかもとくに「共感調達パート」の議論が左派的なものだったことを考えると、彼らが広く支持されたのは、実はその右派的な主張のゆえではなく、むしろ左派的な問題提起のゆえだったのではないだろうか。
しかしリベラル派はそうした部分を評価することはせず、右派的な主張を批判することに終始した。その結果、支持層は左派的なところを支持しているのに批判層は右派的なところを批判している、という具合になり、ますます議論が嚙み合わなくなってしまったのだろう。
ではそもそもなぜ「左から入って右に行く」という彼らのスタンスが広く支持されたのだろうか。左派的な問題提起に人々が共鳴したのなら、そのまま左に行くほうが、つまり左派的な主張を支持するほうがむしろ自然だったのではないか。にもかかわらず、つまり左派的な問題提起が広く受け入れられたにもかかわらず、左派的な主張が受け入れられなかったのはなぜなのか。
その端的な理由は、左派的な主張、つまりリベラル派のイデオロギーでは「端っこ」が優遇され、「真ん中」が冷遇されてしまうと考えられたためだろう。その場合の「端っこ」とは、第一に経済政策における貧困層であり、第二に文化政策におけるマイノリティだ。
まず経済政策の面では、リベラル派は所得再分配にの強化を主張し、貧困層を守ろうとする。しかし近年のスキームでは、「上から取る」よりも「真ん中から取る」ほうが優勢になってしまっているため、再分配が強化されるとなると、「真ん中」の人々には負担がさらに増すように感じられてしまう。つまり自分たちは受益層ではなく、もっぱら負担層だという意識が強いので、再分配政策そのものがまず支持されない。
加えて近年のリベラル派のイデオロギーでは、とくにアイデンティティ・ポリティクスに伴う文化論争が優勢となり、経済闘争という観点がそもそも希薄化してしまっている。マイノリティを守ることに躍起になるあまり、貧困層を守るという元来の課題を忘れてしまっているかのように見えるリベラル派に、経済的に苦しんでいる人々が支持を与えることなど、それどころか信頼を寄せることさえできなかったのだろう。
そうしたことから「真ん中」の人々はリベラル派にそっぽを向き、反感を抱きさえする。その結果、左派的な問題提起に共鳴しながらも右派的な主張を支持する、というスタンスが選択されたのではないだろうか。
既存の「リベラル」は、高齢者や貧困者、マイノリティなどの「わかりやすい弱者」のほうばかりを向いて、「なんとか中間層にギリギリしがみついている人たち」を助けてくれなかった。
それどころか、中間層は「あなたたちは『弱者』ではないのだから、弱者のために我慢しなさい」と言われ続けてきたのです。
「弱者」は社会保障などで「優遇」してもらえるのに、「弱者認定されないくらいの『曖昧な弱者』」への搾取は止まらない。
自分たちと彼らは、そんなに「違う」のか?
リベラルは助けたい、わかりやすい弱者を助けて良い気分になっているだけなんじゃないか?
参政党の主張を信じている、支持しているというよりは、既存の政党やリベラルに期待できず、とにかく今の状況をぶっ壊してくれそうな人たちに投票する。
そして、投票後の彼らの行動に幻滅する。その繰り返し。
ただ、「支援する」ほうの立場からすれば、経済的、人的リソースが有限であるかぎり、どこから「助ける人と助けない人の線引き」をしなければならないのも事実です。
本当に、どうすればいいのか、富裕層の負担を大きくすれば状況は改善されるのか。富裕層は、それを受け入れるのか。
なんかもう、「ガス抜きのための戦争」が起こるのではないか、などと想像してしまいます。










