- 作者:渡辺 尚志
- 発売日: 2009/06/01
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
江戸時代の人口の八割は百姓身分の人々だった。私たちの先祖である彼らは、何を思い、どのように暮らしたのだろうか?何を食べ、何を着て、どのように働き、どのように学び、遊んだのか?無数の無名の人々の営みに光をあて、今を生きる私たちの生活を見つめなおす。
学校で習う歴史の大部分は、偉人たちや権力者がどんなふうに世の中を動かしてきたのか、なのです。
しかしながら、今も昔も、その時代を生きている人の多くは、Wikipediaを検索しても名前が出てこない、「普通の人たち」でした。
江戸時代の「百姓」といえば、重い年貢を課せられてなんとか食べていけるかどうかの生活で、自分たちがつくっている米を口にできるのは年に数回くらい、飢饉になれば、餓死するか一揆を起こすかしかない……
われわれの先祖は、いったい何を楽しみに生きていたのだろうか?
そんなことを僕は考えていたのです。
テレビゲームやインターネットが無い生活だって耐えられそうにないのに、生きていくため、年貢を納めるために働くだけの人生なんて……
この本では、著者が、さまざまな資料をもとに「江戸時代の中間層の百姓の生活の様子」を紹介しているのです。
読んでいて意外だったのは、彼らの生活にはけっこう「娯楽」があって、もちろん現代人ほど「豊か」ではないけれど、米もけっこう食べていたし、お金でものを買うということも当たり前に行われていたのです。
著者が紹介している統計的な推測からは、「平均的な百姓は主食の半分程度は米を食べていた」そうです。
それでも、今の感覚からすれば、「半分は米じゃないご飯を食べていたのか……」ではありますが。
著者は、平均からやや上層の江戸時代の百姓として、信濃国諏訪郡瀬沢村(現在の長野県諏訪郡富士見町)の坂本家を紹介しています。18世紀後半以降にこの家で記録されていた「金銀出入帳」「大福帳」から、日々の生活とお金の動きがわかるのです。
坂本家の、一年間の収入と支出の総額を、10年おきに示したのが表3です。収入のなかには、品物の販売代金、貸し金の返済分、小作料、借金、無尽(相互に金銭を融通し合う目的でつくられた庶民金融の組織)の掛け返し金などが含まれ、支出のなかには、品物の購入代金、信仰・娯楽・交際に関する出費、貸金、村入用(村運営に必要な諸経費の総称)、無尽掛け金、藩への上納金、奉公人の給金などのさまざまな項目が含まれています。したがって、表3は、費目の内容に関係なく、坂本家の年間の貨幣経済の全体をみようとするものです。
(中略)
次に、同家の貨幣使用頻度をみるために、表4をつくりました。これは、同家が年間に貨幣を使用した日数を、収入、支出、およびそのいずれかがあった日数(収入・支出ともにあった日も含む)に分けて示したものです。表4から、貨幣使用頻度においても、安永四年と天明五年が高いことがわかります。残る八年のうち七年は年間210~230日のあいだです。したがって、同家は18世紀末以降平均して5日に3日は貨幣を使用していたことになり、比喩的に言えば、お金がなければ3日と暮らせなかったといえるでしょう。
江戸時代の村といえば自給自足的なイメージが強くあります。現在と比べればもちろんそうなのですが、江戸時代の村にも貨幣経済は確実に浸透し、村人たちにとってはお金のない生活は考えられませんでした。
それぞれの表に関しては、興味を持たれた方は、ぜひ、この本を手にとってみてください。
この本を読んでいくと、中間層の百姓というのは、お金を使って嗜好品を買うこともあったし、娯楽や教育にもお金を使っていたことがわかります。
酷い圧政で食うや食わずの生活をしている百姓たちの姿が時代劇や歴史小説では採りあげられやすく、それが「平均的な百姓の生活」だと多くの人が思い込んでいるのです。
こういう「極端な例ばかりが独り歩きして、全体のイメージになってしまう」というのは、いまの日本でも少なからずみられている現象ではないでしょうか。
こんな話も紹介されています。
無年季的質地請戻し(むねんきてきしつちうけもどし)慣行という、江戸時代に広範にみられた興味深い慣行を紹介しましょう。
質地とは、借金の担保として質入れした土地のことです。現代では、土地に限らず、物品を質入れする際には請戻し制限が明確に設定され、期限内に請戻せなければ質流れとなって、担保物件の所有権は移転してしまいます。われわれは、契約である以上それが当然だと考えていますが、江戸時代には必ずしもそうではありませんでした。
