琥珀色の戯言

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【読書感想】ヒトラー: 虚像の独裁者 ☆☆☆☆

ヒトラー(一八八九─一九四五)とは何者だったのか。ナチ・ドイツを多角的に研究してきた第一人者が、最新の史資料を踏まえて「ヒトラー神話」を解き明かす。生い立ちからホロコーストへと至る時代背景から、死後の歴史修正主義や再生産される「ヒトラー現象」までを視野に入れ、現代史を総合的に捉え直す決定版評伝。


 著者は、この新書の冒頭で、こんな問いかけをしています。

「もし戦争とユダヤ人迫害がなかったとしたら、ヒトラーは最も偉大な指導者のひとりだったと思いますか?」

 僕などは、逆に「ヒトラーって、戦争とユダヤ人迫害以外に、何をしたの?」と思うのですが、当時のドイツ人に、ヒトラーナチスが支持されていたのもまた事実なのです。

 この新書、歴史的な事実を検証し、当時の状況が丁寧に描かれているのですが、その一方で、著者がそれぞれの人物の内心を勝手に想像しない、というのも徹底されているのです。
 正直、あまりドラマチックではないし、面白い、とも言い難い。ヒトラーは何を考えていたのか、というのもよくわからない。まあ、他人の考えが「わかる」というのもおかしいのですけど。

 ヒトラーほどさまざまな形で語られてきた20世紀の人物はいないけれど、ヒトラー自身が極めて邪悪な人物だったのか、状況に流されて、あんな蛮行に至ってしまった「凡庸な悪人」だったのか。
 そして、ナチスを支持した当時のドイツ人たちは、第一次世界大戦世界恐慌のダメージで「狂ってしまった人々」だったのか。


 ヒトラーは演説の名手として知られており、その「演説力」で組織の重鎮にのし上がっていくのです。

 ヒトラーの熱弁の本質は何か、その効果の秘密はどこにあったのかについては、当時から現在いたるまでさまざまに分析されてきたが、政論家初期段階の彼の演説を実際に聴いた、当時の代表的なジャーナリスト、カール・チューピクの以下の特徴的な感想は、ひとつの参考になるであろう。「ヒトラーの声は、さして大きくもなく、明瞭でもなく、こぜわしいしゃがれた声である。彼のドイツ語は、まぎれもなくオーストリア訛りだが、ウィーンのものでなく、ドイツ語も話すボヘミア地方出身の官僚が話す高地ドイツ語に似ている。オーストリアでいうところの、ちょっとくぐもった調子のしゃべり方なのだが、よく聞き取れる声で、……ミュンヒェンの聴衆にはこのドイツ系ボヘミア人の官僚ドイツ語は洗練された響きをもっている。このように容易く言葉に感化されてしまう小市民大衆をみると、合点のいく気の利いたことを誰にもわかる活き活きとした言葉で言い表す才能に恵まれた演説家がドイツ人のなかにいないのは、二重に残念に思われる。今日の口下手な連中と並べてみれば、ヒトラーはひとかどの演説家である。……彼の演説家として最も効果的な手法として残るものは、感情的興奮(センセーション)を伝染伝播させうる能力だけである。……おそらくヒトラーは自分の言ったことを信じているのであろう。いずれにしても彼に成功をもたらしてくれるのは、熱烈な確信を込めた言葉の響きなのである」。リベラルな、ボヘミア出身のジャーナリストであるチューピクは、同国人ヒトラーに対して、一方でかなり辛辣な批判も展開しているのだが、ここでは彼の演説における特質、特徴で目を惹く記述のほうを紹介しておく。


 当時の人々も、みんながヒトラーの演説、とくにその内容に肯定的だったわけではなく、むしろ、「みんなを熱狂させる演説の技術とわかりやすい言葉」には一目置いていたものの、「とんでもないことを本気で信じている(らしい)人間」だと感じていた人も少なくなかったのです。


 「ヒトラーナチスの時代」に起こったことを時系列で追っているこの本を読むと、歴史のなかで、ヒトラーを止める機会は少なからずあったということがわかります。
 選挙を通じて、あるいは、諸外国の英断によって。

