琥珀色の戯言

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【読書感想】現代美術史-欧米、日本、トランスナショナル ☆☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
20世紀以降、芸術概念は溶解し、定義や可能性を拡張した新しい潮流が続々と生まれている。アーティストは、差別や貧困のような現実、震災などの破局的出来事とどう格闘しているのか。美術は現代をいかに映し、何を投げかけたか。本書は難解と思われがちな現代美術を、特に第二次世界大戦後の社会との関わりから解説、意義づける。世界中の多くの作家による立体、映像、パフォーマンスなど様々な作品で紡ぐ、現代アート入門。


 僕は「現代アート」って、アンディ・ウォーホルとか村上隆とか、そういう人たちの作品のことだろ、というくらいの知識しか持たずに、この新書を読みはじめました。
 そして、この「現代アート」というものの歴史と幅広さ、そして、あまりにもいろいろな作品があることに、驚かされました。
 僕が買った本のカバーには、魚と野菜で作られた銃を構えた女性の写真が載っていて、これが「アート」なの?と。
 
 作品の写真が白黒で、そんなに多くないので、「もっとカラー写真が多ければ、わかりやすそうなのに」とも思ったのですが、読めば読むほど、「アートを言葉で説明することの難しさ」と、「現代アートは、写真ですらうまく伝わらない」ということを考えさせられます。
 

aichitriennale.jp
 
 
 『あいちトリエンナーレ2019』の企画展「表現の不自由展、その後」の展示が抗議を受けて中止になった際には、「政治的主張のための作品」は、アートと言えるのだろうか、という声もあったのですが(僕も正直、そう感じていました)、この本を読むと、「現代美術」というのは、「見た目が美しい絵」「心が癒されるもの」ではないのです。
 「作者がメッセージを観客に伝える」手段として「アート」があって、どう伝えるかを工夫するのが、アーティストの価値なんですね。

「芸術とは何か」──アメリカの美学者アーサー・C・ダントー(1924~2013)の表現を借りれば、「アートの境界線はどこにあるのか」(『アートとは何か』)──という問いは、1960年代以降の「コンセプチュアル・アート概念芸術)」登場に繋がります。その一大潮流では作品の物質性(色・かたち・素材など)以上に、思想性(提起される問いや扱われるテーマなど)が重視されます。現代美術は既存の芸術概念を疑い、それを押し広げることで発展してきました。その過程でコンセプチュアル・アート以外にも「キネティック・アート」、「ポップ・アート」、「ミニマル・アート」、「ランド・アート」、「パブリック・アート」など多種多様な潮流が誕生しました。


 「現代アート」の文脈では、むしろ、「メッセージを含まないものは、『アート』ではない」のです。
 1917年に、マルセル・デュシャンが便器に『泉』と銘打って展覧会に出展した際には「いかなる定義からしても芸術作品ではない」と酷評されたそうですが、100年経った現在では、20世紀以降の美術史の最重要作品のひとつになっています。
 現代美術というのは、ひと目でわかる「美しさ」や「衝撃」ではなく、うまく言いくるめたもの勝ち、みたいな感じがするのですが、写真やコピー機が生まれ、価値観も多様化した時代では、見た目だけでは差別化できない、ということなのかもしれません。

 現代美術は、洋の東西を問わず、さまざまな概念や作品が登場していて、この本を通読した程度で、理解した気分にはなれないのです。
 それでも、さまざまな作品の紹介を読んでいると、「こんなものまで『アート』の範疇に入っているのか……」という新鮮な驚きがあるのです。

 コンセプチュアル・アートは、作品の内容(扱われている題材)を重要視する芸術でした。これは作品の形式(見た目)を重視するモダニズムに対する懐疑から出現してきた潮流です。それに対し、リレーショナル・アートは作品が産出する「関係性」に強調点が置かれている芸術と理解できます。


(中略)


