琥珀色の戯言

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【読書感想】ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
「数」の論理と資本主義が支配するこの残酷な世界で、人間が自由であることは可能なのか?「観光」「誤配」という言葉で武装し、大資本の罠、ネット万能主義、敵/味方の分断にあらがう、東浩紀の渾身の思想。難解な哲学を明快に論じ、ネット社会の未来を夢見た時代の寵児は、2010年、新たな知的空間の構築を目指して「ゲンロン」を立ち上げ、戦端を開く。ゲンロンカフェ開業、思想誌『ゲンロン』刊行、動画配信プラットフォーム開設…いっけん華々しい戦績の裏にあったのは、仲間の離反、資金のショート、組織の腐敗、計画の頓挫など、予期せぬ失敗の連続だった。悪戦苦闘をへて紡がれる哲学とは?ゲンロン10年をつづるスリル満点の物語。


 僕は「起業家の自伝」って、大好きなんですよ。
 大変下世話な趣味で申し訳ないのですが、理想や野望に燃えて会社や組織を立ち上げた人たちが、現実の荒波にもまれて資金繰りにあえいだり、仲間に裏切られたりしていくのは、本当に「人生」だよなあ、と思うのです。


fujipon.hatenablog.com


 こんなに面白そうなら、僕も起業とかやってみたかったなあ、なんて考えることもあるのです。そう簡単に成功する世界ではないので、たぶん、やらなくてよかったのでしょうけど。そもそも、勤勉な人、粘り強い人、そして、運が良い人じゃないと、なかなかうまくいかないよなあ。

 ぼくは1971年生まれの批評家である。1990年代に批評家としてデビューし、2000年代にはそれなりにメディアに出ていた。本書を手に取った読者には、そのころのぼくを記憶されている方も多いかもしれない。
 けれどもぼくはそのあと、メディアから距離を置き、東京の片隅に引きこもって小さな会社を経営することを決意した。その会社の名が、本書のタイトルになっている「ゲンロン」である。
 ゲンロンは2010年に創業された。2020年で10年になる。本書はそんな10年の歩みをぼくの視点から振り返った著作である。

 本書は批評の本でも哲学の本でもない。本書で語られるのは、資金が尽きたとか社員が逃げたとかいった、とても世俗的なゴタゴタである。そこから得られる教訓もとても凡庸なものである。


 この『ゲンロン戦記』、批評家の東浩紀さんの著作(語り下ろし)なのですが、難しいことをずっと言い続けてきた、立派な「批評家」が、『ゲンロン』という会社の経営をやることになり、さまざまな困難に直面しながら、現実に適応し、人間として成熟していく経過が赤裸々に語られているのです。
 僕はこれを読んでいて、自分の子どもが生まれて、子どもの幼稚園や学校での行事に参加するようになり、今まで自分が関わってこなかった「近所づきあい」や「子どもの同級生の親たちと何かを一緒にやること」に、ひたすら困惑していたのを思い出しました。
 東さんが経験してきたことに比べたら、ずっと普通で、当たり前のことなのですが、それでも、「ああ、自分は少し、まっとうな大人になってきているのかもしれないな」と、感じてもいたんですよね。

 東さんは、「世俗的」とか「凡庸なもの」だと仰っていますが、東さんのような「世俗を超越した文化人」が、会社経営というドロドロした現場に投げ出され、その中で裏切られたり絶望したりしながら、『ゲンロン』という会社を続けていくという行為は、僕にとっては、すごく「批評的」「哲学的」なものに思えたのです。


