琥珀色の戯言

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【読書感想】キャパへの追走 ☆☆☆☆

キャパへの追走 (文春文庫)

キャパへの追走 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
トロツキー、スペイン戦争、ノルマンディー上陸作戦…ロバート・キャパが切り取った現代史の重要場面の現場を探し、同じ構図の写真を撮影する。いつ、どこで、どのようにそれらは撮られたのか?世界中を巡る「キャパへの旅」から、その人生の「勇気あふれる滅びの道」が見えてきた。著者の永年にわたるキャパへの憧憬をしめくくる、大作「人物+紀行ノンフィクション」。

 
 沢木耕太郎さんが、伝説の戦場カメラマン、ロバート・キャパの足跡を、彼が写真を撮ったのと同じ場所、同じ構図で「いま」撮影しながら辿るという作品です。
 僕はそんなにロバート・キャパという人物に詳しくはないのだけれど、その伝記だけではなく、「撮った写真」に沿って概観していくと、なんだかとても、キャパという人に近づけたような気がしたのです。
 その一方で、沢木さんはキャパへの思い入れが強くて、あまりにキャパの内面を自分側に引き寄せて決めつけすぎているのではないか、とも感じたんですよね。
 そういうところもまた、沢木さんの作品の魅力なのだろうとは思うけれども。
 あと、ヨーロッパというのは、キャパが撮影してから半世紀以上経っているにもかかわらず、同じ建物や街並みがけっこう残っているということに驚かされました。
 日本の場合、空襲で焼かれてしまったところが多々あるとはいえ、同じような企画とやろうとしても、「もうどこだかわからなくなっている」場所がほとんどになってしまいそうです。

 キャパの写真がいまもなお力を持ち続けているのはなぜなのか。
 ひとつのは、彼の撮った対象が「歴史」だったからということがある。たとえば、その対象がスペインの内戦や第二次世界大戦といった戦争であれ、レオン・トロツキーパブロ・ピカソというような人物であれ、それ自体が二十世紀の「歴史」と言い得るものだった。と同時に、キャパという人物が歴史的な存在となったため、彼の撮った写真は、彼が撮ったというまさにそのことによって「歴史」になってしまったという側面があるのだ。
 しかし、ただそれだけなら、すでに死後半世紀以上も経ったいまもなお、これほどの人気を保っているということもなかったはずだ。キャパの人気には、やはり独特な何かがある。カメラマンとして、キャパは例外的な、あえていえば特別な存在だった。他のカメラマンにはない、人々を惹きつける大きな魅力を持っていた。
 たぶん、それは「物語」だったと私は思う。キャパには「キャパ」という波瀾万丈の「物語」が存在した。キャパが生きた「キャパという物語」に照らされて、キャパの撮った写真そのものの輝きがさらに増すという構造があるように思えるのだ。ある意味で、キャパの写真はキャパという人生と不可分のものだと言える。

 この作品のなかでは、キャパのさまざまなエピソードが紹介されていきます。
 冒険好き、女好き、ギャンブル好きだった、ロバート・キャパ
 そして彼は、他人に愛される才能を持った人、でもありました。

 キャパが到着すると、ザルカは第十二国際旅団の「政治委員」を務めていたグスタフ・レーグラーに、中間地帯の偵察に連れていってやれと命じる。
 このグスタフ・レーグラーもドイツの作家であり、のちに『ミネルヴァの梟』という回想録の中で、若いキャパについてこう書くことになる。
《その若者は、遠くで爆発しているにもかかわらず、頭上をビュンビュン飛んでいく砲弾の音を怖がった。あとで、ズボンを替えに行ってもいいかと訊ねてきた。彼は、これが自分にとって最初の戦闘であり、大きいヤツを漏らしてしまったのだ、とユーモアを交えて言った》
 この一節は、キャパがこのときまで、「本物の戦闘」に遭遇したことがなかったということを明らかにしていて重要である。つまり、それは、その二ヵ月前に撮ったとされる「崩れ落ちる兵士」の写真が、真の「戦場写真」ではないということを別の角度から証明するものになっているのだ。
しかし。このことは、そうした否定的な側面を物語るだけではなく、キャパがどんな人とでもすぐに友好的な雰囲気を生み出す能力を持っていることも伝えている。

 実際、キャパの対人関係の築き方、とりわけ撮影対象との関係の築き方には独特のものがあったらしい。
 それはまず、彼らと親しくなるところから出発するというものだった。共に話し、遊び、喫い、飲む。それから撮りはじめる。
 アマチュアのカメラマンに対して述べたというキャパの忠告が残されているが、それは「人を好きになること、そしてそのことを相手に知らせること」というものだった。
 その忠告は、ひとりアマチュアのカメラマンに対するものとしてだけではなく、あらゆる「取材者」に適用可能なすばらしい「方法論」となっている。

 人を好きになり、人から好きになられることの「天才」だったようにもみえる、ロバート・キャパ
 沢木さんは、この『キャパへの追走』の取材をしながら、キャパが一躍世に出ることになった、スペイン内乱の戦場で撮られたとされる写真『崩れ落ちる兵士』についての真実を追求していくのです。
 そちらのほうは『キャパの十字架』という別の本に詳しく書かれています
 沢木さんによる検証をみると、キャパは、サービス精神からなのか、それとも自分を売り込むための手段としてなのか、あるいは、虚言癖があったのか、自分に起こったことをかなりフィクション混じりに語っていたようです。
 「まあ、そのくらい良いんじゃない?」って、つい思ってしまうのも、キャパの魅力なのかもしれませんが。
 そして、この本のなかでは、戦場を忌み嫌いながらも、戦場でこそカメラマンとして良い作品が撮れた男の苦悩も描かれています。
 沢木さんは、「キャパをはじめとして、カメラマンたちが、まがりなりにも戦争の一方の当事者を『正義』だと信じられたのは、第二次世界大戦が最後だったのではないか」と仰っています。
 それにしても、戦場あるいはその周辺で撮られたとされる写真の多くは、それが実際に撮影されたシチュエーションとは別の「解釈」をされて、さまざまな目的(戦意高揚とか愛国心を奮い立たせるとか反戦とか)に利用されているものなんですね……


 ちなみに、この本には、キャパが撮影した写真がたくさん掲載され、沢木さんの写真と並べられています。

 キャパの写真を借りたのは、『キャパの十字架』のときと同じく「マグナム」(マグナム・フォト(Magnum Photos):世界を代表する国際的な写真家のグループ)である。そして、今回も、私の「崩れ落ちる兵士」に関する見解には同意していない旨を付記してくれという。私はまた、「喜んで」と応えた。「崩れ落ちる兵士」がどのような写真だったかは、誰が撮ったのかということを除けば、すでにほぼ明らかになっていると思うからだ。

 キャパの代表作に対する沢木さんの考えには不同意だけれど、それを明記してくれれば、写真は使っていいよ、という「マグナム」の対応は、なんだかすごく誠実だよなあ、と、僕は感心しました。
 「じゃあ、キャパの写真は貸さないよ」なんて言う人(組織)って、いそうじゃないですか。

 

ちょっとピンぼけ (文春文庫)

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