琥珀色の戯言

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【読書感想】大分断 教育がもたらす新たな階級化社会 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

現代における教育はもはや、社会的階級を再生産し、格差を拡大させるものになってしまった。高等教育の階層化がエリートと大衆の分断・対立を招き、ポピュリズムを生んでいる―これまで、ソ連崩壊、トランプ大統領の誕生など数多くの「予言」を的中させてきた著者は、こう断言する。民主主義が危機に瀕する先進各国で起きている分断の本質を、家族構造が能力主義・民主主義に及ぼす影響や地政学的要素を鑑みながら、鮮やかに読み解いていく。日本の未来、そして変質する世界の行方は。欧州最大の知性が日本の読者のために語り下ろした、これからの世界情勢を知るために必読の1冊。


 「ソ連の崩壊」や「トランプ大統領の誕生」を予測した歴史家・文化人類学者・人口学者のエマニュエル・トッドさん。新書界ではベストセラーを連発している、注目度の高い書き手である一方、「売れる」ということで、似たような内容の著書がたくさん出版されすぎている印象もあります。
 この本は、そんなトッドさんが「教育がもたらす分断」を主題に語った(あるいは、雑誌に発表した)内容が収録されています。

 私は学ぶという行為自体が目的になるべきだと信じています。学ぶことでより良い人間になれます。そして、知るということ、それ自体が良いことだと思うのです。
 ところが、次第に社会が複雑化し、ますますその深刻さが増している現代社会では、教育は経済的、社会的な成功を収めるためのツールとなってしまいました。人々は社会の中で、経済的に生き延びるために教育を受けるようになったのです。どの国でも親たちは自分の子供の学校での成績に一喜一憂します。それは子供に幸せでより良い人間、より完全な人間になって欲しいというよりも、むしろ良い仕事に就いて欲しいという願望の表れです。こういう意味で、中等・高等教育は歪んだ結果を生み出すと思うのです。
 高等教育を受けるためには最低限の能力がなければいけないのは忘れてはいけません。しかしアメリカの経済学者ブライアン・カプランは、その著作において「教育は、雇用主にとって都合よく仕事に励む、順応主義的な社員を雇うことを可能とした」と述べています(「大学なんか行っても意味はない?─教育反対の経済学<みすず書房>)。この経済構造と教育との歪んだ相互関係は、こうした点で表出してくるのかもしれません。とても優秀と言われる学歴を持つ人間であれば、必ずその人はある程度の能力があり、かつ順応主義者でしょう。だから雇用主は安心して雇うことができるのです。
 しかしここで忘れてはならないのは、社会全体がそうなってしまったら、その社会の進歩は止まってしまうということです。


 トッドさんは「今の学生には自由な時間、自分で考える時間が与えられておらず、経済力で『良い学校』に行けるようにもなっている」と嘆いています。
 その気持ちわかるなあ、と感じる一方で、「昔の大学生は、もっと自由で、俺たちなんかほとんど学校に行っていなかったぞ」なんて言う先輩たちの言葉に対して、「それって、本当に自慢するようなことなの?」と内心反発していた若い頃の自分のことを思い出します。
 たしかに「学ぶ」ことよりも「学歴を得る」ことが目的になっているのではないか、という気はするのですが、自分の子供には、「受験戦争に参加させてしまって良いのだろうか?」という思いと、「とはいえ、より良い環境で勉強できる機会を与えられるのであれば、それをわざわざ避ける必要はないだろう」という気持ちが入り乱れてしまうのです。

「知る」ということの充実感は、今の子供にも共通しているし、「社会のために起業する」という若者も、かえって増えているようにもみえるんですよ。
でも、アメリカの偉い人たちをみていると、こんな世界に冠たる有名大学を卒業しているのに、なぜ、「自分と狭い範囲の仲間たちの利益」のことしか考えないのだろう?というエリートの劣化、みたいなものも感じます。

 高等教育の発展は、メリトクラシー、つまり能力主義のプロセスの中核にあるものです。能力主義の観念を編み出したイギリスの社会学マイケル・ヤングは、それを非常に軽蔑的に見ていた人物です。教育によって人々が区分けされる世界では、実際に学業で失敗をした人はそれを内面化し、自分は劣っている人間だという認識に至ってしまうからです。ですから学校教育の結果によって人々が選り分けられる社会という理想自体、どこかおかしなものなのです。本当にそうやって人々は共に生きていけるのでしょうか。
 能力主義の理想というのはそもそも、民主主義の誤解から生まれています。民主主義において人類はみな自由で平等です。一方で能力主義においては、能力において人々は区分けされます。ですから「共和国における能力主義」というのは矛盾しているのです。共和主義の国では人々はみな平等であるべきで、学校教育のレベルで選り分けられるべきではありません。このように、能力主義は民主主義という理想の逸脱の一種と見ることもできるのです。
フランスでは、学力においての競争力は、知的な開花を目的とするのではなく、ある社会階級がその階級をいかに効率的に再生産できるかという問題において重要な要素になってしまいました。ブルジョワはいかにブルジョワであり続けられるのか。彼らは高等教育を受けなければいけない。資本力があるので子供は家庭教師もつけてもらえます。そしてそれが経済格差をも再生産し続けています。


