琥珀色の戯言

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【読書感想】アントニオ猪木 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

アントニオ猪木が、1度だけロングタイツを履いて試合した時の相手は誰か?」
1992年、フジテレビのマニア向けクイズ番組「カルトQ」のプロレス大会の予選で出た問題である。筆記による全40問のペーパーテストだったが、最も難しかった設問として、個人的に覚えている(正解はジャック・ルージョー。1975年9月19日・千葉公園体育館)。『カルトQ』は、同年3月8日、このプロレス大会を放映した2週後に最終回。番組担当者から、「最後はどうしても、プロレス、やりたかったんですよね」と聞いた。日本全国から、「プロレスをテーマにやって欲しい」の声が絶えなかったのだという。件の予選参加人数は、同番組史上最多の5万人以上と聞いた。
全てとは言わないが、その熱の一因がアントニオ猪木であり、彼の戦いの歴史であることは間違いないと思う。同大会の優勝を遠因にプロレス・ライターとして活動して来た筆者もその1人。ただの偶然だが、あれからちょうど30年、本書に携わらせて頂いたのを嬉しく思う。
・猪木がただ一人だけ、Twitterでフォローしている人物は?
北朝鮮でおこなった自身の試合で、リング上にわざと置いて来た物とは?
・理想とする自身の埋葬法は?
全ての答えが本書にある。


 「いまさら、『アントニオ猪木』を新書一冊で語られてもなあ……」
 というのが、この新書を見つけたときの僕の心境だったのです。

 僕自身は、小学校時代がプロレスブーム華やかなりし頃で、『キン肉マン』も大人気。教室で「プロレスごっこ」をやって怒られた記憶もあります。
 金曜日の夜8時には、毎週『ワールドプロレスリング』を観ていて、「次回シリーズに来日する外国人レスラー」の紹介に、ワクワクしていたものです。

 僕はずっとアントニオ猪木が大好きでした。
 プロ野球の巨人出身で、エリート街道を歩んできたジャイアント馬場に対して、ずっと格下の扱いを受け、日本プロレスを飛び出したものの所属した団体がうまくいかずに古巣に出戻り、そしてまた、追われるようにして『新日本プロレス』を旗揚げした猪木。
 「なぜいつも8時45分になると、延髄斬りが決まって猪木が勝つのか?」という疑問はあったのですが、猪木は「いまに見てろよ!」と思っている多くの人たちにとってのヒーローであり続けています。

 僕はプロレスの試合だけでなく、プロレスについて書かれた本を読むのも大好きで、アントニオ猪木という人へのネガティブな評価や「裏切られた人たちの声」も耳にしてきました。

 新日本プロレスそのものは絶好調だったのに、猪木個人のブラジルでの事業の失敗によって、会社を傾かせ、レスラーたちの待遇が良くならなかったことや、UWFに「自分も行くから」と多くの選手を参加させながら、はしごを外す形で、自分は移籍しなかったこと。

 アントニオ猪木について、蝶野正洋さんが言ったとされる、
アントニオ猪木は太陽だ。遠くから仰ぎ見ると美しくて暖かいが、側にいると焼け死んでしまう」
 という言葉を僕はよく思い出すのです。
 「英雄」とか「カリスマ」というのは、たぶん、そういうものなのだろうな、と。

 そんな、プロレス耳年増、というか「20世紀の日本のプロレスの裏側」をあれこれ覗いてしまった僕にとっては、この新書、逆に新鮮だったんですよ。

 アントニオ猪木は、僕のような「遠くから仰ぎ見るファン」にとっては、やっぱり「太陽」なのだよなあ、って。

 1943年生まれの猪木さんは、もうすぐ80歳になります。病床で、かなり身体が弱った姿を多くの人に自ら晒しながら、それでも「アントニオ猪木」であり続けようとしているのをみると、僕も胸が熱くなってくるのです。
 一時は「でも、プロレスって、シナリオがあるんだよね」とか「猪木はカネの管理がしっかりできなかったし、信じてついてきた人たちを裏切ったこともあったし、レスラーとしてはともかく、人間としては、ねえ……」「政治家になっても、パフォーマンスばっかりだった」と、思っていたんですよ。
 
