内容紹介
アントニオ猪木とはいったい何者なのか?
佐山聡、前田日明、武藤敬司、蝶野正洋、天龍源一郎ら
因縁の13人が証言する“燃える闘魂”の光と影そして、猪木自身にもインタビューを敢行!
舌出し失神、1・4事変、UWF、新日本身売り……
プロレス界「最大の謎」を猪木本人に問う!!
はじめにターザン山本
第1章プロレス界「最大の謎」を猪木本人問う!
アントニオ猪木「自分のプロレス、猪木イズムを次の世代に繋ぎたかった……」第2章猪木・最盛期「昭和」の弟子たち
佐山聡「タイガーマスクとは猪木イズムの結晶です」
前田日明「クソほど度胸のある猪木さんは、生粋のギャンブラー」
藤波辰爾「8・8横浜の一騎打ちで、僕は猪木さんを蘇らせた」
藤原嘉明「今でも猪木さんのためなら腕一本ぐらいは失くしてもいいと思っている」第3章 猪木・現役晩年「平成」の弟子たち
蝶野正洋「猪木さんがタニマチに仕掛けてるところを見て、このすげえなって」
武藤敬司「都知事選不出馬から、猪木さんの美学が崩れていった気がする」
藤田和之「会長に『俺を敵にまわすのか!?』って、ドスの利いた声でいわれ……」第4章新日本・前夜“若獅子”時代を知る男たち
グレート小鹿「プロレス頭は、馬場さんより猪木さんのほうが一枚も二枚も上手」
北沢幹之猪木「東京プロレス移籍」「日プロ復帰」にまつわる事件の真相第5章外部から見た“燃える闘魂”の実像
天龍源一郎どんな大金を積まれても、やるつもりはなかった猪木との再戦
石井和義「格闘技ブームの頃、猪木さんはプロレスに興味がないように見えた」
大仁田厚「猪木さんにいちばん嫌われた人間が俺ですよ」
特別インタビューサイモン・ケリーが語る
アントニオ猪木と「新日本・暗黒時代」の真実アントニオ猪木 1943-2019完全詳細年表
金曜日の夜8時に「ワールドプロレスリング」を観て育った僕にとっては、アントニオ猪木は永遠のヒーローなのです。
毎回8時45分に延髄斬りが決まって猪木が勝っても、ブルーザー・ブロディ相手に腕一本で時間切れ引き分けに持ち込んでも、アントン・ハイセルという事業で失敗して大借金を背負い、新日本プロレスの経営を危うくしても、「それが猪木というものなのだ」と思っていました。
もちろん、40代後半になった僕は、リング上の猪木には「演出」があり、経営者としては問題が多かったことを理解しています。
その一方で、どこまでが猪木の「真実」だったのか、よくわからないところがあるのです。
やっぱり猪木のことは気になってしまうので、この本を手に取ってみたのですが、第一章の猪木自身へのインタビューを読んでも、なんだかピンとこなかったんですよ。
1983年6月2日、第1回IWGP決勝のハルク・ホーガン戦。かの有名な「猪木舌出し失神事件」である。
ホーガンのアックスボンバーを食らった猪木は戦闘不能に陥り、舌を出したまま失神。猪木の優勝を信じて疑わなかったプロレスファンが唖然とするどころか、栄冠を掴み取ったホーガンでら慌てふためく昭和プロレスのミステリー。猪木失神というアクシデント要素も加わったことで一般ニュースとしても取り上げられた。この試合後、猪木の右腕で現場責任者だった坂口征二が「人間不信」の置き手紙を残して失踪したことからも、一筋縄ではいかない背景をうかがわせた。猪木は試合に負けたが、あの舌出しは世間に向けたポーズにも見えたのだ。
(アントニオ猪木)「あの時は(アックスボンバーを)受けてやるってね。たまたま当たりどころが悪かったのか、言語障害が半年くらいあったのかな。古舘伊知郎に教わって『ら・り・る・れ・ろ』を繰り返す練習をやってたんです。その後、政界に出るわけですけど、政治家がしゃべれないというのはマズいので、そのへんをいちばん危惧したんだけど、言葉もちゃんと戻ってきましたからね。
まあ、いろんなことがありましたけど、正直にいえば、あの時怒った人たち、騒いだ人たち、文句を言っていた人たちもけっこう満足してるんだよね。あんなことはとんでもない! と。たしかにとんでもないことには違いないけど、社会全体の怒りはいつの時代にもあって、何かに押さえつけられてるだけにすぎないという」
