Kindle版もあります。
断言する。若者が選挙に行って「政治参加」したくらいでは日本は何も変わらない。
これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか? 選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ゲームのルールを変えること、つまり革命であるーー。
22世紀に向けて、読むと社会の見え方が変わる唯一無二の一冊。
次の日曜日、2022年7月10日は参議院選挙です。正直なところ、今回の選挙では、どこも支持したくないというか、投票した人や政党を「支持」したことになるのか……という憂鬱な気分でさえあるのです。
「○○が、鬼退治をいたします!」
……桃太郎侍かよ……(若い人はたぶん知らない)
「政治家に身を切る覚悟がなければ、改革は進まない!」
……って、あなたの党のあの柄の悪い連中をまずはどうにかしてくれませんか……こう言っている人が何の実績も残していない創薬メーカーの広告塔みたいなことをずっとやっているってどうなの……
すみません、ちょっと思ったことを書き過ぎました。政治と野球の話は親しくない人とするべきではないし、ブログに書くべきではない。それが処世術というものですね。
この『22世紀の民主主義』という本は、チャーチルの有名な
「民主主義は最悪の政治といえる。 これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」
という言葉への2022年、IT社会に生きる著者からの挑戦状、みたいなものだと思います。
僕自身は、ずっと戦後の民主主義の日本で生きてきて、それ以外の政体で一市民であった経験がないのです。
それでも、ソ連崩壊や中国の「実質資本主義化」などをみてきて、社会主義(共産主義)は、素晴らしい理想ではあっても、それを運用できるほど、人間は完璧な生きものではない、とは思っているのです。
その一方で、アメリカの若者や僕の子どもがソ連や社会主義に興味を持っているのをみて、格差がどんどん拡大している日本で過ごしていると、「自分が社会主義国で生きたいとは思わないけれど、「共産化への危機感」がある世界での資本主義国家のほうが、「資本主義ひとり勝ちの世界」よりも生きやすいのではないか、と考えてしまいます。
選挙の前になると、「みんな選挙に行こう!」あるいは「選挙に行ってきました!」という書き込みが、SNSで多数みられるようになります。
民主主義国家では、選挙というのは市民にとって最大の意思表示の場であり、選挙に行かないというのは、先人の努力で築かれた大切な「権利」を捨てることだ。
それはたしかに、そうなのだけれど。
僕のような地方暮らしで、長年、「自民党前職対共産党から出た候補」という選挙に投票していると「これで社会が変わるのかねえ。いやなんか選挙権がもったいないから投票しているけど……」みたいな気分にはなります。
著者は、この本の最初に、こう書いています。
だが、断言する。若者が選挙に行って「政治参加」したくらいでは何も変わらない。今の日本人の平均年齢は48歳くらいで、30歳未満の人口は全体の26%。全有権者に占める30歳未満の有権者の割合は13.1%。2021年の衆議院選挙における全投票者に占める30歳未満の投票者の割合にいたっては8.6%でしかない。若者は超超マイノリティである。若者の投票率が上がって60~70代と同じくらい選挙に行くようになっても、今は超超マイノリティの若者が超マイノリティになるだけ。選挙で負けるマイノリティであることは変わりない。
若者自身の行動も追い打ちをかける。日本の若者の投票先は高齢者の投票先とほとんど変わらないという事実だ。20~30代の自民党支持率は、60~70代とほとんど同じかむしろ高い。ということは、若者たちが選挙に行ったところで選挙結果は変わらないし、政治家にプレッシャーを与えることもできない。
もっと言えば、今の日本の政治や社会は、若者の政治参加や選挙に行くといった生ぬるい行動で変わるような、そんな甘っちょろい状況にない。数十年びくともしない慢性の停滞と危機に陥っており、それをひっくり返すのは錆びついて沈みゆく昭和の豪華客船を水中から引き揚げるような大事業だ。
「若者の政治参加」くらいで、政治は、いまの衆愚化した(とはいえ、民主主義というのは、つねに「衆愚化」しているものではないか、と著者は問題提起してもいますが)日本は変わらない、と著者は述べています。
