琥珀色の戯言

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【読書感想】芸能界誕生 ☆☆☆


Kindle版もあります。

「芸能界」というビジネスは、いかにして始まったのか――。占領期のジャズブームに熱狂して音楽を始めた若者たちは、伝説のステージ「日劇エスタン・カーニバル」へ。成功と挫折を経て、彼らは裏方に転身、それぞれがプロダクションを立ち上げ、芸能界を新しく作り変える。その歴史は、戦後日本の"青春"そのものだった。スター誕生の物語、テレビ局やレコード会社との攻防戦など、当事者たちの貴重な証言をもとに壮絶な舞台裏を明かすノンフィクション。


 「芸能界」というか、「芸能プロダクションが誕生し、芸能界を牛耳るようになるまで」という内容の新書です。
 太平洋戦争後の進駐軍への娯楽を提供することからはじまった、戦後日本の「芸能ビジネス」の歴史を、丁寧な取材と検証が持ち味の戸部田 誠(てれびのスキマ)さんが、まだ存命な関係者に取材して書いたもので、貴重な証言集だと思います。

 その一方で、「存命の芸能界の実力者たちからの取材」がメインなので、「戦後芸能史、芸能プロダクションの暗部」的なものは、スルーされてもいるのですが。


www.dailyshincho.jp


 先日、こんなネットニュースを見ました。
 この『田辺エージェンシー』の田邊昭知社長も、この『芸能界誕生』の主な登場人物のひとりなのです。
 その経歴を知ると、田邊社長自身はかなり義理人情を大事にしてきた人ですし、「芸能事務所側からすれば、売れるまでサポートして、ようやく売れて稼げるようになったら独立じゃ、やりきれない」というのもわかります。
 
 田邊さんよりも若い世代の芸能人としては「事務所には十分に貢献したし、好きな仕事をこれからはやりたい」というのが「あたりまえの感覚」なわけで、そのギャップはなかなか埋まらないだろうな、とも思うのです。

 これまで、日本の芸能界を支えてきた(支配してきた)「芸能界のドン」たちは、もう退場しつつありますし。

 東京・有楽町にそびえ立つ王冠をかたどった半円形の劇場・日本劇場。通称・日劇。1981年に閉鎖されるまで、戦後日本のエンターテインメント界の象徴として君臨し、芸能人にとってその舞台に立つことは最高の勲章とされていた。
 1958(昭和33)年2月8日──。
 その日の早朝には日劇の周りを大勢の人たちが二重三重に取り囲んでいた。そのほとんどは10代の若い女性たちだ。彼女たちは外で徹夜をしながら今か今かと開場時間を待ち構え、ある者は現在の表現でいえば「推し」の名前を叫び続け、ある者は居ても立っても居られずその場で踊り出した。
「いったい何事ですか!?」
 本番を控え、深夜から早朝にかけてリハーサルをしていたところに警察官が飛び込んできた。公演を主催する渡辺プロダクションの副社長・渡邊美佐は混乱した。
「こんなに大勢集まって、何か起きたらどうするんだ!」
 その時、美佐は始めて外を見て、「わぁ、スゴい!」と驚いた。
「前もって連絡してくれなければ、こっちが困るじゃないか!」
 説教を続ける警察官に、「そんなこと言ったって、こっちだって分っちゃいなかったんですもの。分るぐらいなら、苦労はないわ」と心の中でつぶやいた。
 それがいまや”伝説”となった「日劇エスタン・カーニバル」の始まりだった。


 渡辺プロダクションホリプロ田辺エージェンシー、ジャニーズなど、現在でも大手として大勢のタレントを擁している芸能事務所の創設者たちの多くが、この「日劇エスタン・カーニバル」のステージに立ったことがあるプレイヤー(芸能人)であり、その中で、マネージメントの才能があったり、プレイヤーよりも裏方向きと自己判断したりした人たちだったのです。

 このライブ(1958年の日劇エスタン・カーニバル)には、その後、現代の「芸能界」で重要な役割を担う者たちが揃っていた。
 渡辺プロダクションの渡邊晋・美佐夫婦は言うまでもない。その美佐の両親で「戦後初の芸能プロダクション」と呼ばれるマナセプロダクションを興した曲直瀬正雄・花子夫婦やその娘の信子や翠、そしてのちに家業を継ぐことになる道枝もまだ10代の頃に会場を訪れている。