アントニオ猪木という人は良くも悪くも、人間の感情を引き出す力がきわめて強いような気がします。
それは、リングの上だけではなくて。
このインタビューも、どこまで本当のことを言っているのだろう?と思うんですよ。
でも、そういう「虚実入り混じったところ」こそ、猪木の魅力でもある。
あのホーガン戦で、アックスボンバーが決まって勝利目前なのに、「イノーキ!」と焦っているようにみえたホーガンの姿は、いまでも思い出すことができるのです。
この本の読みどころは、若手時代から新日本プロレスの全盛期、そして晩年まで、レスラーや関係者が、「自分が接してきた、演出されていないアントニオ猪木」を語っているところなんですよ。
猪木の付き人をやった後輩レスラーが口をそろえて、「猪木さんは付き人を理不尽に怒ったり、イジメのようなことをしたりすることが無かった」と言っているのは印象的でした。
前田日明さんは、こんな話をされています。
「それで俺が入門してわりとすぐに佐山(聡)さんが『格闘技大戦争』(1977年11月14日・日本武道館)に参戦することが決まって、マーク・コステロ戦に向けて練習するっていうので、急きょ佐山さんが務めていた猪木さんの付き人を俺がやることになってね。だけど、洗濯だマッサージだって全然やったことがない人間がいきなりアントニオ猪木の付き人をやらされてね、わかんないじゃん。それで生乾きのままのジャージを猪木さんのところに持って行ったりとかさ、おろしたての真っ赤なジャージを洗濯したら色落ちして、一緒に洗っていた真っ白なTシャツをピンク色にしちゃったりだとかして。それでも猪木さんは何もいわないし、怒らないんだよね。巡業中、前の日に『朝走るぞ!』っていわれていて、俺が寝坊して行っても怒らないしさ。何もいわないんだけど、たしかに機嫌がちょっと悪くなってるなっていうのはわかるんだよ」
リングの上でのストーリーや、事業に関しては「常識外れ」なことをする人だったけれど、身近に接する人に対しては、ひとりの人間として、きわめて理性的に接していたのです。
あの時代のプロレス界では、最近も相撲の世界で問題視されたような「かわいがり」が当たり前のように行われていたのですが、アントニオ猪木という人は、そういうことから一戦を引いた、孤高の存在だったようです。
アントニオ猪木の「観せかた」へのこだわりについての藤波辰爾さんの話。
「旗揚げして以来、新日本は『日プロ(日本プロレス)に負けるな!』『全日本に負けるな!』『馬場に負けるな!』っていう感じで必死にやってきていたから、もう、2~3年たったら完全に逆転していたよね。選手、社員の士気が違うんだもん。こっちは常に戦闘モードだから。
テレビ中継がある時は控室にモニターがあって会場が映ってるでしょ。猪木さんはそのモニターをチェックするんですよ。それで少しでも空席が映っていたら『あそこに空席があるぞ!あそこを埋めろ!』って、お客さんを移動させたりして、テレビが映るところには空席はいっさいつくらないようにしていた。そのくらいテレビに対しても神経を尖らせてたから。
夜8時に放送が開始してからも、猪木さんはメインイベントに出るぎりぎりまで映像をチェックしてたんですよ。中継のカメラマンっていうのは、プロレス専門じゃなくて他のスポーツも撮っている人たちだから、我々選手からすると『なんてあそこを撮らないんだ!』と思うことがあるわけよ。
そういう”撮り漏らし”をなくすために、猪木さんはテレビの中継車の中に入って、カメラを切り替えるスイッチャーとかカメラマンに『この画を撮れ!』って指示まで出してたんだよ。当時、そんなことをやってるレスラーは誰もいなかったはず。
それを今やっているのがWWEだよね。猪木さんはビンス・マクマホンより早く、それをやってたんだよ。それぐらい猪木さんのテレビに対する意識は高かった。だからこそ、あれだけの高視聴率が獲れていたんだと思うよ」