そして、21世紀に入ってからの世界をデータで分析してみると、「より民主主義的な国」のほうが、経済発展が停滞しているのです。
僕はその話を読みながら、「より民主的な国には『経済的な先進国』がもともと多いのだから、途上国よりも成長が停滞するのは当たり前じゃないのか?」と考えていたのです。
しかしながら、この本を読んでいると、僕が感じた疑問、ツッコミどころには、そのあとちゃんと、著者が言及してくるんですよね。
しかし、そうではない。たとえば、2000年の時点では同じようなGDP水準だった民主国家と専制国家を比較してみる。すると、もともと同じくらい豊かな国々の間でも、民主国家ほど経済成長が鈍っていることがわかった。「すでに豊かな国の成長率が低いのは当たり前」というだけでは説明できない何かが起きているようなのだ。
新型コロナ禍でも、「民主主義」を大原則としている国では、「個人の権利や自由」を重んじるがゆえに、強権的な行動制限や隔離が難しかったり、対応が遅れたりしたのです。
そして、選挙を重視する代議員制の民主国家では、短期的な「結果」や人々の「イメージ」が重視されるため、わかりやすい現金をばらまくような政策や(その採りあげられかたが良くても悪くても)とにかくマスメディアに露出した候補が当選する、という状況になりやすいのです。
今回の参議院選挙の各党のYouTubeでのCMをみていても「日本を変える!」「改革を進める!」みたいな、ふわっとした威勢のいい言葉だけで、これを観て本当に信じる人がいるのだろうか、と思いますし。
これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか? 選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるかを考える」ことだ。ルールを変えること。つまりちょっとした革命である。
以前、齋藤由多加さん(ゲームデザイナー、『シーマン』の作者)が、著書『ハンバーガーを待つ3分間の値段〜ゲームクリエーターの発想術〜』(幻冬舎)のなかで、こんなことを書かれていました。
大手のゲーム会社を新作の契約を交わすときなどには、手始めにどちらか一社がまず草案を作ります。私の会社のような零細企業などの場合、法務担当者なんていませんから、たいてい大手企業側の法務部がサンプルを作り、それをもとにどこを直せ、いや譲れない、と押し問答の交渉が始まります。
両者とも零細企業の場合は、どちらにも担当者がいないものだから、面倒さにまかせてついつい契約書は後回し、となってしまいがちです。それくらい面倒な仕事です。
なのになぜか、大企業はこのたたき台づくりという面倒な仕事を進んでやってくれるのでありがたい、と思っていたのですが、その理由が最近になってやっとわかりました。彼らは、交渉の焦点がこの草案の修正にあることを知っているからです。
受け取った側の私たちが「ここを直してください」「ここはちょっと合意できない」などと、徹底的に修正を入れたところで、ベースとなっているのは所詮相手の作った条項です。
「○×社の契約書には徹底的に赤字を入れてやったのさ」と得意気に話している私は、まるで仏様の手の上であがいている孫悟空のようなものです。
F1やスキージャンプ(あるいはスキーの複合競技)で、日本のメーカーや選手が勝ちまくった際、欧米が主導権を握っている主催者側は、ルール(レギュレーション)を変えることによって、自分たちがより有利な状況を創り出してきました。
著者は、さまざまな民主政治の「改善案」を提示しています。
たとえば、年齢や推定余命によって、その人の「1票」の価値に差をつける、あるは、マイノリティの権利とマジョリティが求めるもののバランスをとるために、「1人あたり100ポイントの数字を、支持する政策ごとに振り分けていく」というような方法が紹介されています。
また、政治家側には、その人の活動の成果によって報酬が変動する制度や、長期的な政策をとってもらうために、後世に意義がある活動には、年金の増額や株のストックオプションのような形で評価をする、などが提示されているのです(シンガポールでは、実際にこの政治家の成果報酬制が導入されているそうです)。
これまで、政治家や政党を選ぶ、という「属人的」なものであった選挙制度は、本当に正しいのか?