 「平等」というのにも2つの考え方があって、「みんなが同じレベルの教育を受けられるようにし、その結果によって生まれる格差は受け入れる」という「機会平等」と、プロセスや個々の能力の差は問わずに、みんなが同じものを受け取れるようにする、という「結果平等」があるのです。
 この2つを両立するのが不可能だということは、みんなわかるはずです。
 「結果平等」を唱えた共産主義は、うまくいかなかったのですが、「自由な競争」を突き詰めると、「機会の格差」は広がっていくばかりです。
 でも、「金持ちの子供の教育を制限する」ことも、「中間層の子供の教育レベルを富裕層と同じくらいに引き上げる」のも現実的には無理ですよね。
 そして、再生産されたエリート層は、自分たちの立場を守ることばかり考えていて、「自分たちと違う世界に住む人たち」が見えなくなっていく。

 トッドさんは、この本が日本向けということもあってか、日本に関しては、かなり楽観的な観かたをしているように感じます。

 前述したように、フランスやアメリカでは「社会の下層部は遅れている」という言説が溢れている一方、日本では、教育レベルの低い人々を蔑視して語ることはあまりないはずです。この理由はどこにあるのでしょうか。
 しばしば非難されるのは、「日本人には自分たちが特別だという意識があり、自民族中心主義思想を持っている」という点です。今、日本の文化は文学や料理、サブカルチャーを筆頭に、世界で敬意を払われるものになりました。日本は平和的でエレガントだと言われます。しかし、昔は人種差別的だと言われたこともありました。そうした印象を与える自民族中心主義思想から、日本には移民はいらない、という考え方も生まれます。これが西洋の考え方と違う点で、日本が非難される理由です。
 しかし、こうした思想があるために、日本社会の上層部にいる政治的あるいは文化的なエリートたちはまず、自国の大衆たちに対して近しい感情を抱いているのではないでしょうか。先に述べましたが、他国において社会の上層部にいるエリートたちは必ずしもそうではなく、自分たちは下層の人たち(貧困層や移民など)とは異なっている、と感じている人も多く存在します。
 また、日本にも格差の問題はありますが、アメリカやフランスほどではありません。民主主義というものは、ネーション(国民国家)の概念と強く結びついており、国民感情は重要な要素の一つです。今、次第に顕著になっているのが、日本のような国民感情が強い直系家族構造の社会の民主主義こそが、教育格差の広がりに抵抗できるタイプの民主主義かもしれないということです。


 確かに、日本では、とくに社会の表舞台で注目される立場にある人は、貧困層や移民を蔑むような発言や態度が命取りになることを強く認識しているように思われます。
 トッドさんも、ネットでの「DQN批判」とかを見れば、日本がそんなにエリートと大衆の距離が近い国ではないと感じるかもしれませんが。

 正直、読んでいると、トッドさんはフランス人として、「ドイツに対する不快感」を表出せずにはいられないように感じますし、日本に対する言及には、「リクエストされて話してはいるんだろうけど、日本にはそれほど思い入れはないんだろうな」という気もするのです。

 「教育格差」「人口減少」は、多くの国(とくに西欧とアメリカ、日本)にとっての大きな問題なのですが、エリートに「子供を勉強させるな」とは言えないし、少子化だからといって、女性に強制的に子供を産んでもらうなんてことは不可能です。
 その国が「民主的」であればあるほど、「格差」は大きくなり、階級は固定化されていくのが、人類の未来なのかもしれません。
 ただ、世界レベルでいえば、トッドさんも指摘しているように「人々の識字率はどんどん上がっている」し、子供の教育の裾野は広がってもいるのです。
 たぶん、人類の未来は悪いことばかりじゃないはずだと、僕は思っています。
 みんなにチャンスが平等に与えられる世界というのは、それはそれで怖そうですけどね。
 ダメだったら、「すべて自分の責任」だと認めざるをえなくなるから。


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