起源が来ても請戻しせず質流れになった土地でも、それから何年経とうが元金を返済しさえすれば請戻せるという慣行が広く存在していたのです。ですから、質流れから10年、20年、場合によっては100年経っても請戻しが可能でした。そもそも、最初から請戻し期限を設定しないこともありました。これが、無年季的質地請戻し慣行です。
江戸時代の契約はルーズだったから、こうした慣行が存在したというわけではありません。一般に、中小の百姓は上層百姓に比べて経営が不安定であり、土地を質入れして借金する必要に迫られることもよくありました。また、期限内に返済できないことも少なくありませんでした。そして、返済不能の結果、担保の土地が質流れになってしまえば、経営がますます困難になっていき、ついには没落の危機に瀕することにもなったでしょう。それを防止するために、期限内には返済できなくても、後日金ができたときに元金だけ返せば土地を取り戻せるという慣行が存在していたのです。
念のために言えば、この慣行は中小の百姓だけでなく上層百姓にも適用されましたし、それが上層百姓の経営発展に役立つ場合もありました。しかし、全体的にみれば、やはり中小の百姓を保護するという役割が大きかったといえるでしょう。土地を質に取って金を貸すのは主に経済的にゆとりのある百姓でしたが、彼らにしてみれば、たとえ質流れになってもそれは完全に自己の所有地になったことを意味せず、その所有権はいつ取り戻されるかわからない不安定なものにとどまっていたのです。
この慣行は、契約内容は遵守するのが当たり前だと考えるわれわれからすれば、奇妙にみえます。もちろん、江戸時代の百姓たちも、契約書の文言などどうでもいいと考えていたわけではありません。ただ、やむを得ない事情で土地を手放さざるを得なかった人たちに対しては、後日の救済策が用意されていたのです。これは、経済的弱者を助け、貧富の格差拡大を抑止する大局的な観点からすれば、契約内容を杓子定規に履行するよりも優れたやり方だともいえるのではないでしょうか。
著者は、この慣行は幕府や大名に保証されたものではなく、「村の掟(あるいは村の取り決め)」に拠っていたと述べています。
この取り決めによって、富める村民がどんどん弱者の土地を集めて自分のものにしていく、という格差拡大がある程度抑制されていたのです。
当時の百姓たちにとっては、「村の土地は、村のもの」という意識があったことも紹介されています。
いまの時代からみれば、理不尽だと感じられる「村の掟」も、その時代には、弱者の救済や格差の是正などの機能を果たしている面があった、ということなのです。
百姓一揆について書かれた項では、1633年に出羽国(いまの山形県)で起こった白岩一揆の訴状「白岩目安」が、後世の一揆で幕府に提出する訴状のマニュアル的なものとして流布されていた、というエピソードも興味深いものでした。
人々は、白岩目安の文面を学習することにより、ゆくゆく自らが訴訟の当事者となったとき、どのような訴状を書けば勝利につながるのかを学びとったのです。また、そこには過去の大事件についての歴史的な興味関心もあったでしょう。
白岩目安は実際に提出されたものでしたが、江戸時代の後期になると、訴訟の際に領主に提出する各種文書の雛形・用例集が流布するようになりました。百姓たちは、訴訟マニュアルにしたがって、訴訟を効果的に進めるようになったのです。
百姓が領主に年貢の減免を求めた願書は、全国各地にたくさん残されています。そこには、人口減少や、それにともない耕作放棄された土地の増加、干ばつや洪水による農作物の被害など、百姓の困窮が切々と綴られています。しかし、そのなかには、訴訟マニュアルにもとづいて記されたものもあるのです。百姓たちは、自らの窮状を効果的にアピールするためのテクニックを身につけ、したたかに訴願していたのです。訴状の文面をそのままに受け取って、江戸時代の百姓の悲惨さを一面的に強調することは誤りだといわなければなりません。
こういう話を読むと、江戸時代の百姓たちも身近な存在に思えるというか、人間のやること、考えることの根本なんて、数百年単位では、そんなに変わらないのだな、と納得してしまいます。
もちろん、貧農や飢饉のときは、もっと悲惨だったのは事実だと思いますが、「平均的な事例」というのは、いつの時代も、埋もれてしまいがちではありますよね。