琥珀色の戯言

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【読書感想】奇跡の社会科学 現代の問題を解決しうる名著の知恵 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

社会科学とは社会について研究する学問であり、政治学、経済学、社会学、人類学、国際関係論などが含まれる。その古典を読み返したところで、当時とは時代が違うのだから役に立つことはないと思われるかもしれない。ところが驚くべきことに、現代を理解するためにはこれらの古典の知見について知る必要があり、さらに言えば現代で起こる様々な失敗は、古典の知恵を知らないために起こったものが多い。組織が官僚化することによる停滞、「抜本的な改革」に潜む罠、株式市場を活性化させることの危険性……。「教養にして実用」である社会科学の知見を明快に解説。

【本書で取り上げる社会科学の古典】
マックス・ウェーバー「官僚制的支配の本質、諸前提および展開」
エドマンド・バークフランス革命省察
●アレクシス・ド・トクヴィルアメリカの民主政治』
●カール・ポランニー『大転換』
エミール・デュルケーム『自殺論』
E・H・カー『危機の二十年』
●ニコロ・マキアヴェッリ『ディスコルシ』
●J・M・ケインズ雇用・利子および貨幣の一般理論


 「古典的な名著」と呼ばれる本を、読むべきか、読む必要はないのか。
 無限に時間があれば「読んでおいた方が良い」のは間違いないのでしょうけど、研究者ではない僕に使える時間は限られています。
 すべて「源流」まで辿っていくのは、あまりにも大変です。
 「古典」には、そう簡単に読み解けないものもたくさんありますし。
 新しい思想は、これまでの知見や経験を踏まえた上で生み出されたものだろうから、とりあえず新しいものを読んでおけば良いんじゃない?とも思うのです。

 その一方で、近年になって、新自由主義が先鋭化しすぎたことによる格差の拡大への問題意識から、『資本論』をはじめとするマルクスの思想が、あらためて注目されてもいるんですよね。

 著者は、マックス・ウェーバーやJ・M・ケインズからニコロ・マキアヴェッリまで、幅広い社会科学の古典を概説しながら、彼らの思想の(少なくともこの数百年においての)普遍性を読者に紹介しています。

 本書は、社会科学のための入門書として、社会科学において特に重要な古典を分かりやすく解説したものです。合わせて、それらの古典が現代の世界を理解する上で欠かせないものであることも明らかにしていきます。

 先ほど、社会科学も、自然科学と同じように、「巨人の肩の上」に乗っているものだと言いました。
 しかし、社会科学と自然科学には、大きな違いもあります。
 自然科学は、新たな発見によって進歩していきます。このため。現代の物理学者は、ニュートンよりも物理学に詳しいし、現代の天文学者ガリレオよりも宇宙について知っているし、現代の生物学者ダーウィン以上に生物学を究めています。
 ですから、現代の自然科学者が、最新の知見を得るために、ニュートンガリレオダーウィンの著作を読み直すということは、あまり考えられません(最も、私は自然科学者ではないので、違っていたら申し訳ありません)。

 ところが、自然科学の場合は、現代の世界を理解するために、百年前、二百年前、場合によっては四百年前に書かれた古典を読み返す必要があります。というのも、どうも社会科学は、自然科学のように進歩するものではないようなのです。進歩どころか、退歩する場合もあるくらいです。例えば、現代の経済学者よりも優れた経済学者が百年前に這いました。現代の政治学者や社会学者の中には、百年前、あるいは二百年前に書かれた古典を何度も読み返し、新たなインスピレーションを得ている人も少なくありません。
 社会学者の古典というものは、いつまでもその輝きを失うことはありません。不滅なのです。


 この本を読んでいると、確かに、長く読み継がれている名著というのは、時代の流行に左右されない「人間というものの真理」が書かれているように思われます。
 こうして書籍化する際に「著者が学んできた先人たちの、今の時代にも当てはまるところ、普遍的な部分が大々的に紹介されている」のも事実だと思います。『ノストラダムスの大予言』みたいなものですよね、というのはさすがに言い過ぎか。

