琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー 2 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「ぼく」は13歳になった。
そして親離れの季節が――。
80万人が読んだ「一生モノの課題図書」、ついに完結。

13歳になった「ぼく」の日常は、今日も騒がしい。フリーランスで働くための「ビジネス」の授業。摂食障害やドラッグについて発表する国語のテスト。男性でも女性でもない「ノンバイナリー」の教員たち。自分の歌声で人種の垣根を超えた“ソウル・クイーン"。母ちゃんの国で出会った太陽みたいな笑顔。そして大好きなじいちゃんからの手紙。心を動かされる出来事を経験するたび、「ぼく」は大人への階段をひとつひとつ昇っていく。
これは、読んでくれたあなたの物語。
そして、この時代を生きるわたしたちの物語――


 前作、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は、イギリスという国で起こっている「格差問題」について、そこで生きている人たちの物語として、同じ高さの目線で語られている素晴らしいエッセイ集でした。


fujipon.hatenadiary.com


 日本でも格差問題がクローズアップされるようになってはいるのですが、僕自身は「とはいえ、自分の日常のなかで、給食費を払えないとか、生理用品を買えない、なんていう子どもは目に入ってこないし、実感がわかなかった」のです。

 イギリスの話を読んで、日本の現状についてあらためて考えさせられた人も多かったのではないかと思います。
 正直なところ、「あれだけ本が売れていたら、ブレイディみかこさんはもっとリッチな暮らしができるくらいのお金はあるんじゃないか」とか、ちょっと思ってしまうんですけどね。
 お金が本当になくて困窮するのと、お金があるのに節約するのは違う。

 だからこそ、そういう目で見られない、イギリスでの今までと同じ暮らしを大事にされているのかもしれませんが。


 この『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』なのですが、『1』に比べると、イギリスの社会問題、格差拡大についての現場からのレポート、という要素は減っていて、「13歳という多感な時期を迎えた息子さんの成長と、地域社会で生き抜いている大人たち」という「日常」が多く描かれているのです。
 
 僕自身は、この『2』に関しては、同世代の息子を持つ親として、身につまされる場面がたくさんありました。

 息子さんの試験の点数がかなり悪かったのを、著者の配偶者が叱責したときの話。

 大きなダミ声で叫ばれて、息子は下を向き涙をためている。
 だいたい、まるで自分が子どもの頃にめちゃくちゃ勉強したような言い方をしているこの人は何なのだろう、みたいな醒めた目つきで見ているわたしに気づいたのか、配偶者は声のボリュームを落とした。
「俺だって、もちろん人のことは言えない。俺は勉強は嫌いだったから、定期試験なんて適当だったし、成績も悪かった。だから、俺がいまどうなっているか見てみろ。ガタが来ている体に鞭打って一晩中ダンプを運転して、スズメの涙みたいな賃金しかもらえない。お前には、俺みたいになってほしくないから言ってるんだよ。頼むから、俺みたいにはなるな」
 むっつりテレビのほうを向いた配偶者の後ろで、息子がぽろぽろ涙をこぼしていた。
 ふっと40年前に連れ戻された気がした。わたしの親父も、まったく同じことをわたしに言っていたからだ。
 俺のようになるなよ。
 この台詞は、ユニバーサルに、そしてタイムレスに、労働者階級の父親が子どもに説教するときの決まり文句に違いない。
 あんたのようになろうが、なるまいが、わたしの自由だろ、ボケ。
 反抗的なティーンだったわたしは、そんな気持ちを込めて親父を睨んでさらに怒らせたり、実際にそう口にして炬燵の天板を投げられたこともあった(昭和は『寺内貫太郎一家』の時代だったのだ)。
 しかし、息子は性格的に違う。とぼとぼと無言で階段を上がって行ったので後を追うと、真っ赤な目をしてベッドに腰掛けている。
「あんなの気にしなくていいから。『俺のようになるな』なんて、まったく説得力ないじゃん。彼らはそれがわかってない」
 自分の親父のことを思い出していたので、つい「彼ら」と言ってしまっていた。
「そうじゃないんだ、……そうじゃなくて……」
 息子がまた涙をあふれさせているのでわたしは彼の脇に座って背中をさすった。
「『俺のようになるな』って、そういうことを子どもに言わなくちゃいけない父ちゃんの気持ちを考えると、なんか涙が出てきちゃって……」
「……父ちゃんが、かわいそうになっちゃった?」
「いや、かわいそうっていうか、そういうんじゃない。ただなんか、あのシチュエーションは悲しかった。言っている父ちゃんも、言われてる僕も、悲しい」
「労働者階級のもののあわれ」みたいな感覚がこの年齢でもわかっているんだなと思った。


