- 作者: 石井妙子
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内容紹介
14歳で女優になった。戦前、戦後の激動の時代に112本の作品に出演、日本映画界に君臨する。しかし42歳で静かに銀幕を去り、半世紀にわたり沈黙を貫いた。数々の神話に彩られた原節子とは何者だ ったのか。たったひとつの恋、空白の一年、小津との関係、そして引退の真相──。丹念な取材により、伝説を生きたひとりの勁い女性の姿を鮮やかに描き出す決定版評伝! 新潮ドキュメント賞受賞。
僕自身は、原節子さんの映画での活躍をリアルタイムで観ていた世代ではありません。
DVDで小津安二郎監督作品での原さんの佇まいに圧倒されたのですが、引退後は人前に姿を見せることなく、「引退」どころか「隠棲」を貫いた、という伝説の存在だと認識しています。
「引退」といっても、すぐに復帰してくる人が多い芸能界のなかで、原節子さんほど、その後の人生で、徹底的に姿を消して伝説であり続けたのは、僕の記憶では、山口百恵さんくらいしかいません。
それでも、山口百恵さんの場合は、夫が三浦友和さんということもあって、本人が取材に応じたりテレビに出たりすることはなくても、芸能界を縁が切れた、とも言い難いところはあるのです。
著者は、この「伝説の女優」原節子さんの生い立ちから、なぜ映画女優になったのか、どのような人柄だったのか、そして、なぜ引退し、人前に姿を見せなくなったのかについて、関係者の取材や多くの資料をもとに書いています。
原さんは、自ら望んで映画女優の道を歩んだわけではなく、実家の家運が傾いたことと、身内に映画関係者がいたことで、女学校を中退して映画界に入ることになりました。
本人は、家のためだから仕方がない、と思いつつも、映画女優という仕事に、誇りを持つことがなかなかできなかったのです。
映画女優となった節子はロケを除けば、東京・世田谷区上北沢三丁目にあった義兄の家と、日活の多摩川撮影所をほぼ毎日、往復した。当時は所属女優も毎日のように出社したのである。たまに休みがあると保土ヶ谷の実家に顔を見せた。
保土ヶ谷尋常小学校の同級生は、そんな彼女と東海道線の中で一度だけ一緒になったことがあったという。同級生は両親に連れられて歌舞伎見物に行くところだった。一方の節子は、これから撮影所に行くのだと告げ同級生に小さな声で、こう漏らしたという。
「いいわね、朝からご両親とお芝居に行けるだなんて……」
また戦後のことになるが、ある同級生が撮影所に見学に行き、セットの中にいる節子と明らかに眼があった。ところが次の瞬間、節子は目をそらし、二度と同級生がいるほうを見ようとはしなかったという。見られたくないところを見られた……、どちらの逸話からも、そんな節子の気持ちが伝わってくる。
当時の女優、それも映画女優がどう見られていたか。
節子よりも11歳年長の田中絹代は幼くして父を亡くし、琵琶に合わせて踊る琵琶少女歌劇団に入って舞台に立ち、日銭を稼いで家族を支えていた。だが、そんな境遇にあった彼女でも「映画女優になりたい」と母に告白すると、「お前はそんな賤しいものになりたいのか」と激怒され、家の外に放り出されたという。
節子より3歳年長の山田五十鈴は、やはり家庭が困窮し、元芸者の母に勧められ芸者になろうとしていた。そこへ、日活から女優にならないかと誘いを受け映画界入りするのだが、やはり、母は、「映画女優になぞなったら嫁に行けなくなる」と言って激しく反対したという。
当時の雑誌を読んでも、いかに映画女優が見下されていたかが、よくわかる。
映画界は堕落しきった社会として描かれており、特に女優は会社幹部、監督、男優と関係しないものはなく、性病にかかったり望まぬ妊娠をしたりする。しっかりとした紹介者もなく映画界に入れば、監督の腕に頼らなくては売り出せず、つまりは身を任すことになる。それなりの給金をもらっても衣装や宝飾につぎ込み、やりくりができなくなってパトロンを求める、そんな記事ばかりが目につく。
その後、原さんは、若くして歴史に翻弄されることになります。
日本とドイツが同盟を結ぶことになり、日本でのドイツのイメージを良くするための国策映画『新しき土』に、ドイツ人のファンク監督に見初められて主演し、この映画を引っ提げてドイツに行っています。当時、外国に行くというのは、特別なことだったのです。
そして、若い時期に外国を体験することによって、日本での映画女優の地位や、貞淑な「耐える女性」の役ばかりがまわってくることに、疑問を抱くようになっていきました。
昭和15年に記録係として東宝に入社した杉本セツ子さんは、当時の原さんについて、こんな証言をしています。
節子は演技をしている時以外は、自分の存在を周囲から、できる限り消そうとしているように杉本には見えた。演技でも普段の振る舞いでも、節子からは自己顕示欲がまったく感じられなかったという。
ある時、人気のないロケバスの中で杉本が弁当を食べようとしたところ、先客がいた。後部座席で節子が、ひとり本を読んでいたのだ。