fujipon.hatenadiary.com

 2014年に上梓されたこの本のなかで、東さんはこう書いておられます。

 ぼくらはいま、ネットで世界中の情報が検索できる、世界中と繋がっていると思っています。台湾についても、インドについても、検索すればなんでもわかると思っています。しかし実際には、身体がどういう環境にあるかで、検索する言葉は変わる。欲望の状態で検索する言葉は変わり、見えてくる世界が変わる。裏返して言えば、いくら情報が溢れていても、適切な欲望がないとどうしようもない。
 いまの日本の若い世代――いや、日本人全体を見て思うのは、新しい情報への欲望が希薄になっているということです。ヤフーニュースを見て、ツイッタ―のトピックスを見て、みんな横並びで同じことばかり調べ続けている。最近は「ネットサーフィン」という言葉もすっかり聞かれなくなりました。サイトから別のサイトへ、というランダムな動きもなくなってきていますね。
 ぼくが休暇で海外に行くことが多いのは、日本語に囲まれている生活から脱出しないと精神的に休まらないからです。頭がリセットされない。日本国内にいるかぎり、九州に行っても北海道に行っても、一歩コンビニに入れば並んでる商品はみな同じ。書店に入っても、並んでる本はみな同じ。その環境が息苦しい。
 国境を越えると、言語も変わるし、商品名や看板を含めて自分を取り巻く記号の環境全体ががらりと変わる。だから海外に行くと、同じようにネットをやっていても見るサイトが変わってくる。最初の一日、二日は日本の習慣でツイッタ―や朝日新聞のサイトを見ていても、だんだんそういうもの全体がどうでもよくなっていく。そして日本では決して見ないようなサイトを訪れるようになっていく。自分の物理的な、身体の位置を変えることには、情報摂取の点で大きな意味がある。
 というわけで、本書では「若者よ旅に出よ!」と大声で呼びかけたいと思います。ただし、自分探しではなく、新たな検索ワードを探すための旅。ネットを離れリアルに戻る旅ではなく、より深くネットに潜るためにリアルを変える旅。


 東さんは、『ゲンロン』を運営するにあたって、大学や文壇に属する批評家、から、「人々の欲望や資金繰り、裏切りが入り乱れる会社経営者」として「リアルを変える旅」に出たのです。
 この『ゲンロン戦記』は、生々しすぎて、かえって、「こういうのが『哲学の実践』ではないのか」と僕は感動しました。

 『ゲンロン』は、「思想地図β vol.1』という思想誌の大ヒットで、順調なスタートを切ったかのように見えました。最終的に3万部くらい売れたそうです。東さんは、かねてからの編集者や出版社への不満から、「理想主義的な印税の計算」を試み、雑誌でありながら、印税率15%という破格の印税率を設定したそうです。

 いまのゲンロンはこんな印税率ではやっていません。単行本の印税は業界標準の10%ですし、雑誌もふつうに原稿料ベースの買い切りです。そうでないと会社が維持できないからです。


 その後、信頼していたスタッフの預金使い込みが発覚するなど、創業時からのメンバーはどんどんいなくなってしまうのです。

 この使い込み事件は衝撃でした。ぼくは大学や既存のメディアにうんざりして、新しいものをつくろうという理想をもっていました。そして『思想地図β』で表面的には成功したようにみえた。
 ところがじっさいには使い込みに半年以上も気づかなかった。こんな鈍感で間抜けな人間が、言論人なんて名乗れるわけがない。新しい出版社をつくると息巻いても、じっさいは面倒なことを大学の事務員や出版社の編集者に押しつけ、見ないふりをしているいままでの知識人たちとたいして変わらなかったわけです。友人をまえに1万円札を一枚一枚数えるという経験には、それまでの自分の甘えを吹き飛ばす衝撃がありました。これは大失敗だと思いました。
 とはいえ、1回の失敗で劇的に変わるかというとそんなことはないのが人間です。この時点ではまだまだ経営者の自覚は足りていません。自分で起業したくせに、経営なんてほんとうはやりたくない。押しつけられたという甘えが残っている。その甘えが、震災後のゲンロンをいくども危機に追い込むことになります。


 この本を読んでいると、クリエイティブな仕事であっても、経理や人事のような「表面に出ない業務」がしっかりしていないと、うまくいかない、ということがよくわかるのです。
 東さんは、自分のファン、仲が良い人と一緒に仕事をしようとするのですが、「ファン」だったはずの人は、会社で一緒に働いていくうちに「東さんの右腕」として権力を握り、東さんを自分が動かしている、という振る舞いをするようになっていきました。
 新しい企画はどんどん出すものの、コストには無頓着で、全く使わないようなものを大金で契約し、そういう杜撰さを責められると引き継ぎもロクにせずに、会社を去ってしまった人もいます。
 いやほんと、「友達」と「一緒に仕事をする人」は、別にしたほうが良いなあ、と考えずにはいられなくなるんですよ、これを読んでいると。
 村上春樹さん風にいえば、「わざわざ友達と一緒に仕事をして、友達と仕事仲間を一緒に失うことはない」。

