琥珀色の戯言

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【読書感想】結婚の奴 ☆☆☆☆

結婚の奴

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Kindle版もあります。

結婚の奴

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内容紹介
人生っていい!!

人生って多分いい!

――岡村靖幸(音楽家)

人生を変えるような恋愛だの結婚だのは無理だが、ひとりは嫌だ――

ゲイの男性と「結婚」と称して同居を始め、

恋愛でも友情でもない二人の生活をつくるまでを綴った能町みね子の最新作。

「ウェブ平凡」連載「結婚の追求と私的追究」の単行本化。


 ひとりで生活していることがなんだか物足りなくなり、「誰か」と一緒に生きてみようと思う、というのは、僕にもわかるんですよ。
 でも、そのために、性的なつながりがまったくなく、恋愛感情も抱いていない異性と「結婚」するのか……

 と思いながら読んでみると、著者が選んだのは、法律的に籍を入れるわけではない、『事実婚』だったのです。
 著者は「法律婚とか事実婚とかにはあまり意味はない」というスタンスなのですが、僕は正直、その法律的な結びつきのめんどくささとかややこしさを抜きにして「結婚」って言ってしまうのはどうなのか、と思います。
 法律婚なんて形式にすぎない、と多くの人が言うけれど、形式が人を安心させたり、苦しめたりしている。
 事実婚でも、婚姻の解消や相続とかに関しては、現在はそれなりの権利が認められているのだけれど、ここに書かれているのは、そういう権利が(少なくとも現時点では)発生するような関係ではなさそうだし。
 「共同生活」とか「シェアハウス」みたいなものに、「結婚」というタイトルをつけて煽っている。
 正直、「こんなのどちらかがイヤになったり、気が合わなくなって、『やーめた!』って言ったら、それで後腐れなく終われる関係じゃないか。それは『結婚』なのか?」と呪いの言葉を吐きたくなるのです。

 著者は「自分には交際や恋愛は無理だ」という強い確信があった、と述べています。いままで何度か恋愛のようなものを試してみたけれど、ことごとくうまくいかなかった、と。
 世の中に「恋愛」というものにあまり関心を持てない人というのは、実際はかなりの数、存在していて、周囲から「〇〇ちゃんも、そろそろいい相手を見つけなきゃね!」とか言われるたびに、「別にひとりでいいのに……」と心の中で呟いているのではないでしょうか。
 そういう人たちが、ある日、ある人に出会ったとたんに、「好き!」みたいなモードに入ってしまうというのも、恋愛というものの不思議さではあるのだけれども。
 子どもはけっこう「自分は絶対結婚しない!」なんて言うけれど、ほとんどの人は、どこかで「やっぱり結婚してみようかな……」となるわけですし。

 こうして、何も起こらないまま、一連の「結婚について考えるブーム」が失速しそうになったとき、頭の底にほんのり灯ったのは作家の中村うさぎさんの例だった。
 うろ覚えだけれど、中村うさぎさんはゲイと結婚している、と聞いたことがあった。本人も夫も、結婚とは関係なく恋愛を奔放に楽しみつつ、共同生活を送っているらしい、と。
 それはいい。まず絶対に夫婦が恋愛関係にならないのがいい。恋愛関係が起こりえなければ、お互いの相手への気持ちの重さがバランスを欠いたり、気持ちが行き過ぎて裏返り、大嫌いになったりすることも起こりづらい気がする。
 一般的に結婚というと、恋愛なりお見合いなりをして、両家が顔を合わせて、大げさな式をして、指輪を贈って贈られて、お互いが永遠の愛を誓って……と果てしなくつづくかのような重苦しい段取りがあるけれども、そういう結婚の内臓のようなものは全部取っ払った、事務的な、お互いの生活の効率性のためのような結婚、これはいい。その結果がいまいちだったらすぐ離婚していい。人を食ったような結婚がしたい。


 ということで、著者はSNSから交流がはじまったゲイの「夫」と結婚生活を送ることになったのです。
 
 正直、これが「結婚」だ、と言われたら困惑するのです。
 ただ、このエッセイ集に書かれていることには、けっこう共感するところはあるし、著者の「みんながやっている(であろう)ことを、どうしても『普通』に染まれない自分もやってみたい」という気持ちからの「魂と身体の彷徨」みたいなものには、ものすごく引きつけられました。
 読みながら、「こんなこと書いていいの? 他人に読ませていいの?」と、こちらがいたたまれなくなるところもたくさんあったのです。