アントニオ猪木のプロレスラーとしての「セルフプロデュース」の凄さはわかっていたつもりなのですが、こんなふうに、メディアに対しても介入して、新日本プロレスのテレビ中継全体を演出していたというのは初めて知りました。
パフォーマーとして類まれなる才能があったのと同時に、演出家としての能力も高かったのです。
さらに、アントニオ猪木には「経営者としての顔」もあったのです。
蝶野正洋さんは、付き人時代に会社のトップ、団体のトップとしてのアントニオ猪木の姿に感銘を受けたそうです。
「俺が付き人時代、猪木さんが佐川急便の佐川清会長とお会いする時に同席したこともあるんだけど。当時、猪木さんは40代前半で、そういった大実業家の人たちと礼儀をもって接していて、社会人としてのマナーもしっかりしていたのが、今考えてみるとすごいなって。俺らあたりだとそんな機会もないし、猪木さんはそれを20代、30代からやっているわけだからね。
猪木さんっていうのは、そういうトップの人との付き合いがある一方で、東京プロレスとか新日本の立ち上げの時なんていうのは、今みたいなチケット販売システムがないから、一枚一枚手売り営業を自分でもやるっていう、演歌歌手みたいなこともやってたわけでしょ。そこもすごいところだよね。スポーツ界や興行界のトップどころを見ながらも、ドブ板的なこともできるという。だから猪木さんの営業力っていうのは、他の人間とは全然違うんだよね。
たとえば、新日本がドームツアーをやってた頃も、最終的には”猪木さんの営業”という詰めのひと押しがほしい、と。それで営業マンが必ず猪木さんを担いだからね。実際、猪木さんが動けばチケットで1000万円、2000万円っていう数字を動かすんですよ。
福岡ドームでやった時も、パチンコ屋さんとか応援してくれる企業の人たちと、俺ら選手や営業マンが一緒にお酒を飲んだりして協力をお願いするんだけど、もうひと押しすれば超満員になるっていうところで営業マンが、『猪木さん、出てもらえませんか』ってお願いをして、猪木さんが出てきたら、場が盛り上がると。そうすれば企業の社長さんも『猪木さんが来てくれたんだったら、こりゃ、もう1000万円くらい買わなきゃいけないな』と、なるんだよね。
で、そっからがまたすごいんだよ。まず、猪木さん得意のビール早飲みで場を盛り上げてから、『じゃあ、勝負をしましょう!』って今度はウォッカかなんかを飲んでね。そういう強い酒をガンガンやって、『これを飲んだら、もう500万円お願いします』とかいって、がーッと飲むと、企業のトップもポーンと出してくれたりするんだよ。
それで猪木さんが限界になる前に、営業マンにも同じことをやらせて、向こうもそういうのが好きな世代の社長さんなんですよ。もうイケイケの人だから飲みっぷりだとか、営業マンの豪快さを見たら、『よし、それだったら俺が出してやる!』っていう。こういう営業のやり方があるのかって、勉強になりましたね。
個人的な好き嫌いはあるにせよ、プロレスラー・アントニオ猪木の功績を否定する人はいないと思います。
その一方で、経営者としての猪木に関しては、「自分の事業にカネをつぎ込んで、新日本プロレスをダメにしてしまった」と僕は思っていましたし、一般的にも、そうみられることが多いはずです。
でも、この本で、「経営者としての猪木」のさまざまなエピソードを読むと、13歳でブラジルに移住して、その後、力道山に見いだされて日本でずっとプロレスラーをやってきた人が、紆余曲折がありつつも、「新日本プロレス」という団体・企業を育て、2020年まで(途中、他会社に売却されながらも)存続させてきたのは、ものすごいことではないか、と思えてきたのです。
稀代のプロレスラーであるのと同時に、演出家であり、企業経営者でもあったというのは、凄いことですよね本当に。
僕にとっては、「リングの外のアントニオ猪木」の一端を知ることができた、興味深い本でした。
本人のインタビューがいちばん嘘っぽいというのも、アントニオ猪木らしいよなあ。