Kindle版もあります。
「今さえよければ自分さえよければ、それでいい」
――サル化が急速に進む社会でどう生きるか?ポピュリズム、敗戦の否認、嫌韓ブーム、AI時代の教育、高齢者問題、人口減少社会、
貧困、日本を食いモノにするハゲタカ……モラルの底が抜けた時代に贈る、知的挑発の書。・「自分らしく生きろ」という呪符
・なぜ「幼児的な老人」が増えたのか?
・トランプに象徴される、揺らぐ国際秩序
・「嫌中言説」が抑止され、「嫌韓言説」が亢進する訳
・戦後日本はいかに敗戦を否認してきたのか
・どうすれば日本の組織は活性化するのか……etc.ブログや複数の媒体で発表したエッセイに加え、堤未果氏との特別対談も収録。
現代社会の劣化に歯止めをかけ、共生の道筋を探る真の処方箋がここに。
内田樹先生の本を久々に読みました。
僕は10年くらい前に、内田先生にハマっていたのです。
仕事の割に給料が安い、とずっと思っていたときに、内田先生が「もし仕事の内容と給料が確実に正比例するのであれば、それはすごく残酷な世界だ」と書かれていたのを読んで、なるほどなあ、と感心したのを憶えています。
そうじゃないからこそ、「自分は実力ほど評価されていない」というファンタジーに逃れることもできるわけで。
ただ、その後、内田先生がすごく政治に関する発言が多くなってきたことにうんざりして、僕は内田先生の文章も敬遠するようになっていたのです。
僕自身はいわゆる団塊ジュニア世代で、日本の「平和教育」を受けて育ってきた人間であり、思想的には護憲・反戦を大事にしているつもりなのですが、内田先生たちのグループの主張は「あまりにも理想主義的で、預金通帳の残高を確認することもなく、みんなにお金を配れと言っている」ように思えましたし、為政者を口汚く罵るにもほどがある、と感じてもいたのです。批判するにも、もう少し節度とか礼儀があるのではないか、と。
内田先生のことが苦手になってしまったがゆえに、内田先生が書くものにも興味を持てなくなってしまっていたのですが、今回、この『サル化する世界』を「まあ、久しぶりに読んでみようか」と手に取ってみたのです。
私見によれば、ポピュリズムとは「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」という考え方をする人たちが主人公になった歴史的過程のことである。
個人的な定義だから「それは違う」と口を尖らす人がいるかも知れないけれど、別にみなさんにこの意味で使ってくれと言っているわけではない。
「今さえよければいい」というのは時間意識の縮減のことである。平たく言えば「サル化」のことである。「朝三暮四」のあのサルである。
(中国の)春秋時代の宋にサルを飼う人がいた。朝夕四粒ずつのトチの実をサルたちに給餌していたが、手元不如意になって、コストカットを迫られた。そこでサルたちに「朝は三粒、友に四粒ではどうか」と提案した。するとサルたちは激怒した。「では、朝は四粒、夕に三粒ではどうか」と提案するとサルたちは大喜びした。
このサルたちは、未来の自分が抱え込むことになる損失やリスクは「他人ごと」だと思っている。その点ではわが「当期利益至上主義」者に酷似している。「こんなことを続けると、いつか大変なことになる」とわかっていながら、「大変なこと」が起こった未来の自分に自己同一性を感じることができない人間だけが「こんなこと」をだらだら続けることができる。その意味では、データをごまかしたり、仕様を変えたり、決算を粉飾したり、統計をごまかしたり、年金を溶かしたりしている人たちは「朝三暮四」のサルとよく似ている。
「朝三暮四」は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる時間意識の未成熟(「今さえよければ、それでいい」)のことであるが、「自分さえよければ、他人のことはどうでもいい」というのは自己同一性の空間的な縮減のことである。
集団の成員のうちで、自分と宗教が違う、生活習慣が違う、政治的意見が違う人々を「外国人」と称して揶揄することに特段の心理的抵抗を感じない人がいる。「同国人」であっても、幼児や老人や病人や障害者を「生産性がない連中」と言って切り捨てることができる人がいる。彼らは、自分がかつて幼児であったことを忘れ、いずれ老人になることに気づかず、高い確率で病を得、障害を負う可能性を想定していないし、自分が何かのはずみで故郷を喪い、異邦をさすらう身になることなど想像したこともない。見知らぬ土地を、飢え、渇いて、さすらい、やむにやまれず人の家の扉を叩いたときに、顔をしかめて「外国人にやる飯はないよ」と言われたときにどんな気分になるのかを想像したことがない。
