Kindle版もあります。
かつて日本中が注目したニュースの「あの人」は、いまどうしているのか。
赤ちゃんポストに預けられた男児、本名「王子様」から改名した18歳、バックドロップを
かけた対戦相手の死に直面したプロレスラー、日本人初の宇宙旅行士になれなかった26歳、
万引きで逮捕された元マラソン女王……。
22人を長期取材して分かった、意外な真実や感動のドラマとは。大反響の連載をついに新書化。
『典子は、今』(1981年公開)の辻典子さん(現在は白井のり子さん)から、「生協の白石さん」まで。
メディアで大きな話題になり、一躍「時の人」になった人たちは、その後、どんな人生を送っているのか。
マスメディアは、その人が話題になっている時には一挙手一投足まで伝えてくれますし、多くの人が、彼ら、彼女らの動静に注目するのですが、波が去ってしまった後にも、「人生」は続いていくわけです。
有名芸能人であれば「あの人は今」のような形式で伝えられたり、本人が現状をアピールしたりすることもあるのですが、何かのきっかけで世間に名前が知られてしまった一般人の「その後」を知る機会って、あまりないですよね。
NHKの大河ドラマの登場人物の「その後」をつい、Wikipediaで調べてしまい、夜更かしばかりしている僕にとっては、非常に興味深い試みであり、読売新聞、プロ野球のことはさておき、なかなかやるじゃん、と思ってしまいました。
それにしても、時間が経つのって、早いよね。生協の白石さんが話題になり、本がベストセラーになったのは2005年、もう、17年も前の話なのです。
『典子は、今』は、サリドマイドによる薬害で両手がない状態で生まれた女性・辻典子さんを主役とした映画でした。
主人公の典子さんは、熊本県に暮らす実在の人物。足を使って冷蔵庫を開け、お茶を飲む。足の指で書をたしなみ、ミシンで洋裁もこなす。
本人にとっては、普通のこと。そこにちょっとした冒険を織り込み、典子さん自身が主演した映画は大評判となり、当時の皇太子ご夫妻(現在の上皇ご夫妻)もご覧になった。
この映画、僕も記憶に残っているのです。
日頃、自分から映画を観に行こうなんて言ったことがなかった僕の母親が、自分から子供たちを誘ったのがこの映画だったんですよね。
僕は、どうせだったらもっと楽しそうな映画がいいなあ、と思いつつ付いていったのですが、自分の母親が映画を観たい、なんていうことがあるのか、と意外だったのです。
今から考えれば、そりゃ映画くらい観るだろ、って話ではあるのだけれど。
当時、この『典子は今』は、「社会現象」であり、辻典子さんは時の人になりました。13億円の配給収入があり、この年の年間5位にランクイン。全国の学校でも上映されたそうです。
当時19歳だった典子さんは、40年後のいま、取材者にこんな話をされたそうです。
「『典子は、今」のような映画が今の時代、公開されたら観に行きますか? 今は話題にもならないと思いますよ。もう世の中は変わりました」
のり子さんは、今の社会をこう表現する。
正直、これがどこまで典子(現在は「白井のり子」)さんの本心なのかは、よくわかりません。謙遜とか皮肉だと受け止めることもできそうではあります。
あのときの僕の母親の年齢より、僕はずっと年上になってしまいました。
世の中は、確かに変わり、障害を持つ人やマイノリティへの配慮が求められるようになりました。
その一方で、「自己責任」の声や「なぜマイノリティばかりが優遇されるのか」という声もネットに溢れています。
1998年に「飛び入学」制度ができ、高校2年生からいきなり大学に入った3人の高校生は、その後、どうなったのか?