 それでも、僕のような素人には敷居が高い「社会科学の古典」のなかで、「どれを読めばいいのか」あるいは、「どんなことが書いてあるのか」が分かりやすく、今の日本での具体的な状況に照らして述べられているのは貴重だと思うのです。
 

 今回は、(エミール・)デュルケーム(1858ー1917)が1897年に発表した名著『自殺論』を採り上げます。
 私事になりますが、私は、19歳の時に、初めて『自殺論』を読んで大変な衝撃を受けました。私が社会科学を研究しようと決めたのも、この『自殺論』がきっかけとなったと言ってもよいでしょう。
 まず驚いたのが、デュルケームの目の付け所の凄さです。
『自殺論』というタイトルから、それが自殺の原因を探究したものだということは明らかですが、普通は、自殺とは個人の行為だから、人を自殺へと駆り立てる心理を研究したものだと思うのではないでしょうか。
 ところが、デュルケームは、個人の心理とは別の角度から、自殺の問題に切り込みました。
 彼は、当時のヨーロッパの主要国における自殺者の数の統計を見て、ある傾向に気づきました。
 例えば、1848年、フランスで二月革命が起き、その影響が全ヨーロッパに及ぶという事件がありましたが、この年のヨーロッパでは、どの国も自殺者数が激減し、その後、また増加しました。また、ドイツでは、1866年の普墺戦争の直後から自殺者が増え、フランスではナポレオン三世第二帝政が絶頂に達する1860年頃から、イギリスでは自由貿易の運動が最も盛んになった1868年前後から、自殺者数の上昇が見られました。
 つまり、社会環境の変化と、自殺者数の増減との間に、何らかの関係が見てとれるのです。
 こうした統計的な事実から、デュルケームは、自殺と社会環境の返還との間には、何か関係があるのではないかという仮説を立てました。
 もし、自殺が社会環境の変化と関係するのであるならば、自殺は、心理学ではなく、社会学のテーマということになります。
 デュルケームは、そのように宣言した上で、自殺に関するさまざまな仮説を、膨大な統計のデータと緻密な論理によって、検証していきます。


 社会が戦争や疫病、不況などで不安定になるほど、人の心も不安にさいなまれ、自殺者は増えるだろう、と僕は思っていたのです。
 しかしながら、デュルケームは、その「思い込み」を妄信せず、データを検証していきました。宗教や家族、革命や戦争と自殺者数の関連を調べていき、「社会や家族という共同体との絆が強いほど、自殺する確率は下がる傾向がある」とデュルケームは結論づけています。

 逆に言えば、宗教や家族といった共同体との固い絆、悪く言えば「しがらみ」から解放された個人主義者は、自殺に向かいやすいということになります。
 個人主義的になって自殺するような類型を、デュルケームは「自己本位的自殺」と呼びました。
 要するに、デュルケームは、個人主義という考え方は危険だと言っているのです。

 さて、冒頭で私は19歳の時に『自殺論』を読んで大きな衝撃を受けたと言いました。
 というのも、高校までの私は、よくこんな話を教えられてきたからです。
「西洋人は個人主義的で、個が確立している。これに対して日本人は集団主義的で、人間関係ばかり気にしていて、個が確立していない。未だにちゃんと近代化していないのだ。だから、日本人は、これからは、個を確立しなければいけない」
 このような日本人論あるいは比較文化論は、今でも根強く流布しているでしょう。
 ところが、デュルケームは、近代の西洋人に対して研究し、「人間は、個人主義的になると、自殺に走りやすくなる」「人間には、共同体との絆が必要だ」と結論したのです。要するに、「個の確立」などというのは、近代西洋でも幻想に過ぎないということです。
 デュルケームの『自殺論」といえば、近代社会学の古典です。彼が創設した社会学は、今日の社会科学にも大きな影響を及ぼしています。
 西洋から社会科学を輸入するのが好きな日本の知識人であれば、当然、デュルケームの説を知っているはずでしょう。
 それにもかかわらず、どうして、「西洋人は個が確立している」「日本人には、個の確立が必要だ」などという話がまことしやかにまかりとおっているのでしょう。これではまるで、日本の自殺者数を増やそうとしているようなものではないですか。