自分と立場や生活のしかたや信教が違っていても、同じ集団を形成している以上、「なかま」として遇してくれて、飢えていればご飯を与えてくれ、渇いていれば水を飲ませてくれ、寝るところがなければ宿を提供することを「当然」だと思っている人たち「ばかり」で形成されている社会で暮らしている方が、そうでない社会に暮らすよりも、「私」が生き延びられる確率は高い。噛み砕いて言えば、それだけの話である。
あまりにも「自分本位」「利己的」になってしまい、他者への想像力が欠けてしまっているのが「サル化する世界」ということなのでしょう。
内田先生自身は、合気道の凱風館館長として、門下生を中心に、みんなで助け合うコミュニティをつくりあげ、「利他的な世界」をつくるための社会実験的なことも続けておられます。
この考えには、「そうだよなあ」と頷いてしまうんですよ。
とはいえ、内田先生たちにも「排他的」なところもある。
まあ、細かいところを指摘しはじめたら、キリがないのも事実ではあるのですが。
そして、「いまの日本には、他者へのサポートができるほどの経済的な余裕がなくなっている」のも事実なんですよね。
そういう格差社会をつくってしまった政治が悪い、とも言えるのかもしれないけれど。
「教育」について内田先生が語った講演も、この本には収録されています。
われわれは子どもたちを格付けして資源分配をするために教育をしているのか、それとも子どもたち一人一人のうちの生きる知恵と力を育てるために教育しているのか、そんなことは考えるまでもないことです。そして、一人一人の生きる知恵と力を高めるためには他人と比べて優劣を論じることには何の意味もありません。まったく、何の意味もないのです。有害なだけです。でも、現在の学校教育ではそれができない。全級一斉で授業をするという縛りがありますから、一人一人をそれほど丹念に観察できないというのはわかります。でも、授業を子どもたちの査定や格付けのために行うことについてはもっと痛みを感じて欲しいと思います。それは本当は学校でやってはいけないことなんです。
「日本の学校教育をよくする方法がありますか」とよく聞かれます。ですから、僕の答えはいつも同じです。「成績をつけないこと」です。でも、それを言うと、教員たちはみんな困った顔をするか、あるいは失笑します。「それができたら苦労はないですよ」とおっしゃる。でも、本当にそれほど「それができたら苦労はない」ことなんでしょうか。
僕は現に武道の道場という教育機関を主宰していて、そこでは「成績をつけない。門人たちの相対的な優劣に決して言及しない」ということをルールにしていますが、実に効率的に門人たちは力をつけて、ぐいぐいと伸びています。道場では査定ということをしない。寺子屋ゼミという教育活動も並行して行っていますけれど、ここでも研究発表の個別的な出来不出来についてはかなりきびしいコメントをすることもありますけれど、ゼミ生同士の優劣について論じることは絶対にしません。
どうして教育の場で、教わる者たちは、指導者によって査定され、格付けされ、それに基づいて処遇の良否が決まるということが教育にとって「当然」だと信じられるのか、僕にはそれがわかりません。明らかにそれは教育にとって有害無益なことです。それは40年近く教育という事業に携わってきた者として確信を持って断言できます。
言いたいことはすごくよくわかるのだけれど、本当にそんなことが可能なのか?と僕も思うんですよ。
GoogleやAppleに採用されるような優秀な人は、自発的に学び、自分を成長させられるのかもしれないけれど、そういう人は、ごく少数ではないのだろうか。
ただ、それはそれとして、内田先生のように「理想を真剣に口にし続ける人」が世の中には必要ではないか、という気が、してきたのです。
僕も年を取ったのかもしれないけれど、未来の人間のために、少しでも良い世界を残して去りたい、とか、考えることもあります。
すべての人が、「いまの現実の厳しさ」の前で、理想や理念を捨ててしまうのは、やっぱり悲しい。
たぶん、世界は内田先生が望んでいるようにはならない。
でも、こういうことを言い続けてくれる、炭鉱のカナリアみたいな人がどんどん減ってきているのは、けっこう怖いような気がするのです。
- 作者:内田樹,えらいてんちょう(矢内東紀)
- 発売日: 2020/01/24
- メディア: Kindle版