1998年1月、佐藤和俊さんの人生は、一変した。
「飛び入学 3人合格」
当時、高校生2年生だった佐藤さんには、新聞の見出しが面はゆかった。
「科学技術の最先端を切り開く人材を育てたい」と、千葉大学が全国で初めて導入した飛び入学制度。「高校に2年以上在籍した特に優れた資質を持つ17歳以上の生徒」に大学の入学資格を認めるもので、中央教育審議会がこの前年6月に制度化を答申していた。
合格者3人のうちの1人に選ばれた佐藤さんは、17歳の春、「大好きな物理の勉強に没頭できる」と意気揚々と大学の門をくぐった。
当時の僕の率直な印象としては、「高2から大学とかすごいなあ。でも、東大とか京大なら『飛び入学』のメリットは大きそうだけれど、「飛び入学」の先が千葉大学くらいだったら、高3まで勉強して東大とか京大に行ったほうが、将来のためには有利なんじゃない?人脈とか学閥とかも含めて……という身も蓋もないものでした。
でも、この本で、佐藤さんの当時の状況を知りました。佐藤さんは物理や数学がものすごくできる一方で、国語や社会では赤点を取ることもしばしばあって、「普通の入試では、名門大学に合格することは難しい」と判断していたのです。それで、自分の好きな科目の才能を評価してくれる「飛び入学」にチャンスを見出し、大学側も、「これまでの入試制度では得られなかったタイプの学生」として大きな期待を寄せていたのです。
飛び入学で入った3人は、いわば「特別待遇」だった。専用の自習室が用意され、担当の大学院生がついて、個別に学業や生活の相談に乗ってくれた。夏には米国の大学で1か月間の研修も。世間の関心は高く、海外研修ではメディアの同行取材も受けた。
それでも、浮かれた気持ちは起きなかった。「存分に勉強できて、ただうれしかった」と佐藤さんは言う。
大学院にも進み、光の伝わり方を制御できる「フォトニック結晶」を研究テーマに論文を書いて、修士号を得た。
やりすぎじゃないか、と思うほどの大学側からの手厚いサポートを受けて、佐藤さんは、研究者として成功の階段を登っていった、と言いたいところなのですが……
あれから22年。佐藤さんは今、大型トレーラーの運転手となって、夜明けの街を疾走している。
佐藤さん自身にとっては、決して「不本意な選択」ではないようですが、どういう経緯で現在に至ったのか、興味がある方はこの本を読んでみていただきたい。今の日本は研究者を志望する人の数や実績に見合ったポストの数がなく、立派な研究をしていてもそれでは食べていけない人が大勢いるのです。
記事では、3人の合格者の残り2人についても触れられていますが、大学側が狙った方向で「才能を伸ばした」とは、言いがたいようです。
もちろん、たった3人の結果だけをみて「飛び入学なんて無意味」と統計的に言い切れるようなものではないことは承知していますし、研究者というのは、もともと「成功率」が高くはない仕事ではあるのですが。
この「日本中が注目した22人」のなかには、一時的な注目を浴びたことをうまく消化し、その後の人生で武器として利用している人もいれば、事件で家族を失い、ずっと苦しみ続けている人もいます。
「ああ、そういえば、そんな人いたよね」と言われる人たちの「その後の人生」は、けっして、画一的なものではありません。
この取材に答えてくれたという時点で、本人の中で「記憶」として消化されていたり、まだ伝えたいことがあったりする人たちである、というのも事実なのです。
2015年9月16日に起こった、「熊谷6人殺害事件」で妻と2人の娘を失った加藤祐希さんは、取材者にこんな話をされたそうです。
犯罪被害者の遺族の集まりに参加したこともある。でも、事件で家族の誰かを失っていても、「全員」という人は少ないことに気づく。「あなたには奥さんがいますよね。子どもが残っていますよね──と思ってしまう。家族全員を殺されてしまった自分とは違う、と」。人それぞれに苦しみがあり、比べても仕方がないと頭では理解していても、羨むような気持ちを拭いきれない。
唯一、心を開くことができたのが、山口県光市の母子殺害事件の被害者遺族である本村洋さんだった。事件後、仕事に復帰できず葛藤していた加藤さんは、本村さんから「頑張れなくて当然です」と言葉をもらい、気持ちが楽になったという。
「ご家族を守れなかったと悔やむ中で、懸命に生きようとしている加藤さんの姿が伝わってきた」と本村さんは振り返る。加藤さんはその後、もとの仕事に復帰した。
僕はこれを読んで、加藤さんの正直さと、人の感情というもののどうしようもなさに打ちのめされました(取材をされた記者も、遺品を見せてもらった際に絶句し、仕事にならなかった、と書いておられます)。
遺族の集まりで接した相手も、理不尽な目に遭い、大事な人を失った「被害者」なのに、それでも、今の自分と比べてしまわずにはいられないのか……
人生は自分の手で変えられる、途轍もない不幸や大きな障害も、人は乗り越えていける。
……いや、人にはそういう力もあるけれど、「乗り越えられない」のもまた、人生なんだよなあ、と、希望と絶望が入れ替わり立ち替わりやってくる本でした。
既存のマスメディアの凋落が叫ばれてけっこう長くなりますが、こういう地道な取材の成果を読むと、マスメディアがこれまで築き上げてきた底力も感じたのです。