琥珀色の戯言

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【読書感想】マイノリティデザインー弱さを生かせる社会をつくろう ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「澤田さんには、目の見えない息子がいる。僕はそれを、うらやましいとさえ思った。」
佐渡島平氏(コルク代表)

日本テレビ「シューイチ」、NHKおはよう日本」などにたびたび出演。
本書の著書は、SDGsクリエイティブ総責任者ヤーコブ・トロールベック氏との対談をはじめ、
各界が注目する「福祉の世界で活躍するコピーライター」澤田智洋。

こんな話があります。

「ライター」は、もともと片腕の人でも火を起こせるように発明されたものでした。
「曲がるストロー」は、寝たきりの人が手を使わなくても自力で飲み物を飲めるよう作られたものです。
それが今では障害者、健常者、関係なく広く利用されています。
障害者にとって便利なものは、健常者にとっても便利だからです。

つまり、「すべての弱さは社会の伸びしろ」。

ひとりが抱える弱さを起点に、みんなが生きやすい社会をつくる方法論。
それがマイノリティデザインです。

※ライツ社さまから、本を贈っていただきました。
 感謝とともに、明記しておきます。



 「弱さを生かせる社会をつくる」
 ああ、良い言葉だなあ、素晴らしいなあ、って思う一方で、僕は「ああ、またこういう綺麗事か……」と心の中で身構えていました。
 僕自身、医療の世界に身を置いていて、献身的に「弱者」に尽くす人を大勢みてきたけれど、「弱者を食い物にして『ビジネス』として搾取する人たち」や、「弱者であることを声高にアピールして不当な利益を得ようとしている人たち」も少なからず目の当たりにしてきました。
 理想に燃えていたはずの人たちが、どんどん疲弊し、あるいはお金を稼ぐという面白さにとらわれて、変わっていくのです。
 いや、僕自身も、変わってしまったし、変わり続けてもいる。たぶん、よくない方向に。

 著者の澤田智洋さんは、スポーツが苦手で、子どもの頃から日本と外国を行き来する生活をおくっていて、「日本にいても、外国にいても、自分が異物のように感じていた」と仰っています。
 広告=言葉の力に魅了され、広告代理店に就職し、試行錯誤の末に、仕事が少しずつ評価されるようになり、自分の居場所を見つけた、はずだったのです。
 ところが、そんな澤田さんの人生に、ある「転機」が訪れました。

 2004年に新卒で広告会社に入社し、コピーライターという自分が望むクリエイティブ職に従事することができていました。渋谷駅のハチ公前の大看板に、自分の考えたキャッチコピーが掲載されている。自分の企画したCMがテレビで放送されて、多いときには8000人にリーチしている。充実した毎日を送っていた。はずでした。
 時は流れて、僕ら夫婦に1人の息子が生まれました。よくミルクを飲んで、よく泣いて、よく笑う。寝不足の日々が始まりましたが、かわいくてしかたがありませんでした。でも、3か月ほど経った頃、息子の目が見えないことがわかりました。
 終わった、と思った。
 見えない子って、どうやって育てたらいいんだろう。恋愛ってするのかな。幸せなんだろうか。その日から、仕事が手につかなくなりました。
 僕の主な仕事は、映像やグラフィックを駆使して、広告をつくることです。それって、つまり、僕がいくら美しいCMをつくったとしても、視覚障害のある息子には見ることができないということ。
「パパどんなしごとしてるの?」と聞かれたときに、説明できない仕事をやるのはどうなのか。僕がやっている仕事なんて、まったく意味がないんじゃないか。
 なにをすればいいんだろう? どう働けばいいんだろう? 32歳にして僕は、今まで拠り所にしていたやりがいをすべて失い、「からっぽ」になってしまったんです。