 2回ぐらい行きました。でも、母から楽屋のエレベーターはひとりでは乗っちゃダメよって言われました。危ないから(笑)。(曲直瀬道枝)

 このライブの企画発案者であり「スイング・ウエスト」のリーダーとしてギターを弾いていた堀威夫は、のちに渡辺プロの対抗馬となる堀プロダクション(現・ホリプロ)を設立した。

 僕は、渡辺プロやホリプロのような戦後に新しく生まれたプロダクションを「横文字系」と呼んでいるんですよ。戦前からある「縦文字系」は、マネジメントより興行をやるというのが、主たる業務。その中にも興行をやらないでマネジメントだけやるものもごくわずかあったことはあったんですけど、それもレコード会社の下請けみたいな会社が多かった。「横文字系」はその構造を変えたんです。(堀威夫


 スイング・ウエストにはもうひとり「芸能界」で重要な存在となる人物がいた。ドラマーであった田邊昭知である。彼はその後「ザ・スパイダース」の活動を経て、裏方に回り「田辺エージェンシー」を設立する。
 山下敬二郎のバンド「ウエスタン・キャラバン」のリーダーは相澤秀禎。彼はのちに「サンミュージックプロダクション」を立ち上げた。
 山下敬二郎の付き人であった井澤健はその後、「ザ・ドリフターズ」のマネジメントを長年担当し「イザワオフィス」を指揮した。


 現在の大手芸能事務所の多くは、同じステージに立っていた人たちの「狭い世界」の中から生まれ、集合離散してきたのです。

 2023年の僕の感覚では、「旧態依然」というか、「タレントを酷使し、テレビ局のキャスティングにも力を持つ既成の権力」であるこれらの大手芸能事務所も、この本を読むと、創成期には「レコード会社やテレビ・ラジオ局と協力しつつも、壮絶な主導権争いを繰り広げ、ようやく現在の立場を手に入れた」のです。


 堀威夫さんは『東洋企画』という会社で専務として辣腕をふるっていたのですが、「名目上の社長」だった人から疎まれ、結果的に会社を追われてしまいました。それと同時に、ほとんどの人が、堀さんから離れていったのです。

 仲間たちの裏切りに堀は打ちひしがれた。けれど、ほのかな希望はあった。東洋企画最大のスターである守屋浩は堀についてきてくれたのだ。さらに、大きな精神的な拠り所になったのは、田邊昭知だった。彼もまたスイング・ウエストを飛び出す形で堀の元に駆けつけた。

 あっちは信用できなかったから、俺は堀威夫に「おまえ、太鼓たたけ」って言われてすべてが始まったわけだから、やっぱりそれはもうしょうがないよね。ずっとその関係性は変わらない。今でもね。(田邊昭知


 兄弟のようなふたりの強い絆は簡単に切れるはずもなかった。田邊の参加は堀を大いに勇気づけた。

 田邊は男気がありすぎるタイプなんだね。全部俺が育てたやつだと思っていたのが、後ろを向いたらついてこないのがほとんどだった。だけど田邊は、次の日から辞めてついてきちゃった。歌い手ならひとりで仕事ができるけど、太鼓だけじゃどうしようもないのに、それでザ・スパイダースというグループをつくることになったんだけどね。(堀威夫


 電話のある守屋のアパートに集まった堀と田邊はプロダクション設立に向け、急ピッチで準備を始めた。約2週間、守屋のアパートが事務所代わりとなった。この3人に経理担当と総務担当を加えた5人が発起人になり、堀プロダクション(現・ホリプロ)を設立。1960年秋の終わり頃のことだ。


 こういうエピソードを知ると、田邊昭知社長が堺雅人さんを笑顔で送り出せない気持ちもわかるような気がします。
 時代が違う、ということはわかっているのだけれども、人は、自分が生きてきた経験を捨てたり、忘れたりすることはできないものだから。
 そして、この本を読むと、ビジネスライクに、その場の条件が良いほうを選んできた人よりも、義理人情的な「筋を通した」人のほうが、長い目でみれば生き残り、成功しているようにみえるのです。
 もちろん、この本が「そうして成功した人たちに取材して書かれたもの」だというバイアスは意識しておく必要はありますが。


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