 観光地の情報はオンラインで簡単に手に入ります。風景や建物の写真は検索すればたいていのものは出てきます。それはいまやチェルノブイリも同じです。わざわざ現地まで身体を移動しなくても、情報そのものは簡単に入手できるのです。コロナ禍のため、それで十分じゃないかという気分が広がり、「オンライン観光」といった言葉も生まれています。
 けれども、それはやはり観光ではないのです。オンライン観光では現地に行くまでの時間をつくることができない。旅の価値のかなりの部分は、目的地に到着するまでのいっけん無駄な時間にあります。そのときにこそひとは普段とはちがうことを考えますし、思いかけぬひとやものに出会います。そのような経験こそ「誤配」です。ゲンロンは、その無駄にこそ価値があると言ってきたわけです。
 ところが、いままさにその価値観こそが否定され始めている。コロナ禍でもカフェの配信はできます。スクールの授業もオンラインでできる。でもイベントや授業が終わったあとの雑談はつくれない。ぼくはそれでは教育などできないと思う。けれど、いまの大学人は他に、キャンパス封鎖を正当化するため、「大学はあくまでも授業をする場所であって、友人をつくったりサークル活動をするための場所ではない」と主張するようになっています。感染症への恐怖に駆動されて、多くのひとが、「オンラインで可能な清潔な情報呼応巻だけがコミュニケーションの本体であり、感染症リスクの高い身体的な接触はノイズである」と考えるようになってしまいました。
 コロナ禍が長期的な負の影響を残すとしたら、まさにこの価値観こそがそれだと思います。コロナ禍のもとで、多くの人々は、かつてにもまして「誤配」を避けるようになってしまった。
 ゲンロンの哲学はその価値観に真っ向からぶつかるものです。

 シラスはビジネスです。ゲンロンもビジネスです。ビジネスは結局金儲けだから、世の中を変えるこどなんてできないというひともいるかもしれません。ゲンロンカフェも初期のころは、社会問題を扱うならば無料で配信しろ、イベントをだれでも入れるようにしろと要求されたことがありました。
 ぼくはそれはあまりに単純な考えだと思います。お金は、それを道具として使っているかぎり便利なものでしかありません。貨幣を介した商品交換自体はだれも不幸にしません。問題は「資本の蓄積」です。いまのことばでいえば「スケール化」です。お金の蓄積が自己目的化し、数に人間が振り回されるようになったときに、社会と文化は壊れていくのです。この点では、いまネットで起きていることは、19世紀にマルクスが指摘した問題の延長線上にあります。
 だからこそ、ぼくはネットに「スケールを追い求めることなく、地味にお金が回っていく世界」をつくりたいわけです。100万人、1000万人を追い求めなくても、1000人、1万人の「観客」をもつことで生きていける世界。


 この本を読んで、『ゲンロンカフェ』のネット配信は、数百人が有料で視聴してくれれば、十分やっていける仕組みになっているということを知りました。無料で何十万、何百万と「通りすがりの人」を集めて、広告収入で稼ぐコンテンツは、どうしても、スキャンダラスなものや、炎上狙い、スポンサーの好みに反しないものになってしまう。それに対して、何千円かを払って観てくれる、何百人かの「本気の人」に向けてのコンテンツをつくって、世の中を「啓蒙」したい、というのが『ゲンロン』なのです。

 正直、その何百人の力で、世界は変わるのだろうか、と疑問ではあるんですよ。
 でも、東さんがこういう試みを続けていくことが、大きな「実践的な批評」になるのでしょうし、まさに「人生そのものがコンテンツ」なんですよね。ご本人は、それを望んではいないのかもしれないけれど。

 この本の最後には、この「語り下ろし」のあとに、ゲンロンのスクール関連で起こった不祥事についても述べられています。
 「われいまだ木鶏たりえず」
 裏切ったり、裏切られたり。それでも、会社は、人生は続く。

 すごく面白い本でした。面白がれるのは他人事だから、ではあるとしても。


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