琥珀色の戯言

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【読書感想】しあわせしりとり ☆☆☆

しあわせしりとり

しあわせしりとり

内容紹介
しあわせは、つながっていく!
子供の頃の思い出、見ることのない未来、こぼれ落ちる日々…
あんなこと、こんなことが、しりとりのように連鎖する

朝日新聞連載「オトナになった女子たちへ」に加筆・修正したエッセイと
3本の書き下ろしを再編成した、とっておきのエッセイ集。

●本書より
友人らとしりとりをしながら歩いた。
しあわせなものしか言ってはいけない、名づけて「しあわせしりとり」である。
いろいろ出てきた。
「すいか」
と言った人もいた。(略)
その後、めりーごーらんど、どなるどだっく、くりすます、としあわせしりとりはつづき、この先の公園の桜がきれいだから寄っていこうよと、さらに歩いた。
いやな予感がした。――「しりとり散歩」より


 益田ミリさんのエッセイ集。
 「女性向けなのかな」と思いつつも、日常に浮かんでくる、うまく文字にできないような感情の揺れが、丁寧に書かれていることに感心しながら読んでいます。
 うろ覚えなのですが、三浦しをんさんのエッセイの解説で、「作家になるのに重要な資質は、子どもの頃のことを記憶していることだ」と誰かが書いていたんですよね。

 屋台といえば、忘れられない思い出がある。家族そろって遊園地に行った帰り道のことだ。わたしは10歳くらいだったと思う。
 夜道に、焼きトウモロコシの屋台が出ていた。しょう油の香ばしい匂い。おいしそうだなぁ、食べたいなぁ。通り過ぎたあとも、あきらめきれなかった。
 その日は父も一緒だった。出張が多く、ほとんど家にいなかった父である。父は気前よくお金をくれた。わたしは、ひとり走って買いに戻った。スキップしたいような気持ちだった。
 屋台のおいしそうな焼きトウモロコシ。おじさんにお金を渡すと、すぐに一本、ビニール袋に入れてくれた。
 手渡されたのは、端のほうで黒こげになっているやつだった。おまけに冷たかった。大人のお姉さんたちは熱々で黄色いのを受け取っているというのに、わたしのは黒こげのひんやりトウモロコシ。文句を言わなそうな客に出すつもりでよけていたにちがいない。遠くから黒こげ目がけて走ってきたカモ、いや子ガモ、それがわたしであった。
 わたしのトウモロコシを見た父は、
「こげとるなぁ」
 と笑った。
 やはり、そうか。黒こげなのか。


 大人になると、自分が子どもだった頃の気持ちを忘れてしまいがちだけれど、子どもはちゃんとわかっているし、覚えてもいるのです。
 相手が子どもだから、サービスしてあげる、という大人もいれば、「文句を言わないだろうから」と、こんな対応をする大人もいます。
 僕も小学校低学年の頃、近所の駄菓子屋で10円のものを買うのに100円玉を出したとき、店番のおばあちゃんが「10円に100円玉を出すなんてめんどくさい……」と、ブツブツ言っていたのがすごく嫌だった記憶があるんですよ。
 それ以来、その店で買うのは極力避けるようになりました。
 お店の人の側からすれば、「相手は子どもだから、何を言ってもわからないだろう」と油断していたのだと思いますが、そういう態度をとられたのって、子どもはちゃんと、覚えているのです。
 僕は相手が子どもだからといって、侮るような態度はとらないように注意しています。それはそれで、「子どもを子ども扱いできない、なんとなく堅苦しいやりとりになってしまう」というデメリットもあるのですけど。

 このとき、「こげとるなぁ」と笑った益田さんのお父さんは、これはこれで、娘にとっては「良い経験」になったと考えていたのかもしれませんね。
 店側からすれば、「焦げてしまった商品」をなんとかしてお金にしたい、というのも、気持ちとしてはわかるのですが。


 益田さんは僕と同世代なので、映画『銀河鉄道999』の話なども、ものすごく「わかる」のです。
 あの映画が公開された当時は、まだ家庭用ビデオデッキがほとんど普及しておらず、レンタルショップもありませんでした。
 映画を観に行く習慣がなかった家だったので、僕はひたすらテレビで放映されるのを待っていた記憶があります。
 ラストに流れるゴダイゴのテーマ曲が、すごく印象に残っているのですが、以前、裕木奈江さんがラジオで「思い出の曲」として、この『銀河鉄道999』を流していて、「同世代感」に浸ったんですよね。

 自分のしゃべるのを人が黙って聞いてくれている、その怖さ、面目なさ、申し訳なさ、ありがたさ、嬉しさ、勿体なさ、を、気付かないでいるのは、老いたるシルシである。


 田辺聖子さんのエッセイ集『乗り換えの多い旅』の一節を特に思い出すのは、自分がインタビューを受けているときである。
 40代のわたしが老いという言葉を使うにはまだ早いが、それでも、打ち合わせの席で最年長になることも多くなった。
 盛り上がって話しているとき、ふいに、楽しいのはわたしだけかもしれぬ……とわれに返ることがあり、やはりそれも、冒頭の田辺さんの言葉が思い出されるからであった。
 インタビューはなおさらだ。会話とは違い、わたしばかりが一方的に話している状況である。
 なんということか。
 たいしておもしろくもないわたしの話をえんえん聴かせてしまった。
 終わったあとは自責の念がざぶざぶと押し寄せてくる。耐えられず、帰り道にアーッとひとりでうめき、すれ違う人にギョッとされているのだった。


 僕も年齢的に、自分がその場でいちばん年上、という状況が少なからず出てきたのです。
 そして、話しているときに、周囲が黙って聞いていることにふと気付き、「困ったことになったな……」と逡巡してしまうんですよね。
 あまり面白くない話だとわかってはいても、突然「打ち切り」にするのは不自然だし……結局、ジャンプの10週打ち切りマンガのように駆け足で話を終えて、それはそれで、なんとなくまとまらない雰囲気になり……

 若い頃は、「自分の話がまともに聞いてもらえないこと」に憤慨していたけれど、今は、「つまらない話でも周りが真面目に聞こうとしている(あるいは、聞いているフリをしようとしてくれる)」ことに、気付かなくなってしまっているのです。
 それはたしかに「老い」かもしれない。


 いつもの益田ミリさんのエッセイ、ではあるのですが、だからこそ、読んでいると、自分の日常を少し取り戻せる、そんな感じがするのです。


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