「いいのよ、気にしないで」
その眼は活字を追っている。杉本は思い切って前から聞きたいと思っていたことを口にした。
「あの、原さんはどうして、そんなに本がお好きなんですか」
すると節子は本から顔をあげて、静かにこう答えた。
「私はね、女学校をやめて14歳からこういう仕事をしているでしょう。だから勉強しなくてはいけないのよ」
杉本より3歳しか年上ではなかったが、そう語る節子はとても大人びて見えた。杉本はいう。
「原さんは女優さんらしくない女優だった。同時に、すばらしい女優さんだった」
戦時中は「愛国者」としてふるまった原さんなのですが、戦後は、映画女優として「民主主義の象徴」としての役を割り当てられるようになります。
そんななかで、小津安二郎監督の『晩春』は高く評価され、現在でも、原節子の代表作と言われているのですが、原さん本人は、この他者からの評価に不満だったそうです。
『晩春』は公開されると、批評家から絶賛させる。小津は前二作の不評を『晩春』で一挙に覆した。現在へと続く小津の名声は、この作品から始まっている。
『お嬢さん乾杯!』『青い山脈』で沸騰した節子の人気と評価もまた、この『晩春』で決定的なものとなった。「ついに小津によって大根の原節子も女優として開眼した」といった言葉の数々が見られたが、節子自身はこういった評価のされ方には内心、強く不満を抱いた。黒澤明からは現場で激しく演技指導を受け、時には涙を流したほどだった。だが、小津から演技指導を受けてはいない。自分は自分の半生を通して身につけた演技で小津に応え、それが評価されたまでのことと本人は思っていたようである。
加えて、節子は自分が演じた紀子という人物像にも好感を持ってはいなかった。親の言うことを聞いて見合い結婚を選んで生きていく。節子には自我の足りない女と映ったからだろう。節子は、『わが青春に悔なし』『安城家の舞踏会』『お嬢さん乾杯!』は好きな作品だったとしたうえで、『晩春』については公開前も公開後も、こう語っている。
<そういう意味で今後の『晩春』の役も私には一寸割り切れないものがあって演り難い役です> (『キネマ旬報』昭和24年7月1日上旬号)
<この映画の娘の性格は私としては決して好きではありません>
(『平凡』昭和25年12月号)
周囲は、原節子さんの代表作といえば、小津監督が獲った映画だと評価していたのですが、原さん本人は、小津監督作品のヒロインの受動的なところが嫌いだったそうです。
そして、心酔していた義兄・熊谷久虎監督の作品を代表作とすべく、何度も主演しているのですが、原さんの期待に反して、熊谷監督の映画は、いずれも集客、評価ともに低いものでした。
自己評価と他者からの評価に「ズレ」があるのは当たり前のこととはいえ、原節子さんの場合には、それがずっと長く続いていたのです。
自分が演じたい女性像と、女優として求められる役割が、ずっと解離したまま、原さんは小津作品に出演していました。
この本には、小津監督も、「同じような作品ばかり求められること」に不満を抱いていたのではないか、という証言も出てきます。
原さんは、昭和37年の『忠臣蔵』を最後に、映画界から引退します。
その後は、女優時代に買った土地もあり、義兄夫妻の家の敷地内の物置小屋を改装して、つつましく生活していたのです。
外出する時はマスクをすることが多かった。近所に煙草を買いに行き、鎌倉駅のそばまで化粧品を買いに行く。時には銀座まで出掛け、海にも行った。仕事をやめたら海の傍で暮らしたいと、かつて語ったことがある。残念ながら鎌倉の家から海は見えなかったが、足を運んで材木座海岸までひとりで泳ぎに行くこともあった。車を自分で運転して、少し離れたところで買い物をし、海沿いを走って帰ってくる。そんな日常を楽しんでいた。
とはいえ、大半の時間は家のなかで過ごした。映画女優になってからというもの、一歩外に出ればじろじろと見られた。それが嫌でならなかった。だから女優時代から家や部屋にこもる習慣がつき、それが少しも苦痛ではないのだった。
読書をし、時おりレコードを聴く、庭の草木を手入れし、家事をする。同じ敷地内には、姉と義兄、甥がいて少しも寂しくはない。それでも初めのうちは、友人たちを招いて麻雀や食事をすることも稀にはあった。だが、それが活字になることもあり、人と会うことをより避けるようになった。会わずに電話で話すようになり、そして、電話にも出ない相手が増えていった。
原さんは「老いた自分の姿を見られたくない」というよりも、「人に見られることに疲れ果ててしまって」隠棲したように思われます。
原さんほどの大女優でも、こうしてみると、ままならない、思うようにいかないことばかりだったのですよね。
当時の映画界の「異分子」だからこそ、原節子という人の存在感は圧倒的なものになった、とも言えるのでしょう。
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