琥珀色の戯言

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【読書感想】紳士と淑女のコロシアム 「競技ダンス」へようこそ ☆☆☆☆☆

紳士と淑女のコロシアム 「競技ダンス」へようこそ

紳士と淑女のコロシアム 「競技ダンス」へようこそ

  • 作者:二宮 敦人
  • 発売日: 2020/03/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


Kindle版もあります。

単行本・文庫の累計22万部超!
『最後の秘境 東京藝大』著者、次なる探検先は
大学生が舞い踊る「学生競技ダンス」だ!

正装はパンツの上からスクール水着?
どんなに激しく踊っても髪を揺らしてはいけません?
究極の笑顔の破壊力とは?
脇の下の筋肉を鍛えてライバルを優雅に蹴散らし、
光速スピンで肉体の限界を軽やかに超える。
学生競技ダンスはコロシアム(体育館)で繰り広げられる「究極の格闘技」だ。
キレッキレに踊れる小説家が、大学時代を捧げきった「秘境」に再度ご案内。


 著者の二宮敬人さんは、学生時代に「競技ダンス部」に所属していたそうです。
 大学の運動部の多くは、初心者がいきなり入部してはじめても、経験者にまともに太刀打ちできないのですが、経験者が少ない「競技ダンス」であれば、大学からでも大会で活躍できる!と勧誘され、「その気」になって。
 僕も同じような経緯で、大学の弓道部に入ったので、この本に書かれている、著者の分身の大学での部活生活に自分を重ね合わせながら読みました。
 この本、大学で男女が一緒に「競技」をする部活に入った人にとっては、ものすごく「沁みる」と思うんですよ。

 競技ダンスは、男女がペアでやるものなのですが、「固定」という特殊な仕組みがあるのです。

 固定とは、固定カップルのことである。
「つまり、毎回同じ人と試合に出るってこと?」
 妻の言葉に、僕は頷く。
「そう。二年生の秋に固定が決まる。その後はずっと同じ組み合わせで試合に出るんだ」
「一年生のうちは、いろんな人と試合に出るって言ってたけど……」
「ローテーションで、様々な組み合わせを試して、相性を見ていくんだ。つまり、固定を決めるための情報を集めてるわけ」
「あれ、男女で人数が違った場合はどうなるの?」
「組めなかった人はシャドーって言って、相手がいない状態になる。シャドーは一橋大学の選手としては試合に出られない」
 だから二年生は、衣装を先輩に借りることが多い。もし組めなかったら、買っても無駄になるかもしれないから。
 なんだ、と妻は拍子抜けしたような顔をしていた。
「つまりレギュラー選手と補欠みたいなものね」
「それはちょっと違う。補欠なら頑張ればレギュラーに上がれる可能性があるけど、ダンス部では一回シャドーになったら、ずっとそのまま」
「え、練習してうまくなっても、もう固定カップルにはなれないの?」
「基本的にはそう。それまで同じ立場だったのに、二年生からは固定組とシャドー組と、はっきり二分されてしまうんだよ」
 ふうん、と首を傾げてから、妻が聞く。
「固定は、誰が決めるの」
「二つ上の代、つまり自分の親代が決める」
「基本的には、上手な順に組めるわけでしょう」
「まあ、そうだね。体格や身長のバランスもあるけれど……」
「愛しに出られなくなっちゃうのは辛いけど、それも実力だよね。体育会なんだから、勝つチームを作らなくちゃならないんだろうし」
 僕は頭を抱えた。固定は、そんなに爽やかな仕組みではないのだ。しかし妻には伝わらない。僕もどう伝えていいのかわからない。


 この「固定」という仕組みの残酷さ、難しさは、特定のパートナーが決まるまでの競技ダンス部が、けっしてラクじゃないけれど、けっこう楽しそうなだけに、際立つのです。
 それまでずっと「仲間」としてやってきた同級生たちが、「特定のパートナーがいる、大学の名前を背負って試合に出られる人」と、「団体戦のメンバーとして、あるいは他校のシャドーとペアを組んで出ることはあっても、自分が所属している大学では、何かよほどのアクシデントがないかぎり、ペアで試合には出られない人」とに、二分されるのです。
 競技ダンスには「シングルの部」は存在しない。

 著者の分身の世代は、男子部員が少なかったため、女子部員の半分くらいが「シャドー」に回ることになりました。
 これが、男女とも実力順に上から4人ずつ、とかなら、まあそれで仕方がないな、と諦めもつくのかもしれませんが、競技ダンスの場合、大きく分けてモダンとラテンという2つの系統があり、選手はそのどちらかを専門にやっていくことになります。
 専攻している系統に加えて、体格のバランスも考慮し、「大学全体として」もっとも結果が期待できるチーム編成を行わなければなりません。
 一番うまい人同士を組ませれば、そのスーパーチームは実績を上げられるかもしれないけれど、他のチームが全くダメでは、大学全体のポイントが少なくなってしまう可能性もあります。
 上手い下手だけではなくて、ダンスには相手と呼吸が合うか、性格的にやりやすいか、などの「相性」的なものもある。