 でも、アントニオ猪木ほど、「自分の人生すべてをさらけだして生きた人」「パフォーマンスだと言われても、行動してみることをためらわなかった人」は、僕の記憶には他にいないのです。

 春一番の猪木のモノマネは、当初、あくまで仲間内での余興で披露するためのものだった。罰ゲームの類いを受け、
「今日も負けてしまいましたが、気持ち良くやらせて頂きます」
 と入るのが定番だった、これを本格的にテレビで披露する際は、悩みに悩んだという。猪木を物真似の対象とすることに、ファンとして苦悩があったのだ。そんな春も2005年、腎不全で集中治療室に入り、瀕死の状態に。だが、ある日を境に医者が驚くほどの回復を見せた。
 猪木が見舞いに来たのだ。
 この時、正座で待っていた春は半ば最後の願いとして頼んだ。
「ビンタして下さい」
「今日はやめとこうぜ」猪木は即座に返し、続けた。
「それよか、病院の中で会うのはつまんねぇな。元気になったら飲みに行こう」
 結果、春は遂に芸能活動にも復帰した。


 猪木も糖尿病だったのに……
 というか、重い糖尿病を食事療法や薬ではなくトレーニングで治す、という本を猪木が出したときには、医者としては『そんなムチャな……それがうまくいったのは、猪木だったからだよ……」と悶絶した記憶もあるのです。

 この春一番さんが亡くなられたときのエピソードでも紹介されているのですが、まあなんというか、アントニオ猪木というのは、ファンにとって、信者にとっては「神」なんですよね。佐藤優さんがキリスト教についての本で「神というのは、理不尽なことをやるから神なのだ」と仰っていました。

 この新書、おそらく意図的に、「暴露本」的なものではなく、「カリスマとしてのアントニオ猪木」を書いているのだと思います。

 読んでいると、「そうだ、なんのかんの言っても、僕は猪木が大好きなんだよなあ。どこがいい、何が悪い、というよりも、『猪木がやることは許さざるを得ない』のだよなあ」と、40年前に戻ったような気分になります。
 
 著者がみた、あるいは聞いた「アントニオ猪木秘話」もかなり紹介されているのですが、「プロレス界の権謀術数」みたいな内容ではなく、「人間、あるいは政治家としてのアントニオ猪木の一面」が主なのです。

「馬場さん!」
 猪木は引退から半年後の1998年10月19日、馬場と偶然、都内で顔を合わせた。今では割と知られるところとなったが、2人はオフレコではいがみ合うこともなく、友人だった。
 先のオールスター戦(1979年に開催)の半月前にはハワイで極秘に合同特訓を行い、猪木のスーツケースを馬場が車に積み込んでいる姿が目撃されたり、当日の出番直前、控室に取り巻きがいなくなると、突然、2人でゴルフの話をし始めたりした逸話も残る。
 この時も、そんな一瞬だった。馬場は猪木を見て、噴き出した。猪木は5日後に旗揚げする3番目の自団体、UFOの盛り上げのため、力道山の墓前で頭を丸めるというパフォーマンスをした直後だったのだ。
「おい! どうしたんだよ、その頭は(笑)」
「いやあ、俺が盛り立てないとなぁって(笑)」
 そして、その2ヵ月後もまた、都内のホテルで偶然出会い、立ち話。それが2人の、最後の遭遇となった。
 翌1999年1月31日、馬場は大腸ガンで急逝。「謹んで哀悼の意を表します」という猪木のお悔やみの言葉は、海外から伝えられた。馬場逝去の一報が入ったその瞬間、猪木は新たな企画実現のため、第二の故郷、ブラジルはアマゾンの森林の中を車で走っていたのだ。
 晩年の交流を猪木はこう述懐している。
「馬場さんは、いつでも私に会うと、『おまえ、いいよなあ。やりたいことやりやがって』という感じで、よくやるなあと挨拶してくれた」(『文藝春秋』1999年4月号)。


