- 作者:蓮實 重彥
- 発売日: 2020/12/15
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
他人の好みは気にするな、勝手に見やがれ!
誰よりも映画を愛する教授が初めて新書で授業映画史におののく必要はない、ただし見るからには本気で見よ
まず読者の皆様にお伝えしたいのは、世間で評判になっている映画だけを見るのではなく、評判であろうとなかろうと、自分にふさわしいものを自分で見つけてほしいということです。とにかく、ごく普通に映画を見ていただきたい。蓮實個人の視点など学ばれるにはおよびません。もっぱら自分の好きな作品だけを見つけるために、映画を見てほしい。(「はじめに」より)
1936年東京生まれの映画評論家、フランス文学者の蓮實重彥(はすみしげひこ)さんによる映画論。タイトルは「映画史特別講義」となっていますが、系統的な映画史講義というよりは、蓮實さんが思いついたテーマに関する映画を、行ったり来たりしながらあれこれ語ったエッセイ集、という感じです。
蓮實さんの読者に対する語りの姿勢は、けっこう「挑発的」であり、「蓮實個人の視点など学ばれるにはおよびません」と述べながら、自身の好みをはっきりと打ち出しており、いま人気の映画や映画監督も、遠慮なく酷評しているのです。
サスペンスフルな題材を扱いながら、作品として真のサスペンスではないという点は注意しなければなりません。最近はいかにサスペンスをもてあそぶ映画が多いことか。(蓮實さんが高く評価している『さらば愛しきアウトロー』という映画と)ほぼ同時期に見た『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019)などは、退屈きわまりないものでした。
わたくしは、括弧つきの「作家主義」とは違いますが、やはり映画監督にしか興味がありません。もちろん優れた俳優たちのことは愛していますが、俳優はわたくしにとっては二の次です。優れた俳優が出てくるのは嬉しいけれども、やはり作家の演出というものがどれほど見る者を興奮させてくれるかということに強く興味を惹かれます。
やはり先端に触れていなければならないと思い、このところ人気の山戸結希さんの『ホットギミック』(2019)も見に行きました。しかし、上映が始まるとすぐに腹を立ててしまい、15分で出ました。『溺れるナイフ』(2016)はまずまずの出来でしたが、それでも大した映画ではない。でも、これはヒットして、雑誌『ユリイカ』(2019年7月号)で特集まで組まれました。だから、『ホットギミック』を嫌々ながらも見に行ったけれども、とても耐えられなかった。ショットが決まっていない。撮ることへの畏れや被写体に対する愛情がないし、被写体に惚れているという自分自身に対する確信もなく、ただキャメラを回して撮っているだけです。
それに比べたら、現在の日本の女性ドキュメンタリー監督の方々、小田香さんや小森はるかさんはもう段違いに優れています。被写体にキャメラを向けることにおびえながらも、しかし「私はこれを撮るぞ」という決意みたいなものが画面から伝わってくる。被写体をあごで使うような人に、まともな映画など撮れはしません。被写体を撮ることに対して「ごめんなさい」という気持ちと同時に、「しかし許してくださいね、そうしたら自分はあなたの最高のものを撮ります」という覚悟がこの二人のドキュメンタリー作家にはあるのです。
もちろん、ただ悪口を言っているわけではなくて、蓮實さんなりの価値観に基づいて、「サスペンスをもてあそんでいる」「ただキャメラを回して撮っている」という批判になっているわけですが、僕は読みながら、「この人が評価する映画って、僕には『地味で面白くない』というのが多そうだな」と思っていたのです。
その一方で、映画の生き字引みたいな人は、こんなふうに映画をみてきたのか、と感慨深くもありました。
この人がここまで言うのであれば、小田香さんや小森はるかさんの作品を観てみたい、とも思いました。僕にとっては、存在すら知らなかった監督で、自分が知っているつもりだった「映画」の世界って、狭い範囲のものだったのだな、と痛感させられる本でもあるのです。
ヌーベルバーグの旗手として知られるフランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールは、「映画は15分だけみればわかる」と公言しており、実際、ゴダールは冒頭の15分を見ると、映画館を出て次の映画を見にいっていたそうです。蓮實さんも「ゴダール流」を貫いている、ということなのでしょうか。
ところで、黒沢清さんの最新作『旅のおわり世界のはじまり』(2019)は、2時間ちょっとです。それから、青山(真治)さんが今撮っている新作も2時間くらいになりそうな感じです。彼のブログを読むと、今、2時間を少し切ったとか、119分になったとか盛んに言っています。
映画というものは、ほぼ90分で撮れるはずなのです。それを最も忠実に@繰り返しているのがデヴィッド・ロワリーだと思います。今までの作品はほとんど90分です。もちろん、それにふさわしい上映時間というものがあらかじめ決まって存在するわけではありません。ところが90分ぐらいに収まっている作品の中に優れたものが多い。これはなぜなのかというのを突き詰めなければなりません。
これを読みながら、僕も「最近、2時間を超える上映時間の映画は、観るのがつらくなってきたんだよなあ」と考えていたんですよね。それは、どちらかというと、加齢にともなって、せっかちというか、長時間じっとしていられなくなったためではないか、とも思うのですが(蓮實さんも「加齢の影響」について言及されています)。
ただ、「長くて、中だるみがひどく感じる映画」とかもありますよね。最近DVDで観た『ワンダーウーマン』は、140分くらいなのですが、ものすごく「長い……」と感じました。シリーズものの第1作って、状況や設定を説明するのに時間をとられてしまう、というのはあるのでしょうけど。
10代、20代は、映画館でも、上映時間が長いほど「得した気分」になれた記憶があるのですが(2本立て、なんてのが普通にあった時代でした)、最近は、120分以内のほうがありがたいのだよなあ。
先日の京都アニメーションの放火事件で、現場に詰めかけた人たちが、「京都アニメによって私たちは救われていた」ということを語っていましたが、それは映画を見ることとは違います。映画は「救い」ではない。救いとなる映画はあるかもしれませんが、救いが目的では絶対になくて、映画とは現在という時点をどのように生きるかということを見せたり考えさせたりしてくれるものです。
時には見たくないものを見なければいけないこともある。だから、「救い」という言葉が使われた時にわたくしは無闇に腹が立ちました。「救い」を求めて映画を見に行ってはならない。似たようなニュアンスの言葉に「絆」や「癒し」などもありますが、そんなもののために映画ができたわけではありません。
映画を見る際に重要なのは、自分が異質なものにさらされたと感じることです。自分の想像力や理解を超えたものに出会った時に、何だろうという居心地の悪さや葛藤を覚える。そういう瞬間が必ず映画にはあるはずなのです。今までの自分の価値観とは相容れないものに向かい合わざるをえない体験。それは残酷な体験でもあり得るのです。
正直、蓮實さんの感覚は、僕には合わないなあ、と思いながら読んだんです。でも、合わないからこそ、「映画の歴史をみてきた大先輩は、こんな観かたをしてきたのか」と考えさせられるところも多かったんですよね。
こういう挑発的な書き方は、受け容れられない人も多いだろうな、とも思うのですけど。
※僕もこの映画は観たのですが、前田敦子さんがひたすらひどい目にあっている映画で、なぜかとても心に引っかかる作品でした。