政策には賛同できるけれど、差別発言が多くて人間的には好きになれない、とか、経済政策は良さそうだけれど、過剰な愛国主義的な言動が不安、という候補者は、有権者には悩ましいところです。
完璧な人間なんていないのはわかっているけれど、だからこそ「人に投票する」というシステムではなく、それぞれの政策に投票するようにすればどうか。
世の中のすべての公的な方向性を、いちいち投票で決めるのは現実的には(人間の側が)難しい。
それでは、「近未来の民主主義」には、どんな可能性が考えられるのか?
選挙なしの民主主義の形として提案したいのは「無意識民主主義」だ。センサー民主主義やデータ民主主義、そしてアルゴリズム民主主義と言ってもいい。これは数十年をかけえて22世紀に向けた時間軸で取り組む運動だ。
(中略)
というわけで、心の中を覗いてみよう。インターネットや監視カメラが捉える日常の中での言葉や表情や体反応、安眠度合いや心拍数や脇汗量、ドーパミンやセロトニン、オキシトシンなどの神経伝達物質やホルモンの分泌量……人々の意識と無意識の欲望・意思を掴むあらゆるデータ源から、様々な政策論点やイシューに対する人々の意見が漏れ出している。そこに刻まれているのは「あの制度はいい」「うわぁ嫌いだ……」といった民意データだ。世論調査や「国際価値観調査(World Values Survey)」のような価値観調査が、年中無休で大量に、無数の角度からあらゆる問い・文脈について行われつづけているようなものだ。
(中略)
集めたデータから各論点・イシューについての意思決定を導き出すのは、自動化・機械化された意思決定アルゴリズムである。意思決定は各論点・イシューについて行われる。政党や政治家についてではなく、だ。意思決定アルゴリズムのデザインは、人々の民意データに加え、GDP・失業率・学力達成度・健康寿命・ウェルビーイングといった様々な政策成果指標を組み合わせた目的関数を最適化することで行われる。民意データは「そもそも政策によって何を達成したいと人々が考えているか」という価値基準の発見のために用いられる。続いて、成果指標データはその価値基準にしたがって最適な政策選択を行うために用いられる。
意思決定アルゴリズムは不眠不休で働け、多数の論点・イシューを同時並行的に処理できる。人間が個々の論点について意識的に考えたり決めたりする必要が薄れる。「無意識」民主主義たるゆえんだ。
ネコやゴキブリでなくてもいい。より現実的で短期的には、VTuber(Virtual YouTuber)やバーチャル・インフルエンサーのようなデジタル仮想人がそういう存在になっていくだろう。VTuberが政治家の身代わりになって、生身の人間政治家への誹謗中傷を引き受ける。その仮想人を鬱や自殺にまで追い込むとスッキリする……そんなサービスが出てくれば生身の人間も仮想人もWin-Winだ。そして、VTuberや仮想人の人権を大マジメに議論する時代がくる。
それでは、結果的にAI(人工知能)に支配されているのと同じではないのか?
そういうことも考えてしまうのですが、本当に「AIの言いなりになるのは、人間にとって不幸である」のかどうか?
著者は、無意識のうちに「最適解」が導き出される世界でも、「藁人形としてのバーチャル政治家」が必要だと考えており、大衆の理性に懐疑的なスタンスをとっています。もともと、「民意」が信頼できるものならば、「民主主義の荒廃」なんて起こってはいないのでしょうけど。
選挙カーとかネタみたいな政見放送とかは、僕が物心ついた半世紀前くらいから、ずっと変わっていません。
ネットでの選挙活動は解禁されたのですが、「改革します!」という掛け声だけの短いYouTube動画に何の意味があるのか。
僕は、「こういう『無意識民主主義』が成立した世界」を見てみたい、と思っているのです。
自分が生きているあいだには、実現しないだろう、と考えているからこそ、なのかもしれませんが。
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