 40年前の僕がこんな話を読んだら、「猪木が馬場に挑戦する、とバチバチやっていたのは『馴れ合い』だったのかよ!」と憤っていたかもしれません。
 でも、こうして僕も年を重ねてきて、2人が「お互いの役割として」緊張感のある関係をアピールしていたことは理解できます。
 そして、実際はそんなに不仲ではなかったということに、なんだか安心してしまうのです。

 1990年の湾岸危機のとき、イスラム世界でも「英雄」として知られていたアントニオ猪木は、自らイラクに乗り込み、在留日本人の人質解放に尽力しています。
 
 当時の僕は「そんなパフォーマンスに意味があるの?かえって現地を混乱させるだけじゃない?」と思っていた記憶があるのです。

(1990年9月)25日に帰国した猪木は、翌月には、再びイラクに飛んでいた。
 同国でプロレスやサッカーや音楽のライブを含めたイベント「平和の祭典」を企画、その折衝のためだった。自らが出馬にあたり興した政党、スポーツ平和党の理念である”スポーツを通じての世界平和”を、地で行こうとしていた。
 意外にもイラク側がこれを受け入れ、開催は12月2日、3日と決定。出演するミュージシャン、及び、猪木が会長を務めていた新日本プロレスの選手たちの顔ぶれが徐々に決まって行ったが、イラクの国情が国情だけに、その数は多かったとは言えない。
 だが一方で、参加にこぞって手を挙げた女性らがいた。人質の妻たちだった。
「危険だ」「命の保証も出来ない」と猪木が言っても無駄だった。
「待つだけは疲れた」
「自分たちの力で、何とかしたい」
 という声ばかりか、
「子供と行かせて下さい」
 と懇願する者までいた。理由を問うと、
「生後10ヵ月の娘が歩けるようになったんです。それを一目でも、夫に見せたい……」
 ここまで切迫した状況にあっても、政界の反応は極端なほど冷たかったのである。
 新たな背景もあった。
 最初のイラク行きから帰国した9月25日、成田空港に駆け付けた報道陣を前に、猪木が珍しく、声を荒げたのだ。
「人間の心を忘れた奴は、総理だろうが誰だろうが、ぶっ殺してやる! 政治家なら命を賭けて現場に行って、イラクと話し合えよ! 日本国内で無責任な発言をするな! 現地にいる人がどれだけ不安だと思ってるんだ!」
 現地日本人会の要請書2通を報道陣に公開した上で、改めて、海部首相に渡すとした。要請書に書かれた日付は、それを強調こそしなかったが、9月4日と6日。これでは首相の面子は丸潰れである。政府の公式な協力など、望むべくもなかった。
 イラク行きに関し国内(というより政界)から上がっていた「スタンドプレー」「ルール違反」という批判についての質問が報道陣から飛んだ。猪木は答えた。
愛する人を取り戻すのに、ルールなんてあるかよ」


 「行動する人、行動できる人」には、魅力があるのです。
 冷静に考えてみると、本当に猪木のやり方が正しかったのかどうかは、なんとも言えません。
 でも、やはりアントニオ猪木「太陽」だと僕も思います。
 世の中には、太陽が必要だし、人は、焼け死ぬかもしれなくても、太陽に近づきたくなるものなのでしょう。

「きれいなアントニオ猪木をまとめた本」ではありますが、今の僕にはとても心地よかったし、プロレス少年だった昔の自分のことを思い出しました。

 燃える闘魂アントニオ猪木
 ハプニングに満ちた人生は、「炎上系ユーチューバー」の先駆けのようにも感じます。
 それでも、あなたが生きているだけで、僕の最大ヒットポイントが、少しだけ上がっている気がするのです。

 
fujipon.hatenadiary.com
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