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【読書感想】毒親の日本史 ☆☆☆

毒親の日本史 (新潮新書)

毒親の日本史 (新潮新書)


Kindle版もあります。

毒親の日本史(新潮新書)

毒親の日本史(新潮新書)

子捨て、子殺し、孫殺し――毒々しいにも、ほどがある?! 親子関係でよむ異色の日本史。
親子関係は一筋縄ではいかない。古代天皇に平安貴族、戦国武将から僧侶まで、あっちもこっちも「毒親」「毒子」だらけ。子捨て、子殺しや性虐待は勿論のこと、きょうだいの殺し合いを招いたり、子の恋文を世間にさらしたり。父親に見殺しにされたヤマトタケル、子を母に殺された建礼門院徳子、実家にいびられ続けた小林一茶等々、系図上では、はかなく頼りない親子の縦一本線に込められた愛憎が、日本史に与えた影響を読む。


 自分が「親」になってみると、「毒親」という言葉を聞くたびに、心の奥がチクリと痛むのです。
 僕自身は「ひどい毒親」ではないと信じたいけれど、子どもに対して、正しく接することができている、とも言い難い。
 そもそも、親というのは、良くも悪くも子どもに影響を与えずにはいられない存在なのです。
 
 この本では、著者が、『古事記』『日本書紀』におさめられた、伝説とされている時代から、天皇家や平安貴族などの「親子や兄弟による諍いや子どもを支配する親」について紹介しているものです。
 採りあげられているなかで、もっとも現在に近い時代を生きていたのが小林一茶で、近年の資料がたくさん残っている「毒親」たちには、触れていないのです。

 これを読むと、「親子」という関係は、それを美化する人たちが期待しているよりもずっとドロドロしているし、「血がつながっている」からわかりあえる、というわけではないのです。

 日本史を「毒親」という観点から見ると、子を虐待して殺傷するような犯罪的なハード毒親から、子を差別し自尊心を奪い辱める現代的な毒親まで、実に毒親だらけであることに驚きます。
 とりわけ『古事記』(712年)、『日本書記』(720年ころ)、『風土記』(『出雲国風土記』は733年)あたりに出てくる親は、現代の基準からするとすべてがハード寄りの毒親です。
 まずイザナキ・イザナミという日本を作った夫婦神はあらゆる児童虐待を行っている。最初に生まれたのは、ぐにゃぐにゃの水蛭子(ひるこ)だというので葦船に入れて流し捨ててしまうし、イザナミの女性器を焼いて出てきた火の神はイザナミの死因となったというんで、父・イザナキが斬り殺してしまう。さらにイザナキの禊で生まれた三貴子(同じ子でも差別があるのにも注目です)の一人であるスサノヲは、亡き母・イザナミを慕って泣いてばかりいるので、激怒した父・イザナキは、
「この国に住んではならぬ」(”此の国に住むべくあらず”)
 と言って追放してしまいます。
 子捨て、子殺し、気に障る子には「出てけ!」の暴言──毒親と言うにはあまりに毒々しすぎる犯罪的な三点セットを、日本の国土を生んだ神々はしでかしている。
 もちろんこれらは神話です。
 けれど、当時の人が犯罪者のそれとしてではなく、「神や貴人の所業としてあり得ること」として受け入れられる。許容できるからこそ、語られたのです。


 僕もこの本の冒頭部を読みながら、「たしかにひどい親の話ではあるけど、神話だし、フィクションだろ?それを採りあげられてもねえ……」と思っていたんですよ。
 でも、そういう「神話」があって、長年語り継がれてきたということは、たしかに、ある種のリアリティというか、あってもおかしくない話」だと人々が考えていた、ということですよね。


