- 作者:新井 久幸
- 発売日: 2020/12/17
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
読むと書くとは表裏一体。書き手の視点を知れば、ミステリは飛躍的に面白くなる。長年、新人賞の下読みを担当し、伊坂幸太郎氏、道尾秀介氏、米澤穂信氏らと伴走してきた編集長が、ミステリの“お約束”を徹底的に解説。フェアな書き方、アンフェアな書き方とは?望ましい伏線の張り方は?複雑な話だから長編向き?「人間が書けている」とは?なぜ新人賞のハウツーを信じてはいけない?読むほどにミステリの基礎体力が身につく入門書。
タイトルは「書きたい人のための」ミステリ入門ですが、「書き方指南」というよりは、「今、ミステリを書こうという人たちには、このくらいは知っておいてほしい、ミステリの常識と現在地」を解説した本、という印象を受けました。正直、これを読むと、「書こう!」というよりは、「これは読んでなかったなあ、これは読んで(観て)おきたいなあ」という気持ちになったのです。
ミステリはそれなりに好きだけれど、古典的な名作か「今年のベスト」か、以外の情報が乏しくて、その隙間を埋めたい、という人のためのブックガイドとして楽しく読めました。
現代のミステリというのは、科学捜査の進歩や監視カメラの常設、ほとんどの人が携帯電話を持っている、などということを考えると、「物理的な密室などの謎がつくりにくい時代」ではありますよね。
ミステリファンが「フェアだ!」「いや、アンフェアだ!」、と喧喧囂囂(けんけんごうごう)している様を眼にしたことはないだろうか、ミステリもスポーツと同じで、正々堂々勝負すること、フェアプレイが重んじられる。そうした、「フェア・アンフェア論争」で最も物議をかもしたのは、アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』だろう。読んでみれば、何が問題になったのかはすぐに分かると思うが、できれば多少ミステリを読んでから、この作品にあたるといい。その方が、議論の焦点がよく見えるはずだ。
- 作者:アガサ・クリスティー,羽田 詩津子
- 発売日: 2012/08/01
- メディア: Kindle版
僕も誰かに「これは読んでおいたほうがいい」と言われて、『アクロイド殺し』を読んだ記憶があります。
アガサ・クリスティという人は、あの時代に、現代に通じるミステリのほとんどすべての類型をつくってしまったような気もするんですよね。ショートショートは、星新一さんがひとりでつくって、ひとりで終わらせてしまった、なんていわれるのですが、ミステリは幸いなことに、「クリスティ後」も繁栄しています。
こういう「古典中の古典」といえる作品から、小説だけでなく、こんな作品への言及もなされているのです。
「読者への挑戦」は、ミステリにおける様式美の一つでもあるし、そこで立ち止まって犯人を推理してみて欲しい、という作者からのリクエストでもあるだろうが、実際に手を止めて推理する人は、案外少ないのではないだろうか。
理由の一つは、メモでも取っていない限り、そこまで細かい記憶が維持できていないこと。そしてもう一つは、先を読みたい欲望が勝ってしまうことだ。
もちろん、実際の事件ではないから、そこで推理しなかったとしても、間違った犯人を指摘したとしても、何ら問題はない。
ところが、「ちゃんと推理しないと、犠牲者が増える。それどころか、自分も犠牲者になってしまう」というミステリが存在する。
「かまいたちの夜」(我孫子武丸/スパイク・チュンソフト)というゲームだ。サウンドノベルと呼ばれるこn作品では、映画やBGMに彩られた画面上の文字を読みながら、物語を追いかけていく。プレイヤーは主役として登場人物の一人となり、その視点で物語は進む。だから、プレイヤーとゲームの主人公が見聞きしたことはイコールになっている。
途中途中に選択肢が現れ、そこでの適切な判断、推理を行っていかないと、惨劇を止めることはできず、自分もその一人となってしまう。適当にプレイしているだけだと、永遠に事件は解決しないし、それどころか、生還も覚束ない。
ゲームブックという形式もあるにはあるが、複雑に絡み合う選択肢と分岐はさすがに処理しきれないだろうし、その気になれば先に結末を読んでしまうこともできるから、あまり向いているとは言えない。