 このような騒然とした雰囲気の中、決して自由におこなわれたとはいいがたい選挙戦最終日の(1933年)3月4日、ヒトラーケーニヒスベルクからのラジオ放送演説の最後を、先の大戦で東プロイセンをロシア軍から救った大統領と、西部戦線で任務に就いていた自分が、ここで(いま)力を合わせることになったのだと、感情を込めて締めくくった。しかし「国家のあらゆる手段の動員が可能であり、ラジオと新聞も自由にでき、資金にも事欠かない以上、今度の選挙は容易い戦いだ」とゲッペルスが豪語したわりには、5日の選挙の結果は、捗々しくなかった。前回の1174万票から1728万票(288議席、得票率43.9%)へと550万ほど獲得票を伸ばしたものの、ナチ党単独での絶対多数は達成しえず、国家国民党の獲得議席(52)と合わせてようやく過半数(649議席中、340議席)を占めるに留まったからである。だが新政権への「お墨付き」を得たナチ党は、勝利宣言を華々しくおこなった。ナチの暴力・抑圧にもかかわらず左翼政党は。社民党が120議席(18.3%)、共産党が81議席(12.3%)と健闘したが、二党合わせても3分の1を割り込む結果となった。政府は3日後、共産党議席剥奪を宣言し、強制的に国会から排除した。中間諸政党は、カトリック中央党が74議席(11.2%)、バイエルン国民党が18議席、その他の市民諸政党も16議席と、合計すれば1932年の水準を維持した。この選挙でヒトラーは合法的「国民革命」の最大の関門をクリアしたといえるし、ドイツ国民の大半は気づなかったが、ナチス全体主義的支配を阻止できる最後のチャンスをおそらく逸したのであった。

 1936年3月7日、ヒトラーはラインラント非武装地帯へ国防軍を侵入させるにいたった。ラインラントを再占領することによってドイツ全土にわたる国防主権を回復し、17年前に連合国が強制したヴェルサイユ条約のみならず、ドイツ自ら1925年10月に進んで結んだロカルノ条約をも一方的に破棄することを行動で示したのである。折しも防衛力整備段階から攻撃力強化段階への過渡にあった国防軍にとって、ラインラント再武装化それ自体が軍備政策の新たな飛躍のためには不可欠の前提になっていた。だが、もしフランス軍が攻撃してくれば、ドイツ軍は一戦も交えず後退しなければならず、軍事的敗北のみならず、士気の上でも致命的な影響をこうむることは避けがたいとされた。しかもヒトラーの決断は、前年の国際秩序の著しい不安定化、フランスの内政の混乱に乗じ、フランス軍が今回進撃してくることはまずないという信念にのみもとづくものだったから、ドイツ軍のこの軍事行動は、戦争のリスクを当面は最小限にしなければならない対外政策の要請と全く相矛盾する危険な賭けとなった。フランス参謀本部マジノ線(対独国境に構築していた仏軍の要塞ライン)へ13個師団を派遣したためドイツ政府はパニックに陥ったが、ヒトラーは決意を翻さず、はったりは成功した。仏英は、独軍の撤退を要求し、国際連盟も全会一致でドイツの条約違反に抗議したが、結局それ以上の措置はとらなかった。「生涯においてラインラント進駐後の48時間ほど神経がずたずたになったことはなかった」とヒトラー自身述懐したように、政権掌握以来、今回の挙が最も危険な政策であったことを独裁者みずから自覚していた、もし仏英軍が行動していたら、この時点でヒトラーの支配は終わりを告げていただろう。しかし前年3月の徴兵制導入のとき同様、仏英にあっては結局言辞的対応しかなされず、ヒトラーに対する誤った評価を覆す千載一遇のチャンスは逸せられた。3月29日の国会選挙を通じて投票者の99%がヒトラーの政策を承認した。


 正直、格調高い文章だけど、けっこう読みにくいな……とは思うんですけどね。
 選挙では、ナチスがずっと圧倒的に支持されていたわけではなかったのです。
 しかしながら、他党とあわせて過半数を獲得し、「勝利宣言」を行ったのちは、共産党を追放するなど、やりたい放題になってしまった。
 多数決で過半数を占めたほうに従う、という「民主制」は、あらためて考えてみれば、「6対4でも、いや、51対49でも、「多数派」に従わなければならない、という怖さもあるのです。当時のドイツ国民は、ユダヤ人に対して強制収容所で行われていたことを知らなかったそうですが、もし知っていたら、ナチスを批判し、政権から引きずり降ろそうとしただろうか?僕が当時のドイツ国民だったら、反逆することができただろうか?