 ずっと一緒にいれば、部活内で付き合い始めることも少なくありません。
 でも、「付き合っているから」といっても、ダンスでの二人のバランスや、大学全体がポイントを得るための「最適化」のために、先輩によって、別の人と固定されるケースもあるわけです。
 それを受け入れられなくて、ダンス部を去っていった人たちもいます。
 そもそも、これまで一緒に練習に打ち込んできたはずの仲間から「評価」され、場合によっては「シャドー」として、「これからずっと裏方でやってください」と言われて、それを受け入れられるだろうか?
 どんなに頑張っても、ずっと、シャドー。そして、「あなたは誰からもパートナーとして求められなかった」という屈辱感。
 そこで退部していく人たちの姿も、著者は描いているのです。

 そして、「選ぶ側」の苦悩を、著者ものちに体験することになります。

 大学の部活って、僕は離れてからもう四半世紀くらいになるのですが、あのころは、なんであんなに気負っていたのだろう、と思うんですよね。オリンピックとか世界選手権とか、そういうレベルならともかく、大学の、僕の場合は医学部限定の狭い世界での勝った負けたのためだったのに。

 ダンス部の場合、この「固定」という仕組みがあるために、人間関係が、より濃密になり、またこじれてしまうのです。
 それならば、いっそ「固定」なんてやめて、大会ごとに組む相手を変えれば良いのではないか、とも思うのだけれど、やはり、ずっと一緒に練習している相手のほうが、結果を出しやすいのも事実なんですね。
 
 この本のすごさは、著者自身の記憶や苦悩に頼るだけではなく、当時、ダンス部で一緒にやっていた人たちにきちんと取材をして、「それぞれの立場から見えていた競技ダンス部」と、「卒部してから時間が経ってみて、あの頃の自分について、いま、思うこと」が重層的に語られているところなのです。
 僕自身、大学時代の部活に対して、思い入れと、なんであんなに入れ込んでいたのだろう、という疑問と、どうして自分は競技者としても部活のリーダーとしても、うまくやることができなかったのか、という後悔が、いまだに入り混じっているのです。

 この本を読んで、著者が取材した「仲間」たちの多くも、僕と同じような複雑な感情を抱えていることを知りました。
 みんな、「あの頃は若かったねえ!」なんて美化し、過去の記憶にしてしまってはいなかった。
 もちろん、その後、ダンスを仕事にしている人以外は、卒部して10年以上経ってもダンスのことばかり考えている、ということはないのでしょうけど、その記憶は、何かの拍子にかさぶたが取れると、何年経っても、生々しくよみがえってくるのです。

 競技ダンス部について振り返るうちに、人生というテーマに行き着いてしまった僕。そこでふと気がついた。ダンス部のある時期からは、僕は一人ではなかった。変な言い方かもしれないが、二人で一つの生命体として、人生を歩んではいなかったか。
 梅村愛は、こんな風に表現した。
「凄いことだよね。恋人でもないし、家族でもないのに。その人と誰よりも一緒にいてさ、毎日のように待ち合わせて何時間も練習して、時には泣くくらいの大喧嘩もして……何なんだろうね。リーダーのことは、戦友っていうか、うまい言葉が見つからないよ」
 僕も同感である。
 固定カップルを組んだ相手、僕の場合はうさこだが、彼女は特別な存在だ。二年半ひたすら同じ人と踊り続けると、相手の癖も、体の特徴も、すっかり頭に入る。ちょっと組むだけで今日の体調や機嫌がわかるくらいだ。しかもそれがお互い様なので、二人の距離はぐっと縮まる。
 それで男女の仲にならないのですか、と聞かれることもある。なる組もあるし、ならない組もある。逆にめちゃくちゃ仲が悪いのに、フロアでは愛のダンスを演じきる組もある。
「希望通りだったり、元から付き合っていた人と組むのならいいけど。相性の悪い人と組む可能性だってあるんですよね、学連では。でも部活だし、仲間がいるから我慢して続ける。卒部までの間だから、頑張れるんですよね」
 乙幡啓子先輩がそう言っていたように、仲の良し悪しにかかわらず二人は運命共同体だ。


 著者は早い時期から大会で結果を出し、将来を嘱望された選手でした。
 ところが、その競技人生は、順風満帆なものにはならなかったのです。
 サボっていたわけでも、何か致命的な原因があったわけでもないのに。

 ああ、そういうのは、誰の人生にもあることなんだ。
 周りからみれば、うらやましくなるくらい、大会で結果を出している人たちも、本人たちは、さまざまな葛藤を抱えていたし、「固定」を決めたり、部の方針に従わない後輩を排除したりしてきたことに、罪の意識を持っていた。


 僕はこの本を読んで、自分の大学時代の部活の記憶が、「成仏」したような気がしたんですよ、なんとなく。
 たぶん、著者自身も、これを書くことによって、過去の自分を救ったのではなかろうか。

 学生時代、部活をやっていて、人間関係に悩んだり、結果が出ないことに落胆したりしていた人へ。
 あのときは自分なりに一生懸命やっていたはずなんだけど、ずっと、もう少しうまくやれたのではないか、と、後悔し続けている人へ。
 1年に何冊か、「これは自分のために書かれた本じゃないか」と思う作品に出会うことがあるんですよ。
 これは、間違いなく、そのうちの一冊です。


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