「自分がしっかりしないと事件が解決しない」というプレッシャーを、これだけ直に感じさせる作品は、この「かまいたちの夜」をおいて他にないだろう。
サウンドノベルって、もっと流行って、いろんな作品が出ると思っていたんですけどね……やっぱり、いろんな分岐をつくる手間の割に売れない、ということなのかな……
『かまいたちの夜』はシリーズ化もされています。
紙の本なら残りのページの厚み、Kindleでもページ数表記で、「あとどのくらいでこの話が終わるのか」がわかるじゃないですか。映画だって、「だいたいの上映時間」は予習していなくても2時間くらいだとみんな思っているはずです。
サウンドノベルには、「いつ終わるかわからない」という面白さもあったんですよね。
ただ、逆に「推理がうまくいってしまうと、かえって何も起こらなくて面白くない」とも感じました。まあ、それは他のバッドエンドの分岐を後で確認していけば良いのですが。
著者は、ものすごく作品の紹介が上手いんですよ。ミステリだけに、「ネタバレしない」という掟を守りつつ、読んで(観て)みたくなるのです。
もちろん、すべてを文章で伝えられればそれに越したことはないし、まずはそこを目指すべきなのだが、ネタによっては、一枚絵を眼前に突きつけられる方が、余程説得力を持つことがある。
小説ではないが、その具体的な例として、『鑑定士と顔のない依頼人』という映画を紹介したい。「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ監督の作品で、全編にわたって様々な謎が隠されている。その大きな秘密の一つが明かされるクライマックスの場面は、一瞬で何があったのかを分からせる印象的な一枚絵の映像で示される。文字で説明することも可能だが、どうしても何行かを費やし、まどろっこしくなってしまう。この映画は、本当に一瞬で、すべての情報を伝えているのだ。
みている側と同様、作中人物も瞬時にすべてを悟るため、非常に鮮烈な印象をもって記憶に残る。「確かに教えてもらったわけではなく、自分で理解した」というオプションがつくから尚更である。
難しいパズルを解いたとき、TVゲームでダンジョンの仕掛けを解いたとき、「我ながら天才!」と思った経験はないだろうか。そういう閃きの快感を与えてくれた作品は、長く記憶に残るものだ。
この「一枚絵の映像」にたどり着くために、『鑑定士と顔のない依頼人』という映画を観てみたくなります。
著者は「(ミステリ作家として)デビューするために、もっとも大事なことは何ですか?」という質問に対して、こう答えておられます。
複数の作家が、同じような質問を受けた場面を目にしたことがあるが、異口同音に答えていたのは、「まず、一つの作品を最後まで書き上げること」だった。なるほおど、と思うし、その通りだとも思う。
長篇であれ、短編であれ、一つの物語を最後の一行まで書き切るのは大変なことだ。なんだかんだと途中で筆が止まってしまうこともあるし、「何をもって終わりとするのか」という判断は、実は結構難しい。
構想を膨らませ、いざ書き始めたはいいが、書くにはどうしても一定以上の時間がかかる。書きかけのままになってしまった物語はないだろうか。仕事をしながら、学校に通いながら、毎日の空き時間を少しずつ積み重ねて執筆にあてるというのは、並大抵の根性でできることではない。
そして、書いているうちに、「思うように話が進まない」ことや、「思うように上手く書けない」という局面は、必ず訪れる。
それでも、とにかく挫折せず最後まで書き切る。それが最初期の段階ではもっとも大切なことだ。
僕自身も読者として、他人の作品にあれこれ言いたくなることはあるのですが、そういう「評価される舞台」に上がることが、最初にして最大のハードルなのかもしれません。僕自身も、書きかけのものや、書いている途中であきらめてしまったものがいくつかあるので、これは本当にその通りだと思います。
作品を完成させることができる、というのが、すでにひとつの才能であり、能力でもあるのでしょう。いまは、ネットの投稿サイトなどでも、書いたものを読んでもらうことができる時代ですし、これは、ミステリを書いてみよう、という人には、すごく効率よく「基本」を知ることができる新書だと思います。
- 作者:アガサ・クリスティー,青木 久惠
- 発売日: 2012/08/01
- メディア: Kindle版