 ああ、これは親としても子としても「せつない」としか言いようがないなあ……、と僕も思うのです。

 それと同時に、医者だった僕の父親が、直接はっきりとは言わなくても、僕が「俺のように(医者に)なる」ことを期待していたのを思い出すのです。
 
 僕自身は、紆余曲折の末、同じ仕事をすることになってしまったのですが、本当にこれが自分に向いた仕事だったのか、親が医者じゃなかったら、自分は別のことをやっていた可能性が高いのではないか、と、今でも思います。いや、さすがにこの年齢になると、それを親のせいにする、とか後悔している、というわけでもないんですが。
 あまり対人関係が得意ではなく、サービス精神も不足している息子をみて、何か専門的な仕事をさせたほうがいい、と思っていたのかもしれません。
 僕が自分の子どもたちをみて、心配してしまうように。

 「俺のようになるな」も「俺のようになれ」も、子どもにとってはせつなくて、苦しい。「好きなようにやっていいよ」と言いながらも、親の期待が透けて見えることもある。
 父親と息子というのは、どっちに転んでも、正解にはたどり着けない、そんな気がするのです。

「息子が父親にしてあげられることっていうのは、肩を叩くか殺してあげることだけ」

 そんなセリフが、最近観た映画のなかにあったのを思い出します。

 人は、社会問題にだけ向き合って生きてはいけない。というか、その悩みの大部分は、もっと個人的な人間関係や日常にある。

 このときのお父さんの行動に「正解」はあったのだろうか?


 もちろん、このエッセイ集から「社会への問い」が失われたわけではありません。

「ちょっと想像してみて。ものすごい巨大な台風が来ていて、雨風も激しくなって、ここに入れてくださいってホームレスの人が訪ねてきた。その避難所に自分が勤めていたとするでしょ。そこで『ダメです』って言った人たちのことを僕は考えてみた。
「うん……?」
「避難所にいないと危険なぐらいの嵐だよ。そんなときに『あなたはダメです』って追い返したら、命にかかわるとわかってる。その人に何かあったら自分のせいだ。そんなの嫌だよね」
「それは、絶対に嫌だよね」
「だったら、どうしてその人はダメって言えたの?」
 確かに、人間にとって誰かが自分のために亡くなるかもしれないという状況は究極の心の負荷だ。誰だってそんな重荷を負う決断は下したくない。だったらなぜ追い返すことができたのだろう。
「……たぶん、その人はそのとき自分のことは考えていなくて、というか、自分のことを考えていたとしても、それは避難所にいるほかの人たちとか、一緒に働いている人たちが自分のことをどう思うかということを考えていて、なんていうか、うまく言えないんだけれど、本当には自分のことを考えていなかったんじゃないかな」
 あの出来事の後で、日本のネットでは「日本人は自分のことばかり考えて他人のことを考える余裕がなくなっている」みたいな主張が散見された。が、息子はちょっと違うことを考えているようだ。
「避難所にいるほかの人たちとか、そこで働いている人たちは、みんなホームレスの人を受け入れたくないはずだと考えたから、追い返したんじゃないかな。ライフ・スキルズの授業で、先生が『社会とは、早い話が、あるコミュニティの中で共に生活している人々の集団』って言ってた。だとしたら、ホームレスを追い返した人は、避難所という社会を信じていない」
「……」
 社会を信じる、と息子は言ったが、それは社会に対する信頼と言い換えることもできる。


 これを読んで、僕も考えさせられました。
 自分自身の「保身」を第一に考えるのであれば、命の危険がある状況で受け入れを拒否したら、後々責任を問われるリスクがあることは、受け入れを拒否した担当者にもわかっていたはずです。
 自分が拒んだために亡くなったりしたら、一生後悔することになるかもしれません。
 「これ以上人が乗ったら沈んでしまう救命ボート」みたいな状況ならともかく。

 それでも、「受け入れない」という判断をしたのは、たしかに「社会を信じられなかった」というか、「社会の風向きを読み違えた」からだったのだろうか。

 この話を聞いて、僕は「いくらなんでも、そんな緊急事態に拒否するのはひどい」と思ったんですよ。
 でも、受け入れたら、それはそれで「なんでホームレスを受け入れたんだ!スペースには限界もあるし、彼らの臭気でみんなつらい思いをした」というようなバッシングもネットで起こったのではないか、と想像してしまうのです。

 「美談」が拡散され、新しいスターが生まれることもあるけれど、いまのネット社会というのは、「他人を責めようとする力」が増幅されやすいように感じます。
 「政治的な正しさ」が重視されている一方で、「直接口にはできない本音らしきもの」がネットに書きこまれ、他者を傷つけてしまうことも多いのです。
 極論に聞こえるかもしれませんが、「他人を責めるための理由を探している人たちに、つねに怯えなくてはならない」のです。

ポリティカル・コレクトネス」に配慮しなければ危険で、人々の「置かれた状況に応じた、柔軟な良心」には期待できない(ような気がする)。

 いまの若者たちは、そんな緊張感に満ちた時代を、これから生きていかなくてはならないのです。
 あるいは、この「反動」が、どこかで現れることになるのだろうか。

 英国が向き合ってきた「多様性の歴史」の一端を知り、「これからの日本」について考えるための最上のテキストのひとつだと思います。
 
 いつの時代も、父親は「俺のようにはなるな」と言い続けるのだとしても。


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