 著者は、小泉元総理が一大ブームを巻き起こした「郵政民営化」の選挙のことも振り返っているのです。
 あのときは、僕も「改革反対派の大物議員たち」が「刺客」を送られ、落選していくのをみて内心面白がっていたのです。
 でも、郵便局員の「特権」が奪われ、郵便局が減ったからといって、僕の日常に良いことなんて何もなかったんですよね。そりゃ、少しは郵便局員の接客態度はマシになったかもしれないけれど、民間企業として利益を上げるための強引な保険の勧誘が問題になりましたし、電子メールやLINEの普及で、「紙で配達されてくるのは、来なくてもいい宣伝ばかり」です。

 しかしながら、日本だけがあの時に「新自由主義の波」に乗らずに、日本型経営を貫いていたら良かったのか?と言われると、「果たしてそうだろうか?」と考え込んでしまうのです。
 あの「小泉改革」で日本はダメになったのか、あれがあったから、まだこのくらいで済んでいるのか……

 著者とほぼ同世代の僕は、「日本が置かれてきた状況を考えると、世界(西欧)の後追いをするしかなかった」とも思います。
 人間というのは、経済的に豊かになり、宗教や家族などのしがらみが薄れれば「個人主義的」になる生き物ではないのだろうか。

 新自由主義が支配的な経済思想となったのは、冷戦が終結し、社会主義の敗北が決定的になった1990年代頃からです。私はその頃、大学生でしたのでよく覚えていますが、新自由主義はまさに時代の雰囲気で、マスメディアでは「小さな政府」「規制緩和」「自由化」「グローバル化」の大合唱でした。大学で学ぶ経済学の教科書も、自由市場の意義を強調し、政府の規制の問題点を指摘するものばかりでした。そして、ケインズ主義は時代遅れの経済学だとして嘲笑するのが流行っていました。
 さて、この1990年代に、20歳から30歳であった若者たちは、時代の空気を吸って成長し、新自由主義という思想に染まっていきます。そして、「新自由主義が教えるような理想的な世の中へ日本を変えたい」などという志を抱き、政治家や官僚あるいは経済学者への道を歩んでいきます。
 そんな彼らも、20年後の2010年代になると、40歳から50歳という働き盛りの政治家、官僚あるいは経済学者になります。つまり、世の中を動かせるような立場になったというわけです。すると彼らは、若い頃に抱いた新自由主義の理想を今こそ実現する時だと奮い立って、念願の新自由主義的な改革に邁進し始めました。
 世界は20年前とは大きく異なり、すでに金融市場の不安定化や格差の拡大といった新自由主義の弊害が顕著に現れています。それにもかかわらず、その現実が見えずに、新自由主義という20年前の古い思想を今さら持ち出してしまったのです。
 だからケインズは「危険なものは、既得権益ではなくて思想である」と言ったのです。


 基本的に、人が理想を抱く年齢と、それが実行できる立場になれる年齢にはタイムラグがあって、環境や状況は、理想を抱いた時とは、大きく変化しているのです。
 そこで、長年の「思想」を捨てられる人はほとんどいない。
 僕だって、そういう人間なのです。単に、世の中を変えられる立場になれるほどの実力がなかっただけ。

 「社会科学に興味はあったけれど、難しそうだし、何を読んでいいのかわからないし……」と先送りし続けてきた人は、古典的名著への入り口として、手にとってみてください。この新書だけ読んで、わかったような気分になってはいけないな、とも思いつつ。


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