 ラインラント進駐にしても、仏英が、「いま、戦争をしたくない」と考え、「黙認」したことによって、結果的に、第二次世界大戦が起こってしまったのです。
 もしあのとき、ラインラントでまだ未整備のドイツ軍を叩いていれば、ヒトラー政権自体が倒れていたかもしれません。
 戦争はいけない、と太平洋戦争後の日本に生まれた僕は教えられてきたけれど、「目の前の争いに事なかれ主義で対応する」ことで、将来のリスクを大きくしてしまうこともあるのです。
 だからといって、ちょっとした衝突のたびに軍事行動を起こすのが正しいとも思えないし……

 第二次世界大戦でイギリスを救ったともいえるチャーチルは、結果的に連合国側が勝ったから「英雄」になったとも言えるのです。

 ヒトラーが勝った世界、というのも、ありえない話ではなかったのですよね。

 第二次世界大戦で勝利したソ連スターリンは大粛清を行い、中国共産党毛沢東文化大革命で莫大な数の犠牲者を出しました。
 もちろん、だからといって、ヒトラーが勝てばよかった、ということはないのですけど。

 ヒトラー研究者のうち、ヒトラーの役割をナチズムにとって決定的なものとして重視する歴史家グループを「意図派」、ナチ体制内部のダイナミズム(組織やシステムの力)の重要性に着目した歴史家たちを「機能派」と呼ぶことがあるそうです。

 ヒトラーに限らず、歴史の因果関係についての叙述・分析の方法をめぐっては、「個人」と「構造」のどちらに優位が与えられるべきか、という伝統的論点がある。主題にする個人を文字通り要素定的要素ないし重要ファクターとみなす人物還元ないし人物中心史観(意図派)と、ある個人をテーマにするにしても、むしろその人物の行動の自由・余地を制約し枠づけている広義の社会的諸条件・状況を、直接その人物要素以上に重視する「構造」的史観(機能派)とがあり、これまでの多くのヒトラー伝もこの両者の間のどこかに位置してきた。少し単純化して、ヒトラーは「強い独裁者」だった。いや、むしろ「弱い独裁者」だった、という形での侃々諤々の論争が長く繰り広げられてきたことは、世界中のドイツ現代史の専門家の間ではよく知られている。論争の具体的中身を知らなくても、「強い独裁者」は言葉としては同義反復的、「弱い独裁者」は一種の形容矛盾と映るかもしれない。「個人」と「構造」のどちらを重視するかという論争に一定の結論を出したのが、英歴史家のイアン・カーショーであった。カーショーは、「個人」と「構造」を統合した「カリスマ的支配」というマックス・ヴェーバーの概念を適用する形で、カリスマ的支配者としてのヒトラーを描き出した。ヒトラーの支配はドイツ社会の幅広い合意にもとづいており、それは「総統神話」に支えられていたと解釈してみせたのである(『ヒトラー神話』『ヒトラー 権力の本質』)。さらに20世紀末に発刊された彼の上下二巻の浩瀚(こうかん)な『ヒトラー』では、安倍政権全盛時代の日本より早く「忖度」という構図に着目して、ヒトラーの独裁を支えた社会の歴史を再構成してみせた。ナチ党メンバーであれ、官僚・軍人であれ、サブリーダーたちは、おしなべてヒトラーの意思を忖度して行動したのである。


 ヒトラーの側近たちは、「総統の御意思」を自分のほうがよくわかっている、ということを示すため(あるいは、自分自身の権威を強めるため)に、より過激、より先鋭的に「忖度」する競争を行っていたようにも思われます。
 そのおかげで、ヒトラー自身の考え以上に「総統の御意思」は(主に悪いほうに)解釈され、実行されてしまった面もあるのです。
 安倍政政権下での不祥事で「忖度」という言葉が流行語になりましたが、権力者への「忖度」という行為そのものは、社会をつくるようになってからの人類の伝統芸なんですよね。
 どんなに有能な指導者であっても、長い間その座にいると、必ずと言っていいほど、問題が生じてくるのです。
「権力は腐敗する」というのは、至言だと思います。

 けっして読みやすいとは言えないし、けっこうボリュームもある本なのですが、「ヒトラーとその時代」について、研究者ではない人でも読みこなせて、ドラマチックに書きすぎていない「ちゃんとしたもの」を読んでみたい、という人にはおすすめです。


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