- 作者:鈴木大介
- 発売日: 2021/03/29
- メディア: 単行本
Kindle版もあります。
好きで一緒になったのに
「ふたりが生きづらい」と思ったら
読んでください。
衝撃の「妻の布ナプキンを洗う夫」記事でTwitterトレンド入り!
熱い共感で多くの「ふたり」が涙した鈴木家の物語、最終章。
好きで一緒になったのに
「ふたりが生きづらい」と思ったら
読んでください。
衝撃の「妻の布ナプキンを洗う夫」記事でTwitterトレンド入り!
熱い共感で多くの「ふたり」が涙した鈴木家の物語、最終章。発達系女子のど真ん中を行く妻、御年41歳、子ども無し。働く意思もなく自発的に家事をするでもなく、テレビと猫とゲームにまみれて家から出ようともしないプチひきこもり。シングルインカムでワンオペ家事の夫は鬱憤蓄積し、いつしか妻に叱責や暴言をぶつけるモラハラ男に。しかし夫が脳梗塞で倒れ「後天的発達障害」ともいえる高次脳機能障害になり関係性が激変。夫は妻の「不自由」や「苦手」を徹底的に考察し、家庭改革に乗り出す。相互理解の困難と苦しさの渦中にある発達系女子×定型男子のパートナーに贈る、読む処方箋。
ルポライター・鈴木大介さんが、自らの脳梗塞発症と、闘病を支えたパートナーである妻との関係について書いた『されど愛しきお妻様』を読んで、僕は「発達障害のパートナーと生活すること」の難しさを思い知らされたのです。
この『発達系女子とモラハラ男』は、病がきっかけで、それまでは「片付かない」「家事をしてくれない」「注意が逸れてばかりで何をやるにも時間がかかる」という「妻がみている世界」を知ることになった著者が、「発達障害の妻と新たなパートナーシップをつくりあげていくプロセス」を書いたものです。
僕には、発達系女子のど真ん中を行く妻がいます。御年41歳、子ども無し、働く意思も無く自発的に家事をするでもなく、テレビと猫とゲームにまみれて家から出ようともしないプチひきこもりの妻……。交際とほぼ同時に同棲開始してから22年、結婚してそろそろ18年経ちますが、我が家もご多分に漏れず、多くの問題を抱えてきました。
どうして妻は何もやってくれないのだろう。せっかく一緒に暮らしているのに、どうして僕ばかりが働いて家事もして、僕ばかりがこんなにつらい思いをしているんだろう。
積もり積もった気持ちを叱責や暴言というかたちで妻にぶつける中、手こそ挙げないものの、それはモラハラの文脈を超えて立派な精神的DVになっていきました。
けれどそんな時、僕にとって最もつらかったのは、妻が何を言ってもお願いしても一向に変わってくれようとしないことではなく、僕自身が好きで一緒になったはずの大事な妻を追い込んだり傷つけたりしてしまうことだったのです。
加害しては自分を嫌いになり、謝る。けれど謝った理由は自分の加害的な言動に対してであって、本来自分が怒った理由である妻の行動は変わらないから、釈然としない。そして、また加害を繰り返す。
叩いた後に謝って、また叩くを繰り返すなんていうのはもう、絵に描いたような典型的DV夫の姿でしょう。加害の肯定は絶対にしてはなりませんが、叩く側にも苦しさが積もります、
けれど我が家では、その苦しい関係性が「あるきっかけ」を境に、ガラッと激変したのです。そのきっかけとは、僕自身が脳梗塞を起こし、その後遺症として高次脳障害という、発達障害と障害特性が非常に重複する障害の当事者になったことでした。関係性が激減したのも、当たり前でした。
なぜなら、自身が当事者になることで、これまで僕が妻に対して「やらない」「やろうとしてくれない」と感じて責め立ててきたことの大半が、妻にとって「障害特性でやれない」「やろうとしてもやる機能が損なわれている」だったと知ったから。
一部はマンガ化もされていて、読みやすいのだけれど、内容はけっこう重い。
ここに書かれていることは、「相手を尊重したコミュニケーションの基本」であって、発達障害のパートナー以外にも参考になるところがおおいにあるのではないかと思うのです。
僕などは、日常において、勝手に「このくらいは察して、配慮してくれて当たり前」と思い込んでいて、直接お願いを口にもしていないのに、「なんでわかってくれないんだ!」とイライラしてばかりなのだよなあ。
リリーフで全力投球すれば、1回をキッチリ抑えられるピッチャーを、先発でばかり起用して、「なんで打者一巡すると打たれるんだ!」と怒ってばかりの監督のようです。
「できないこと」を責めるより、「できることをやってもらう」あるいは「力を発揮しやすいような環境をつくる」ことって、本当に大事なんですよね。
妻と一緒に片付けをしていて得た最大の気付きは、「片付け」という大きなまとまりとしての家事が、定位置を作る、定位置に物を戻す、ゴミを捨てる、拭く、掃除機をかける、磨く等々の、いくつもの小さな作業の集合体だということだ。そして前述したように、その個々の作業を妻に指示してみると、家事に苦手意識を持っていなかった僕なんかよりも、明らかに妻の方が得意なものがある。
