琥珀色の戯言

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【読書感想】ニッポン 未完の民主主義-世界が驚く、日本の知られざる無意識と弱点 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

首相交代は「禅譲」、コロナ禍の責任を専門家に押し付け、日本学術会議の会員任命拒否の説明は支離滅裂……。大丈夫か、この国は。これじゃまるで、〝未開国〟。それもそのはず。なぜなら、戦後、ニッポンの民主主義は、世界の潮流をよそに独自の生態系に「進化」してきたのだから……。なぜ、検察を正義と誤認するのか。なぜ、「右」から「左」まで天皇制を自明のものとするるのか。世界も驚く日本型民主主義の不思議を徹底分析。


 書店で見かけるたびに、「これ、もう読んだかな……」と確認しないといけないくらい、さまざまなテーマで、さまざまな出版社から上梓されている、池上彰さんと佐藤優さんの対談本のひとつです。
 今回のテーマは「民主主義」。
 
 1970年代生まれの僕は、日本の「戦後教育」「平和教育」を子どもの頃に受けてきた世代(いわゆる「団塊ジュニア」の最初のほう)です。アメリカとソ連の冷戦から、ベルリンの壁が崩れ、ソ連が解体され、中国が「経済大国化」していくまでを、リアルタイムで見てきました。
 半世紀くらい生きてきて、「民主主義」「資本主義」の勝利(というか、いまの人間には「共産主義」をうまく運用するのは困難であること)を認めざるをえなかったのです。
 しかしながら、世界各国での排外主義の台頭や新型コロナウイルス対策において、中国のような専制的な国のほうが、「強権的な対策による封じ込め」に成功しているのをみていると、「専制国家のほうが効率良くものごとを進めていくことができ、危機にも対応しやすいのではないか」という気もしてきたんですよね。
 じゃあ、中国に移住しろ、と言われたら、「やっぱり僕は日本のほうが良い」のですけど。
 ただ、20世紀後半であれば、中国の人でも「日本のほうがいい」と答えるのではないかと思うのですが、現在では、中国でも、「やっぱり中国のほうが良い」という人が増えたはずです。
 なんのかんの言っても、経済的な成長で「豊かになった」というのは、人々の「満足度」に大きく影響しているのではないかと。

 池上彰さんと佐藤優さんは、新型コロナ禍での「民主主義の危機」について、こんな話をされています。

池上彰今現在、民主主義が危機に直面しているという認識は、私も持っています。佐藤さんは、特にどのようなところにそれを感じるのですか?


佐藤優端的に言えば、2020年以降、新型コロナウイルス感染症が拡大する中で、いくつもの対策が講じられました。それらの決定過程などを目の当たりにして、あらためて深刻さを思い知らされたのです。
 私が最も違和感を覚えるのは、感染拡大のさ中、「専門家」と称する人たちにが、何ら疑問を抱かれることなく、政治の前面に出てくるようになったことです。


池上:確かに、医療関係などの専門家がメディアに登場してこの問題について語るのは、「普通のこと」になりました。政府レベルでは、当初は医療関係者のみで構成される「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」が設置され、七月には経済学者や労組代表、シンクタンクやメディア関係者、県知事なども加わる「分科会」に「改組」され、現在に至ります。佐藤さんは「違和感」とおっしゃいましたが、国民の間には、「もっと専門家の意見を聞くべきだ」という声もあります。


佐藤:政治家がさまざまな課題に関して専門家のアドバイスを受けること自体、もちろん重要です。しかし、緊急の事態だからといって、本来の民主的な手立て、経路をバイパスして、何でも専門家の言うがまま意思決定が行われるとなると、話は別です。
 問題は、専門家組織内の議論は、国会でのオープンなそれと異なり、ブラックボックス化しやすいということです。専門家集団の発言力が高まるほど、政治のブラックボックス化が進み、代表制民主主義が相対的に軽視されることになるのです。
 

池上:実際、「専門家会議」や「分科会」では、議事録の有無やその公表をめぐって揉めました。メディアが情報公開請求で専門家会議の議事録を入手してみたら、大半が墨で消されたいわゆる「ノリ弁」だった。
 

佐藤:私は、いたずらに危機を煽っているつもりはありません。実は専門家の重用というのは、ファシズムやスターリズムの特徴でもあるのです。ナチス・ドイツは、専門家を最大限利用して、政策を遂行しました。


池上:当時のドイツ国民の多くも、そのことにあまり違和感を覚えてはいなかったのでしょう。


佐藤:一方、民主主義の下で行われるのは、あえて言えば「素人の政治」だから、トランプ前大統領のような人物が出てくることもあるわけです。その「素人性」と「専門性」の折り合いをどうつけていくのか、どこで線を引くのかというのも、民主主義を考えるうえでは非常に大事なところのはずなのです。しかし、現実には、そんな議論は全部飛び越えて、事が進んでいる。


 民主主義の原理原則に忠実であろうとすればするほど、「素人の政治」になってしまうのです。
 でも、「専門家じゃないなら黙っていろ!」というのがどんな場合にも通用するのであれば、権力者は「専門家はこう言っている」というのを盾にして、独断で物事を進めていくことができるようになる。実際は、「専門家」にも、いろんな立場、考え方の人がいますから、権力者にとって都合の良い「専門家」の意見を採用すればいいわけです。

