2021年7月26日。34歳の誕生日を迎えた佐伯照生(池松壮亮)は、サボテンの水やりなどをしてからステージ照明の仕事へ向かい、ダンサーにライトを当てていた。一方、タクシー運転手の葉(伊藤沙莉)は、客を乗せて夜の東京を走っている。トイレに行きたいという客を降ろした葉は、どこからともなく聞こえる足音に導かれて歩き出し、照生が踊るステージにたどり着く。さかのぼること1年前の7月26日。照生は自宅でリモート会議をし、葉はマスクを着けて飛沫シートを付けたタクシーを運転していた。
2022年4作めの映画館での鑑賞です。
混雑を避けて朝の最初の回にしたのですが、観客は20人くらいでした。
僕は基本的に恋愛映画というのは苦手で、「他人がイチャイチャしているのを見ても虚しくなるだけだし、DVD(配信)で十分」と思っているのですが、伊藤沙莉さんを観たい、という衝動に駆られて朝からスクリーンの前に座ったのです。
長年大ファン、というわけでも、出演作は欠かさず見ている、ということもないんですけどね……なんだか、この映画の伊藤さんをすごく観たくなって。
伊藤さんが演じていたタクシーの運転手、主人公の葉が、冒頭で、若くて派手な感じの女性に「21歳でタクシーに乗る人生って、どんな感じですか?」って聞くんですよ。
僕はその瞬間、「ああ、この人のタクシーには乗りたくないなあ……」って思ったのです。
僕は他人にあれこれ詮索されたり、知らない人と世間話をしたりするのが苦手なので、床屋とタクシーは、なるべく無口な担当者が好みです。その基準でいうと、葉は饒舌すぎる。タクシーの客って、こんなにも「運転手という人間が一緒にいる空間なのに、車内では無防備に自分をさらけ出しているのだな」とも感じました。
そういえば、いま話題の『ドライブ・マイ・カー』も「女性が車を運転する仕事の話」ですよね。
僕は三浦透子さんが演じていた渡利みさきくらい余計なことは言わないほうか好きだけれど、世の中には、タクシーに乗ったら運転手さんと話すのが楽しみ、という人もいるからなあ。
こうして女性が車を運転する話を続けてみていたら、僕がまだ子どもの頃、ゆっくり走って流れを滞らせていたり、方向指示器の出し方や車線変更が気に入らなかったりする車に対して、運転している父親だけではなく、同乗している母親も「あれ(あの車を運転しているの)は女よ」と言っていたのを思い出しました。子ども心に「お母さんも女なのに、それでいいの?」と疑問だったんですよね。
運転とセックスが下手だと言われたら男はプライドが傷つく、という話もありました。
そんなふうに、一時期は「男の仕事」だった車の運転を女性が普通にやっている映画が立て続けに公開されて話題になっているのは、時代の変化を反映しているのかもしれません。
僕は車の運転にも自信がないのですが、今は上手な女性ドライバーが多いですよね。
この『ちょっと思い出しただけ』という映画に、もう50歳になってしまった僕自身の「恋愛映画に対するスタンスの変化」を痛感させられました。
前述したように、僕は恋愛映画が好きじゃなくて、「こいつらこんなにイチャイチャしてるけど、楽しい時期はそんなに長くは続かないぞ」って言いたくなるのです。
でも、今回この映画を観ながら、「まあ、ずっと続かないにしても、こういう『甘くて痛い思い出』が有る人生は、無い人生よりもマシだし、後から思い出せる記憶って、けっこう大事だよな」って思ったんですよ。
ただ、そういうのは「男の自己陶酔」みたいなもので、女のほうは切り替えているのではないか、というのも作中でフォローされてはいるのです。
この映画をみていると、そこらへんにいそうで、やっぱりいない伊藤沙莉さんの役者としての存在感を再認識させられます。
たとえば、葉を新垣結衣さんが演じていたら、「やっぱりガッキー綺麗だな……」と見とれてしまう一方で、「まあでもガッキーだからな」と、自分の記憶の引き出しに手をかける気分にはなれない。
伊藤沙莉さんをみていると、「自分の記憶のなかの、伊藤沙莉的なもの」が、どんどん引きずり出されてくるのです。
「自然な演技」というか、「人って、あんまり自覚しないまま、何かを演じて生きているのだな」という気分になる。
本当に、不思議な存在の人だと思います。
正直、描かれている時間が行ったり来たりして、いつのことなのか、が見ていてわかりづらいところがあり(あえてそうしているのでしょうけど)、もっとシンプルに伊藤沙莉さんを観たかったな、というところもあるのですけど、「マスクをしている人々」というのは、2020年から2022年までの「時代を示すアイコン」として機能する、ということもわかりました。「みんながマスクもしないで舞台を見ている!リアリティが無い!」と思ったら過去の時代のこと、なんていうのもありましたし。
観終えて帰る途中、「ああ、この人のこれまでの人生にも、この人の死とともに消えてしまう、楽しい出来事や悲しい記憶があったんだよなあ」と思いながら、さまざまな人たちとすれ違っていきました。何気ない、起伏がない、ドラマチックな盛り上がりには乏しい映画なのだけれど、ちょっとだけ世界の見えかたが変わる作品でした。