「白雪姫」についての、こんな話も出てきます。

「継母」は、洋の東西を問わず、悪役をあてがわれることが多いものです。
「白雪姫」の継母は自分より美しい白雪姫に嫉妬して、森の中で狩人に殺させようとしたあげく、おばあさんに化けて毒リンゴを食べさせたという設定です。
 が、実は『グリム童話』の初版では、白雪姫の美しさを妬み、殺そうとするのは継母ではなく、実の母だったこと、ご存知ですか? それが、「第二版以降は、白雪姫の母は白雪姫を生むと死に、白雪姫を殺そうとするのは継母になっている」(『初版グリム童話集』2 𠮷原高志・𠮷原素子訳)。
 もともと『グリム童話集』は、採集したドイツの昔話に、グリム兄弟が手を加えて書き替えたものなのですが、「内容が十分に子ども向きでない」などの批判から、第二版以降では「残酷な場面や性的な事柄が削られ」ました。(『初版グリム童話集』1 訳者まえがき)。つまり白雪姫を殺そうとするのが実母というのは残酷すぎるということで、継母に変えられてしまったのです。
 逆に言うと、継母なら継子いじめは当たり前、継子の美貌に嫉妬して殺そうとするのだって有りだよね、と、当時の人々は考えていたわけです。


 この本のなかでは、政争のなかで、天皇家に輿入れさせて外戚として権力を握るために利用された娘たちの話や、天皇家や貴族で、親が子どものひとりを贔屓し、後継者にしようとしたために大きな争いが起こった事例がたくさん紹介されています。

 「毒親」になるのは、「血がつながっていない親」ばかりではない、というのは、人類史上共通なのです。
 「実の親」であっても、子どもに対する愛着が偏っていたり、子どもを虐待することは少なくありません。
 「子どもの独立した人権意識」が高まっている現在ですら「血がつながった親による虐待」は珍しくないのですから、中世の日本では、言わずもがなでしょう。

 僕は子供のころ、前漢の高祖・劉邦が、戦争に負けて逃げるとき、スピードを上げるために、自分の子どもを馬車から何度も投げ捨てた、というのを読んで驚いたんですよね。劉邦が子どもを投げ捨てるたびに、御者が馬車を止めて子どもを拾い上げていたそうです。ちなみに、その子が劉邦のあと、前漢の二代目の皇帝になりました。
 2000年前は、子どもの命というのは、そのくらい軽かったのです。

 毒親毒親育ちを生む温床に「落ちぶれ」がある──と、かねがね感じていました。
 正確に言えば、祖父母や両親、もしくは親族などから、「うちの家系がいかに昔は栄えていたか、それが今はこんなに落ちぶれて」といった情報を繰り返し聞かされることで、その人は意識的・無意識的にかかわらず、「なんとかして自分の代で盛り返そう」という強い使命感を持つようになるのです。
 こんなふうに思わされる時点で大変なプレッシャーで、周囲の親族たちは「毒」になっている。そうした毒にさらされたその人自身も、子を持つと、同じようなプレッシャーをかけるのです。こうした例を私はいくつも見ています。年を経て、思い通りにいかず、そのプレッシャーに耐えきれなくなった人が、自殺的な死を遂げたり、「親を殺したい」と思わぬまでも、恨んだり憎悪したりするわけです。
 が、エリオット・レイトンの『親を殺した子供たち』(木村博江訳)によると、子どもによる家族殺人が起こるのは、「急激な凋落ぶり」を経た家族だけでなく、「にわか成金」と呼ばれるような家庭も少なくないと言います。そして、「その階級の変動から生じた不安が、人種差別や性差別をうながし、非行少年を生むなど、さまざまなかたちをとってあらわれることも、数多くの研究で実証されている」のだと、レイトン氏は言います。
 成り上がるにせよ落ちぶれるにせよ、激しい階級移動というのは物凄いストレスを人にもたらすのです。
 そしてレイトン氏によれば、家族殺人が起こる家には共通項があって、それは、
「上昇志向の強い中流階級で起こる傾向が強い」
 ということ。


 これを読んで、僕は自分が見聞きした「医学部に子どもを入学させようとして、『教育虐待』をする親」のことを思い出しました。
 自分の学歴にコンプレックスを持つ親ほど、子どもにその「仕返し」を期待する。あるいは「自分と結婚して生んだ子どもだから、医者になれなかった」と周囲に言われることを極度に恐れてしまう。
 子どもにとっては、たまったものではないと思うのですが、親も「自分では『成り上がった』つもりでも、ストレスを強く感じている」ということなのでしょうか。
 ただ、そういう「毒親的」なコンプレックスがないと、ずっと階級が固定されたままになってしまう、のかもしれません。
 
 なるべく、毒親成分が少ない親でありたいものですが、「結局、親子関係というのは、いつの時代でも難しいものなのだ」ということがわかる本ではありますね……


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親を殺した子供たち

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