 
 民主主義と「ポピュリズム」との関係について、この対談のなかで、佐藤さんは、こう述べています。

佐藤:そんな小泉(純一郎)さんが、最高権力者になってから推し進めたのが、「ポピュリズムの政治」でした。国民の絶大な支持を背景に、「骨太の」政策を断行する。それは、表向きには民主主義を貫徹しているように見えて、実はそうとは言えなかったのではないか、というのが私の小泉政権に対する評価なのです。
 では、健全な民主主義というポピュリズムは、どう違うのか? ポピュリズムという言葉が多用される際に、なかなかうまい定義がされていないように思うのですが、私は次のように切り分けています。
 すなわち、ポピュリズムは、基本的には多数決原理で50%プラス1票を取ったら、その人は「総取り」して問題ない、という発想です。とにかく「数は正義」なのだ、と。それに対して、「本当の民主主義」には、多数派がいたずらに数で押し切ることをせず、少数派の意見を最後まで尊重して議論を尽くす姿勢が貫かれている。そういう違いがあると考えるのです。


池上:小泉政治は、まさに「数は正義」でしたね。少数派は最初から「抵抗勢力」で、議論の余地なし、とされましたから。


佐藤:そして、そのやり方を多数の国民が一生懸命、後押ししていたわけです。


 いまから考えると、郵政が民営化されたことで、国民は幸せになったのだろうか?
 あのときは、「自民党」や「郵便局員」という、「これまで甘い汁を吸ってきた既成勢力」を打破することが「正しい」と僕も思って、投票所に行ったのです。
 正直「いい気になっている連中に一泡吹かせてやった、ざまーみろ」みたいな気持ちでもありました。
 その結果生まれたのが、より格差が広がった社会ではあったわけですが。
 ただ、それも「世界(アメリカ)基準に日本を近づけた」だけであって、小泉改革がなければ、日本は経済的に今よりも世界の成長から取り残されていた可能性もあるんですよね……結局、何が「正解」だったのか、そもそも「正解」なんてあったのか……
 民主主義というのは、「いい気になっているヤツを引きずり下ろす力が働きやすい」というのは、世界史で習った、ギリシアの「陶片追放」の時代からの伝統なのです。

 新型コロナ禍のような危機的な状況になると、「少数派の意見を尊重する」よりも、「とにかく早く、効率的に」と考えがちにもなります。
 新型コロナ禍に対して、日本では法的な規制ではなく、「自粛の要請」がなされていました。
 「自粛」というのは自発的にやることで、それを「要請」するのは言葉として矛盾しているのです。
 日本という国は、そこで国が強権的に「外出禁止」「営業禁止」の命令を出し、違反者を取り締まる、ということをためらう「民主的な国家」ではあったのです。

 国が取り締まらなくても「自粛警察」として、人々が自発的に「迷惑をかける人」をつまはじきにする「国民性」あればこそ、だったのかもしれませんが。

池上:ジョー・バイデンが大統領選の開票作業のさ中、なかなか当確が打たれない段階で、支持者に対して「ペイシェンス、ペイシェンス」と繰り返していましたよね。私は、民主主義を守るために今何が必要かと言えば、まさに「忍耐」ではないかと思うのです。膨大な票を最後の一票まで数えなければならないのは、面倒臭い。けれども、民主主義はそういうものだとある意味開き直って、それを守っていく覚悟こそが大切なのだということを、まざまざと見せつけたシーンに、私の目には映りました。


佐藤:日本人の感覚からすると、どうして結果を出すのにそんなに日にちがかかるのだ、ということになるのだけれど、民主主義という観点から見たら、なんら異常な光景ではない。


池上:そういうことです。戦後民主主義のなかで育った私たちは、小学生の頃から、とにかく、みんなで話し合って決めましょう。決まらなかったら多数決です。多数決で勝ったほうの考えに従いましょう──というのが民主主義で、とにかく素晴らしいものだと教えられ、そう信じ込んできたのだけれど、実はとても面倒臭くて忍耐が必要なものなのです。「私はこうする」という人間についていったほうが、楽にきまっていますよ。


佐藤:私が尊敬する芥川賞作家の大城立裕さんは、『普天間よ』『辺野古遠望』などの作品で、まさに「我慢すること」を描いているのです。私は亡くなった大城さんとメールのやり取りをしていたのですが、基地問題については、沖縄の負担軽減について聞く耳を持たない日本政府と「我慢しながら闘う方法を考えなくてはいけない」という言葉が、非常に強く印象に残っています。これこそが民主主義で、なにか敵を打ち負かして「ああ、気持ちが良かった」という感じになってはいけないのだ、ということをあらためて教えられた気がしました。


池上:理不尽とも言える状況下での言葉だから、説得力があります。同時に、「闘うこと」というのも、真情が溢れた言葉です。民主主義は平和を実現する手段でもあるのですが、それを勝ち取ったり守ったりというのは、大変な戦いなのです。


 「悪者」とされる相手をやっつけて、「ああスッキリした!」という気分になりたいのを抑えて、「面倒な手続きをきちんとやる」「忍耐強く交渉を続けていく」のが「民主主義」なんだよなあ、とあらためて考えさせられる対談本でした。


fujipon.hatenadiary.com

民主主義とは何か (講談社現代新書)

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独裁の世界史 (NHK出版新書)

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