琥珀色の戯言

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【読書感想】南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 ☆☆☆☆

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)


Kindle版もあります。

南方熊楠 日本人の可能性の極限 (中公新書)

南方熊楠 日本人の可能性の極限 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
百科事典を丸ごと暗記、二十以上の言語を解した、キューバ独立戦争参戦といった虚実さまざまな伝説に彩られ、民俗学、生物学などに幅広く業績を残した南方熊楠。「てんぎゃん(天狗さん)」とあだ名された少年時代、大英博物館に通いつめた海外放浪期。神社合祀反対運動にかかわり、在野の粘菌研究者として昭和天皇に進講した晩年まで。「日本人の可能性の極限」を歩んだ生涯をたどり、その思想を解き明かす。


 南方熊楠、の名前を聞いたことがある人は、かなり多いはずです。
 でも、実際にどんなことをした人なのか?と問われると、なかなか答えるのが難しい。

 南方熊楠(1867(慶応3)~1941(昭和16)年)の業績は、あまりにも多岐にわたる。彼はいったい何者なのか。民俗学者か、生物学者か、それとも粘菌研究者か、あるいは博物学者か――。どれも当てはまるようだが、どれも超え出てしまっているようにも思われる。実は、熊楠研究者でさえ、いまだに彼が何者なのかはっきりとは見えていないのだ。


 当時の日本人としては「規格外」ともいえる多くの研究を信じ難いような粘り強さで行った在野の研究者であり、その一方で、たくさんの「奇行」でも知られている、そんなところでしょうか。
 この新書は、そんな南方熊楠の生涯を辿りながら、その「伝説」の虚実を検証していく、そんな内容です。
 南方熊楠の「思想」についても、著者なりの解釈で読者に伝えようとしてくれてはいるのですが、それに関しては、正直、僕にはよくわかりませんでした。
 南方熊楠って、新興宗教の教祖とかになってもおかしくなかったのかな、と思いながら読みはしたのですが。


 それにしても、熊楠の「興味の対象」への、のめり込みかたはすごかったようです。

 少年熊楠は家に籠もって読書し筆者するだけではなかった。野外で動植物を熱心に観察・採集もした。しかし、熊楠が家の中で書籍の世界にのめり込んでいるときはまだしも、森(自然)の中で生物採集・観察に熱中してしまうと困ったことが起きていた。熊楠は採集に出かけ、熱中しすぎたあまり、何日も帰らないことがあったようだ。その結果、周りの人たちは、熊楠が森で天狗にでもさらわれたのではないかと噂し、心配したのである。そして、熊楠はいつしか「てんぎゃん」というあだ名をつけられた。「てんぎゃん」とは「天狗さん」という意味である。


 以前、この『てんぎゃん』というタイトルで、南方熊楠さんのマンガが『週刊少年ジャンプ』に連載されていたのを覚えています。
 マニアックなところを突いてくるな、ジャンプも……と思っていたのですが、あっという間に打ち切られてしまって、ちょっと残念でした。
 

 何かに夢中になると、周囲が見えなくなるというか、空気が読めなくなる熊楠。
 ロンドンに留学した際には、大英博物館に通いつめて膨大な資料の筆写も行っています。
 熊楠にとって、大英博物館は、知の理想郷だった。
 しかしながら、そこで他の利用者と大げんかをして、出入り禁止になってしまうのです。


 また、この新書のなかには、「深友」であった羽山兄弟との性的関係の可能性についてもほのめかされています。
 もちろん、そのものズバリ、という記録はなく、あくまでも、著者の「推測」ではあるのですが。
 

 ちなみに、熊楠の研究の特徴について、著者は、こう述べています。

 異なる地勢、異なる土壌で育っている植物を採集し、ある一か所に植えて育てても、うまく育つかどうかわからない。それでは正確な研究はできない。だから熊楠は、自然に入り込み、その場で「生きたるものを生きたまま」丸ごと捉えることに重きを置いた。これこそ、熊楠の観察方法の真髄であった。それは近代科学技術のように、分解・分析・数値化を最重視するのではなく、対象をあるがままに(近いかたちで)、いわば総合的・包括的に捉えるアプローチ方法と言うことができる。


 フィールドワークを徹底的に重視するのが「南方熊楠の真髄」だったのです。
 学問の世界に生きながら、「学閥」的なものにはまったく肌が合わなかったこともあったのでしょうけど。


 1929年に、熊楠が昭和天皇に「御進講」したときのことについても、触れられています。
 「熊楠は、昭和天皇にキャラメルの箱に入れた標本を進呈した」というエピソードを僕も聞いたことがあったのですが、そのときの詳細。

 長門艦上で、熊楠は粘菌の標本を、キャラメルのボール箱に入れて天皇に献上した。このような場合、桐の箱を用いるのが普通である。しかしこれには、熊楠なりの理由があった。熊楠も桐の箱が普通であることは知っていた。しかし、献上・御進講の際、緊張のあまり密閉された桐の箱が開かなかったら大変である。そこで滑りがよく開閉しやすいキャラメルのボール箱にしたのであった。娘の文枝は、以下のように語っている。

 桐の箱も作っていたんですよ。けれど、スッと蓋が開きにくいということで、キャラメルの箱にしたんです。あの小さいキャラメルの箱のことだと誤解されている方が多いのですが、そうではなく、問屋さんのところにある大きいやつです。箱の上に綺麗な天女の絵がついていました。父はよく粘菌入れとして愛用していましたが、もちろんこの日使ったのは新しく買ったものですよ(南方文枝・神坂次郎『父 熊楠の素顔』)。

 実際に使われた「キャラメルの箱」と同じものの写真も載っているのですが、たしかに、僕がイメージしていたような「森永キャラメルの小箱」とはまったく違う、綺麗で大きな箱でした。
 とはいえ、通例よりも合理性を選択したのは事実で、極めて異例のことではあったのです。
 昭和天皇は、のちに「南方にはおもしろいことがあった」と回想され、キャラメルのボール箱について「それでいいじゃないか」と仰っていたそうです。
 同じ学者として、相通じるものがあったのかもしれませんね。


 著者は「おわりに」で、柳田國男さんの、こんな南方熊楠評を紹介しています。

 我が南方先生ばかりは、どこの隅を尋ねて見ても、是だけが世間並みというものが、ちょっと捜し出せさうも無いのである。七十何年の一生の殆と全部が、普通の人の為し得ないことのみを以て構成されて居る。私などは是を日本人の可能性の極限かと思ひ、又時としては更にそれよりもなほ一つ向ふかと思ふことさへある。(「南方熊楠」)


 すべてにおいて、「規格外」だった人、南方熊楠
 日本にもこんな人がいたのか、と圧倒されるのと同時に、実家に経済力があったことなど、恵まれたところがあったからこそ、こうして生きられた人でもあったのかな、とも感じました。
 本人にとっては、「自分がやりたいこと、やるべきことをやってきた人生」だったのかもしれないけれど。


天才と発達障害 (文春新書)

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