琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】同志少女よ、敵を撃て ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵"とは?


 これはすごい、圧倒的だ……

 読み終えて、この作品が受賞した、『第11回アガサ・クリスティー賞』に応募した他の作品・作家たちがなんだか気の毒になってしまいました。
 これが「デビュー作」だなんて、ちょっと信じられない。

 直木賞候補にもなったと聞いて、「なんかやたらと推されているなあ、すごいプロモーションだなあ」と、あの『KAGEROU』を思い出してしまったのですが、これは本当に大傑作です。

 読みながら、「でもこれ、『ミステリ』なのか?どこかで叙述トリックとか出てくるのか?」とは思ったのです。
 『アガサ・クリスティー賞』は、かなり広義のミステリを対象にしているそうで、基本的には「なんでもあり」みたいなのですが。
 いまの日本のエンターテインメント小説で、新人を売ろう、読んでもらおうと思えば、有名人が書くか、「ミステリ」という看板が必要だというのは、ちょっと悲しいところではあります。
 逆に、何か書きたいジャンルや題材がある作家は、それを「ミステリ風」にすることによってチャンスが生まれる、というのも事実ですが。

独ソ戦を闘った、ソ連の女性狙撃兵たちを描いた歴史小説」としてアピールしても、売るのはなかなか難しいはず。

 この『同志少女よ、敵を撃て』は、田舎で平和な暮らしをしていた猟師の娘である主人公が、ドイツ軍に村を焼かれ、家族を殺され、復讐のために狙撃兵となり、戦場で苛酷な体験をしていく、という物語です。

 軍隊のなかでの「狙撃兵」という存在が緻密に描かれていることに、ひたすら圧倒されてしまうのです。

 平均的な銃を一般的な歩兵が取り扱った場合、SVT-40の有効射程は500メートル程度が限度であり、実際の交戦距離は300メートル以内に留まることが多い。
 一方、狙撃兵に与えられるSVT-40は、試射において特に精度の優れたものを選別されたものであり、狙撃兵はあらゆる兵科の中で最も銃の整備に心血を注ぐ。そしてその選ばれた「個体」を手に、長距離射撃に特化した訓練を受けた者を狙撃兵と呼ぶ。
 それでも実戦で想定する射程は850メートルが限界で、しかもそれは高度差がない場合の限界だった。弾丸は長く飛ぶほどブレ幅が大きくなるわけであるから、有効射程を超えて狙いをつければどうなるかといえば、弾道学に基づき正確に目標を捉えたところで当たりはしない。極端な話、銃をベンチレストで安全に固定して撃っても同一の場所に弾丸が全部当たるわけではないのだ。弾丸そのものにも炸薬量などの差が生じるため、命中の期待できる範囲は円状に拡がり、正確な射撃は物理的に不可能といっていい。


 この作品では、狙撃兵の訓練の苛酷さや「遠くから敵を撃つ」存在であるがゆえに、同僚からも異質なものとして扱われやすいことが描かれています。

 先に敵を撃たなければ撃たれてしまうけれど、最初の一発を撃つことで、自分の居場所を知らせてしまう、という狙撃兵同士の緊張感に満ちた駆け引きは、戦場を知らない僕でさえ、息を潜めながら読まずにはいられませんでした。

 「狙撃」というのは高度な特殊技能を要するがゆえに、その「技を極めること」にハマってしまい、「人間性」みたいなものを失ったり、戦後に抜け殻のようになってしまう人もいたのです。

 戦争中は「これが戦争なんだから」と敵を倒した数を称賛していた人たちも、平和になると、「あいつは何人も殺した」と「敬して遠ざける」ようになるのです。

 日本でも、太平洋戦争中は「軍神」などと崇められた人たちやその遺族が、戦争に負けたとたんに「あいつらのせいで酷い目にあった」と差別されたのです。

 戦争は、負ければすべてを失うけれど、勝っても失うものは多いし、生きても地獄、になってしまうことが少なくない。

 さらに、主人公たちは女性兵士だけの狙撃兵小隊であるため、「戦場で女性兵士として闘うこと」「兵士としての立場からみた、戦わない女性たちや、女性たちを『報酬』のように扱う男たちの姿」が容赦なく描かれています。

 僕は男なので、女性にどう見えるか、というのはわからないけれど、子供の頃は「男はもしものときは戦場に行かなきゃいけないんだよなあ。女はいいよなあ」と思っていました。「医者になったら、戦争に行かなくてもいいかな」とか、ちょっと
考えてもいたんですよね。実際は、軍医は戦場の前線には必要不可欠で、東大生のなかでもっとも戦死率が高かったのは医学部の学生・卒業生だったそうですが。
 
 男性ばかりの集団のなかでは、苛酷な状況になるほど、みんなで「悪いこと」「恥ずかしいこと」を共有することによって団結しようとする傾向があるのも理解しています。
 そういうのは「正しくない」し、被害を受ける側からすれば許せないと思う。
 それでも、「友情や団結という名の圧力」に背を向けて、自分の倫理観を貫き通すことは、ひどい状況になるほど難しくなる。
 平和な世界だったら、良き息子、夫、父親であるはずの男が、戦場では、目を覆いたくなるような行為に手を染めてしまう。
 それは、その男の責任なのか、それとも「戦争が悪い」のか?
 戦争は、人をそんなふうに変えてしまうものだとするのならば、逆に、「戦場であれば、戦争であることを理由にすれば、何をやってもいい」ことになるのか?


 この作品のすごいところは、「戦争反対」と声高に叫ぶわけでもなく、「戦争の残酷さを過剰にアピールしようとする」わけでもないところなのです。

 そこには、とくに狙撃兵たちが見ている世界には、ただ、「いかに効率的に敵を殺すか」を追い求める「標的を仕留める技能」だけが存在している。
 そこには「機能美」すら感じられるのです。

 目標の優先順位は、将校、工兵、砲兵、通信兵、機関銃手、一般兵士。基本的に代替の難しい兵士を狙うのが鉄則であり、小隊長以上の将校を除いては階級でなく兵科で決める。工兵の優先度が高いのは、本市街戦で敵が戦局打開に期待を寄せているのが拠点の爆破や火炎放射による掃討を担当するこの兵科であり、これを排除することが味方を利するのはもちろん、敵に対しては最も重要な兵科に強いプレッシャーを与えることでその行動に制約をかけることが期待できるからだ。作戦開始四日後、セラフィマは火炎放射器を背負って地下水道に入ろうとするフリッツの胸を狙撃したが、貫通した弾丸は燃料タンクを誘爆させた。死に際に周囲に爆炎をまき散らす姿はなかなか壮観であり、自分が敵であっても火炎放射兵の投入を容易にはできまいと確信した。


 胸が締め付けられるような緊張感に浸りながら、ひたすら戦場を「読む」ことで、「戦争とはどういうものか」を考えずにはいられなくなる。それでいて、極上のエンターテインメントでもある小説だと思います。
 これほど多くのものが失われてきたのに、人はまだ、戦争をやめられない。

 しかしながら、「狙撃を極める」というのは、「他の体験には代えがたい『悟り』のようなもの」のようにも感じてしまうんですよね。「人を殺す技術」であっても、というか、そういう技術であるからこそ、なのか。

 けっこうグロテスクな描写もあるのですが、ぜひ、多くの人に読んでいただきたい作品です。というか、この作品がエンターテインメントとして読める時代に居合わせたのなら、読んでおかないと勿体ないよ。


fujipon.hatenadiary.com
fujipon.hatenablog.com

アクセスカウンター