 僕はこれを読んで、自分の子どもが生まれてくるときに、「とにかく五体満足で生まれてきてくれれば十分だ」と願っていたことを思い出しました。
 結果的に、僕の願いは叶ったわけですが、それは「運がよかった」だけでしかない。でも、僕はその「運がよかった」ことを、なんだか当たり前のように思い込んでしまっていたのではないだろうか。

 澤田さんは、息子さんの障害に直面して、打ちのめされつつも、「障害を持っていても、幸せに生きている人」のロールモデルを探すために、大勢の人に会ったそうです。
 そして、考えた。
 誰にでも、ある一定の確率で起こりうる「不運」で、幸せになれないというのは、「社会」のほうに、問題(あるいは課題)があるのではないか、と。

 広告会社では、「強いものをより強くする」仕事が多い。だけど、もし「弱さ」にもっと着目したら。「弱さを強さに変える」仕事ができたなら。
 目が見えない息子は、いわゆるマイノリティです。
 でもマイノリティだからこそ、社会のあらゆるところに潜んでいる不完全さに気づくことができるかもしれない。「ここ、危ないですよ!」「もっとこうしたほうがいいですよ!」と。その穴を埋めることで、健常者にとってもより生きやすい世界に変えることができるかもしれない。
 だからこそ、「弱さ」という逆風そのものを、追い風に変えたい。そしていつか、「弱さを生かせる社会」を息子に残したい──。
「マイノリティデザイン」──マイノリティを起点に、世界をより良い場所にする。このちょっと仰々しい言葉が、僕の人生のコンセプトになりました。


 澤田さんは、子どもの頃、スポーツが苦手で、体育の授業がイヤでしょうがなかったそうです。
 僕もずっとスポーツができないことにコンプレックスを抱いていたので、それだけで共感せずにはいられませんでした。

 昔、『ちびまる子ちゃん』のアニメのなかで、まる子がマラソン大会がイヤでイヤでしょうがなくて、マラソン大会の前日に「明日のマラソン大会が終わっても、また1年したらマラソン大会……」と、今年のマラソンの前から、来年のマラソン大会に憂鬱になるエピソードがあって、「ああ、僕と一緒だ……」と思ったのをよく覚えています。
 
 澤田さんは「運動音痴」という言葉がよくなくて、「スポーツ弱者」と定義することによって、世界が変わるのではないか、と考えたのです。
 そして、「ゆるスポーツ」という概念を発明したのです。

 強者と弱者が一緒に楽しめるスポーツを考えようとすると、多くの人はこんなルールを決めがちです。「女性が得点を決めたら、点数を倍にしよう」。
 でも、ゆるスポーツは障害者やスポーツ弱者を「特別扱い」しません。あくまでフェアなルールを設計します。だって、そのほうが勝ったときにうれしいじゃないですか。


 僕の経験上、「お前は運動音痴だから、ゴールしたら2点にしてやる」なんて言われたら、嬉しくも楽しくもありません。ああ、自分は下手くそだから、特別扱いされて、バカにされているんだな、と悲しくなるだけです。でも、「スポーツ強者」が考えると、こんなルール設定になることがほとんどなんですよ。

 ところが、澤田さんは、「スポーツのルールや枠組みそのものを変えて、これまでのスポーツ弱者と強者が本気で勝負できるようにしよう」と考えたのです。それが「ゆるスポーツ」でした。

 目指すのは、負けても楽しくて、みんながシェアしたくなる、ユーモアのあるスポーツ。それにはなんと言ってもネーミングが重要です。一瞬で印象に残って、どんなスポーツなのかを端的に示したキャッチーな名前。「ハンドソープボール」なら、一言で「ハンドソープを使ったかつてない新しい球技」であることが伝わるし、「ハンドボール」という従来のスポーツ名も想起されやすい。
 その流れで、基本ルールも考えました。「試合開始直前にプレーヤーがハンドソープを手につけてハンドボールをする。もし試合中にボールを落としたら、そのプレーヤーはハンドソープをさらに追加する。試合中、ハンドソープを追加してくれるのは、そうだ!『ソーパー』という役割をつくろう……」。
 まるで、CMのストーリーを考えるときのように、想像が止まりませんでした。