ならば、どうして妻はこれまで掃除や片付けができなかったのだろう。そう考えると、妻が苦手としていたのは、それら家事を構成する個々の作業そのものではなく、家事を構成する手順を頭の中で計画立てることや、注意がゴリラグルー(あるものに注意が集中・固定してそこから意識が離れなくなってしまうこと)しがちな情報を無視して作業を最後まで継続することや、そもそも「今その家事が必要な状態にあると気付くこと」ではないかという結論に至った。
もちろん、他にも妻には手先を手早くリズミカルに動かすのが苦手といった協調性運動の障害(身体的な発達障害特性のひとつ)や、不器用なのに作業が丁寧過ぎて現実的な作業時間内で作業が終わらない等々といった苦手は山ほどあるが、単体で不可能という作業はほとんど存在しない。
ここまで分かったら、もう戦略はひとつだろう。我が家における家事分担は、妻と僕のどちらかが「掃除」「炊事」といった大きなくくりの家事を分担することではない。僕は家事全体の主体性をもつ司令塔として、必要な家事の洗い出し、手順の計画をしたうえで、手順通りに個々の作業をひとつずつ丁寧に妻に指示し、どうしても妻が苦手とするところだけ僕が請け負えばいい。
こうして我が家は、掃除も炊事も洗濯も、それまで僕がほぼワンオペで抱え込んできたあらゆる家事において、僕が司令塔になって妻に作業部分を指示する「協働作業」のスタイルに落ち着いていったのだった。
そんなのかえってめんどくさいんじゃない?って思いながら読み進めていったのですが、実際にやってみると、料理でいえば、個々の下準備をやってくれるだけでも、著者の負担はかなり減り、お互いに「一緒に家事をやっているという充実感」が大きかったそうです。
妻の側も「やりたくなかった」というよりは「どうしていいかわからなかった」「うまくできなくてイライラされたり、怒られたりするのではないかと不安だった」のです。
自らの病や、家庭内での「協働作業改革」による妻との関係性の変化を通じて、著者はこう述べています。
僕にかかっていた呪いは、外で働くという役割を持たない妻は、家事労働をするか育児をするか、何らかの役割のもとに生きるべきというものだ。乱暴に言えば、働かざる者(生産性の無い者)食うべからず。けれど、突き詰めて考えると、これは極めて危険な思想だ。
なぜなら、役割の無い人間は存在するべきではない、社会に対して生産性が無い人間は生きている価値が無いという考えは、傷害や不自由を持つ者と社会を分断する最悪の呪いであり、極論すれば「津久井やまゆり園」(相模原障害者施設殺傷事件)の植松聖の論の正当化にすら与するものtなるから。LGBTに「産み育てる」という生産性のロールが無いからとして大炎上したどこかの議員の大失言にも通じる。
けれど、人のロールとは、生産的な活動だけに紐づくものだろうか。
違う。
なぜなら、いまでは家庭運営の重要な担い手となってくれている妻だが、仕事も家庭もしなかった時の妻に何のロールも無かっただろうかと思い返せば、絶対にそんなことはなかったからだ。
常に僕のそばにいてくれる妻は、第一に僕を独りぼっちにしないという役割を担ってくれていた。彼女がいるから僕は仕事が終わった後に独りで食事をしなくて済み、気持ちが削られたときにそれを共有してもらったり、答えの出ない悩みを抱えた時にも「今を楽しむ提案」をしてもらうことができた。
このロールは、どんな女性にもできることじゃなくて、妻にしかできないロールだ。
思えば僕もそれなりにだらしなくて、性格も細かくて面倒くさくて融通が利かなくて、僕と365日生活を共にして耐えてくれる女性も、僕の側が耐えられる女性も、そうそう存在しないと思う。
妻無くして、僕は今のパフォーマンスで仕事はできないだろうし、そもそも僕が高次脳機能障害となった後に自死の道を選ばなかったのも、妻がいてくれたからだ。
生産性を全く抜きにしても、「誰かのパートナーが務まる」ということだけで、それだけでも立派なロール! 僕のパートナーとして存在してくれているだけで、妻は街を歩くどんなに生産的ロールを担っていてどんなに優秀な女性よりも、得難い役割を果たしてくれている!
そう思い至ることができて、僕の中に長年横たわっていたネガな感情は、やっと消え去ったのであった。
ニートな妻はどんな人にも自慢できる愛妻になり、家族にも堂々彼女の存在の重要性を主張できるようになった。
僕は自分自身が、これまで「自分の都合」しか考えていなかったことを思い知らされました。
ただ、正直なところ、「ここまでやらなければいけない人をパートナーにするよりも、『なんでも自分でできる人』を選んだほうがラクだよなあ」という気持ちになるのを打ち消すこともできなかったのです。
「自分でできる人」であっても、ここに書いてあるような細やかな配慮を続けていったほうが、良い関係を長く続けられるだろうとは思うのですけど……