 とくに若い頃、「『恋愛』というものがずっとピンとこなかった」という著者が、ネットでメンヘラ的な日記を書いて人気を得て、相手は誰でもいいか、という感じで、とりあえず身近にいた相手と付き合ったときのエピソードは、読んでいてヒリヒリせずにはいられませんでした。
 僕も「自分は恋愛というものに向いていないのではないか」とずっと思っていて(今もずっと、そういう気持ちは続いています)、自分の「感情」というものに自信が持てないので。
 若い頃の「お試し恋愛」では、著者に「こうすれば、相手の男はこう動くはず」という計算があって、まさにその通りの反応を相手が示す。

 しかし……。改めて目の前にいる、汗に湿った相磯さんの頭部から胸部までを眺めながら思う。
 この人と、つきあうのか。いくら「とりあえず誰かとつきあう」が目標とはいえ、これでいいのか。
 話していて不快な印象は少なくとも、ない。それなのに、私はなぜこんなにためらっているのか。容姿か。
 容姿だった。
 まさか自分が、ネットのなかから抜け出して実際の人間の男性とおつきあいしたりセックスしたりする目的で会ってみて、容姿でこんなに抵抗を感じるとは思わなかった。イケメンが好きだとか、ジャニーズ系がかっこいいとか、世間で言われるような典型的な好みにはまったく共感したことはなかったというのに、自分より背が小さいこととか、実年齢よりだいぶ上に見えることとか……いやそれ以前に、実際におつきあいをするという前提で見てみると、男性という生きものの首から上の毛の生え方だとか、毛穴から脂や何かがにじみ出ていることによって光る肌とか、細部の生々しさがそれぞれ鈍く主張して迫ってくる。こういった要素に私がこんなに抵抗を感じるとは思わなかった。
 しかし、これはいわば通過儀礼にちがいない。


 あまりにも賢くて、自分の感情を自分の理屈で説得してしまう人だからこそ、落ちてしまう無間地獄のようなものがある。
 そんなに嫌なら、不快ならやめとけよ、と僕は読みながら、著者の過去の記憶に叫ぶのだけれど、もちろん、結果は変わらない。
 僕自身も、こういうところがある人間だから、読んでいて、すごくきつかった。
 相手の男性も、著者のそういう感情を利用して楽しんでいた、というタイプではなかっただけに、なおさら。
(いやまあ、「つけこむタイプ」であれば、それはそれでものすごくムカつくわけですが)

 学生時代に、子供は欲しいけど絶対に結婚はしたくない、一人暮らしが快適すぎて人といっしょに住むなんて考えられない、なんて言っていた友人は、その後結婚を済ませたどころか夫の実家で義母といっしょに暮しているらしい。いろんな人を好きになっちゃうから結婚だけは絶対しない、と言って奔放に何股もかけていた別の友人は、いまツイッターのプロフィール欄にわざわざ「新婚です」なんて嬉しそうに書いている。
 人の言ってる恋愛観や結婚観なんて、まともに信じてはいけないのだ。それがちょっと「常識」から外れていたからといってぬか喜びしてはいけない。聞くだけ無駄なので酒の席での埋め草として消化し、全部忘れたほうがよい。どんどんみんな「常識」に吸い込まれていく。世間の「常識」の強さをなめたらいかん。
 私は昔、絵本の『100万回生きたねこ』の意味がまったく分からなかったのだ。
 いや、本当はいまでも分かっていない。解釈を聞いて、人はこれを読んでこのように感動するという一般的なプロセスは知識として得たけれど、まったく納得できていない。私は、『100万回生きたねこ』が分からないというところが自分の最大の急所にして命綱でもあると思っている。あれが分かるようになったら私は私ではない。


 『100万回生きたねこ』か……
 僕は「あの物語の意味は理屈としてはわかる」けど、感動するというより、「それで死んでしまうのは勿体なくない?」って疑問ではあったのです。
 もちろん、著者のように深く考えてはいなかったけれど。

 なんというか、ものすごく「刺さってくる」本なんですよ。
 幸せで長閑な「恋愛抜きの結婚生活」が描かれているのかと思ったのに、なんでこんなにヒリついた気分になってしまうのか、と恨み言を述べたくなるくらいに。
 ただ、これほど「読むと何かを言いたくなるエッセイ集」というのは、そんなに多くはないだろうな、とも思います。


私以外みんな不潔 (幻冬舎単行本)

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