 ティラヴァニ(リクリット・ティラヴァニ:1961~)は、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれのタイ人アーティスト。現在コロンビア大学で教鞭を執っています。幼少期から外交官の父に連れ添って、様々な国での生活を体験しました。不慣れな異文化への適応や言語を共有しない人々との意思疎通の必要性は、彼の芸術実践を本質的に形作りました。
 ニューヨークのポーラ・アレン・ギャラリーでのパフォーマンス《無題1990(パッタイ)》(1990)は、彼の名を一躍世間に知らしめました。これは、文字通りギャラリーを訪れた人にパッタイ(タイ風焼きそば)を振る舞うパフォーマンスです。以降も《無題1994(ビューティ)》など展示空間で食べ物を振る舞うパフォーマンスを通して、ティラヴァニは来場者の間にコミュニケーションを創出する芸術実践を継続してきました。
 ティラヴァニはパフォーマンスに自身のルーツと関係するタイ料理だけではなく、展示先の国に特有の食べ物を用います。日本での個展のオープニングでは、焼き魚や梅干しが振る舞われました。彼の芸術実践に参加した多様な国籍の人々は、自らが属する文化圏から離れて異なる文化に触れることになります。鑑賞者は慣れ親しんだ習慣から距離を置き、新鮮な目で世界を可能性に開かれます。ここには「大地の魔術師たち」展から引き継がれる多文化主義的な関心が観察できます。

 
 なるほど……と文章を読むと、なんとなく納得してしまうのですが、予備知識なしで会場に行ったら、「なんで焼きそばの出店が『アート』なの?」と思うのではなかろうか。
 まあ、予備知識のない人は行かないのだろうけど。
 そして、「そもそも、美術館の展示室のなかにアートが閉じ込められているのがおかしい!」と、屋外でパフォーマンスをやる人たちとかもいて、本当にもう「なんでもあり」あるいは「アート無罪」って感じなんですよ。
 

 近年、アート・プロジェクト、特に地域コミュニティと関わりながら展開される芸術実践に対する批判も出されています。口火を切ったのは、SF・文芸批評を専門とする藤田直哉(1983~)でした。文芸誌『すばる』に寄稿した論考「前衛のゾンビたち」(2014)で、彼は一部のアート・プロジェクトに疑義を呈しました。
 同論考の副題は「地域アートの諸問題」。「地域アート」という言葉は藤田の造語で、熊倉らの定義するアート・プロジェクトと「ほぼ同義」だと言います。後に彼はこの語に
「ある地名を冠した美術のイベント」という新たな定義を加え、越後妻有アートトリエンナーレなどの地方芸術祭を含む広範な概念として用いています。加えて、「地域アート」という言い回しは、「町おこしのための芸術」というニュアンスも含まれます。
「前衛のゾンビたち」で、藤田はアート・プロジェクトの流行によって日本の現代美術の主要な関心が美的価値の追求からコミュニケーションの創出へと移行してきた点を指摘します。彼はそうした傾向の中で「サービス労働と「アート」の区別が曖昧に」なり、「ある種のやりがい搾取」が肯定されているのではないかという疑問を呈しました。つまりこれらの芸術祭では、地域住民やボランティアが無償で酷使されるケースがあるのではないか、ということです。


 たしかに、大手メディアでは地元の肯定的な声が採りあげられることが多いのですが、「そんなものには興味がない、という人たちが巻き込まれている」というのも事実ではありますよね。「ボランティア」の名のもとに、労働力を搾取されている面もある。
 カッコいいことばっかり言いながら、自分の売名のために、地元の人たちを利用しているだけじゃないか、という批判には、頷けるところがあるのです。
 とはいえ、そう言い始めたら、町おこしのイベントなんて、何もできなくなってしまう、とも思うのです。
 「アート」というより、「相手の揚げ足をとる、マウンティング合戦」みたいになっているようにも感じます。
 こういうのは「アート無罪」への痛烈な批判であるのと同時に、「不毛な議論」に陥りやすいのではなかろうか。

 結局のところ、「現代アート」というのは、ものすごく多様で、うさんくさいところもあるのだけれど、それが「面白さ」にもつながっているのです。
 とりあえず、そんな感じなのは、わかったような気がします。


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