 
 この「ゆるスポーツ」には、「イモムシラグビー」「ベビーバスケット」などのさまざまな競技も加わり、これまで80以上の新しいスポーツが生まれ、10万人以上が体験しているそうです。

 「ハンドソープボール」について書かれている文章を読んで驚いたのは、スタッフが「ハンドソープボール」に適したハンドソープを妥協することなく徹底的に追い求め、開発していたことでした。

 「これは社会のとって良いことだから」「スポーツ弱者のためだから」というような「美しいお題目」や「善意」は、それを行う人間を傲慢に、あるいは、いいかげんにしがちなのです。「こっちは助けてやっているんだから、このくらいで十分だろ?贅沢言うなよ」って。
 でも、そういう押しつけがましい善意って、やっぱり届かないし、面白くないと思うのです。

 世界に新しいルールをつくるのであれば、ちゃんとしたルールをつくらなくては、浸透しない。
 理想を語るだけではなくて、手を動かし、現場をみて試行錯誤する。
 本物の「デザイン」は、見た目のインパクトだけではなくて、人を動かし、楽しませ、幸せにする。
 
 僕自身は、長年、「パソコンをスペック表だけ見て買う」ような人間だったのですが、年を重ねて、ようやくわかってきたような気がします。
 そこにあるだけで、自分がそれを所有しているだけで嬉しいって、何事にも代えがたい「価値」だよなあ、って。

 これまで広告クリエイティブの世界では、なんらかの賞をもらって「スタークリエイター」になるのが、だれもが目指すロールモデルでした。国内外にさまざまな賞があります。カンヌライオンズやクリオ賞、ACC東京クリエイティビティアワード、TCC賞……。
 僕も20代の頃、それに倣ってさまざまな賞にエントリーしました。先輩たちは、口をそろえて言いました。「とにかく賞を獲れ。話はそれからだ」と。
 おそらく広告業界以外もそうでしょう。医療には医療の、エンジニアにはエンジニアの、食品には食品のスターがいます。
 でも、果たしてそれが本質的な解決になるのでしょうか。その人が離れたとたん、また元通りになってしまうなら、持続可能なやり方ではありません。
 僕は、自らが輝くスターを目指すのではなく、「トーチ」を掲げたほうがいいと考えています。
 こういう未来に向かっていきませんか?という「フィロソフィー」を「プラットフォーム」という名のトーチに灯し、差し出し、ほかの人の心に火を灯す。その火をどんどんおすそ分けしていけば、辺り一帯が明るくなります。
 1人の人間にできることには、限界があります。スターといえども、その輝きが未来永劫続くわけではありません。
 だからこそ、「生態系」をつくるためには、「リーダーシップのある言葉」が必要なんです。


 この本を読んでいて、僕は、任天堂の故・岩田聡社長を思い出しました。


blog.tinect.jp

 任天堂宮本茂さんが、岩田さんについて語っておられる章の一部です。

岩田さんがいなくなって、会社はきちんと回ってますよ。
いろんなことをことばにしたり、仕組みとして残していってくれたおかげで、若い人たちが生き生きとやってます。
困ったのは、ぼくが週末に思いついたしょうもないことを、月曜日に聞いてくれる人がいなくなったことですね。


 「岩田さんがいなくなっても、会社はきちんと回っている」
 宮本さんのこの言葉こそ、岩田聡というリーダーの生きざまを象徴したものだし、宮本さんからの最高の賛辞だと僕は感じました。


 澤田さんも、「後世の人がやりやすくなるようなシステム」を遺そうとしている人なのだと思います。
 澤田さんの息子さんも、僕の息子たちも、幸せに生きられる社会をつくるのは、いま、生きている大人たちの役目なのです。

 ダメなルールは、変えてもいい。
 みんなが変える勇気を持って行動すれば、少しずつでも、世界は変わる。


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