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【読書感想】日清戦争 ☆☆☆☆

日清戦争 (中公新書)

日清戦争 (中公新書)


Kindle版もあります。

日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像 (中公新書)

日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像 (中公新書)

内容(「BOOK」データベースより)
1894年の夏、日清両国が朝鮮の「支配」をめぐり開戦に至った日清戦争。朝鮮から満州を舞台に戦われた近代日本初の国家間戦争である。清の講和受諾によっていったん終わりをみるが、割譲された台湾では、なお泥沼の戦闘が続いた。本書は、開戦の経緯など通説に変更を迫りながら、平壌や旅順の戦いなど、各戦闘を詳述。兵士とほぼ同数の軍夫を動員、虐殺が散見され、前近代戦の様相を見せたこの戦争の全貌を描く。


 日清戦争というのは、日露戦争第一次世界大戦への参戦、そして、日中戦争~太平洋戦争へと続いていく「軍国主義化していく日本の近現代史」の「転換点」でもありました。
 近代国家・日本にとって、はじめての「国家と国家の戦争体験」だったのです。
 もしここで清に敗れていたら、その後の日本史、そして世界史は、全く違ったものになっていたはずです。


 ただ、僕自身『日清戦争』のことを、あまりよく知らないんですよね。
 世界史のテストで「日清戦争について概説せよ」と問われたときの解答としては、
明治維新後、日本政府は朝鮮半島での権益をめぐって清と戦端を開いたが、一足早く近代化を成し遂げていた日本は清を圧倒し、下関条約で賠償金と台湾の領有権、遼東半島の租借権を得た。しかし、遼東半島の租借権はロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって撤回させられ、朝鮮半島では、南下を目指すロシアとの緊張が高まる結果となった」
 というような感じになるのかな。


 僕が学生時代に習った先生が、1894年という日清戦争の開始年を「これは、一発(18)食(9)らわし(4)て日清戦争」と覚えると良い、という、きわめて不謹慎な記憶法を推奨していたことが、個人的にはいちばん印象に残っているくらいです。
 ほんと、こういう暗記ものって、英単語とかでもそうなんですけど、不謹慎だったり、しょうもない駄洒落みたいなやつのほうが、ずっと覚えていたりするものですよね。


 閑話休題
 この新書では、「日清戦争」の開戦のきっかけから、両国の動き(実際は、両国政府とも、戦争は避けたい、と考えていた政治家が多かったそうです)、そして、当時のメディアは戦争についてどう伝えたのか、さらに、日清の直接の戦闘終了後、日本が新しく領土として獲得した台湾を接収するまでが書かれています。
 歴史の教科書などでは、あまり詳細を語られることがなく、「近代化した日本軍が、時代遅れの清軍を、いとも簡単に撃破していった」と僕は思い込んでいたのですが、実際のところは、そんなに両国に大きな差は無かった、ということを著者は指摘しています。

 日清戦争で使用された日本の大砲はイタリアから技術導入した7センチ青銅砲(口径は75ミリ)で、最大射程は野砲で5000メートル、山砲は3000メートルだったが、有効射程はこれより短かった。欧州先進国では鋳造鋼鉄製の大砲が一般化していたが、日本の技術水準が低かったことと日本国内に銅資源が豊富にあったことから、性能がやや劣る青銅製大砲が採用されていた。道路事情の悪い朝鮮で戦うことを前提として、第五師団と第三師団の砲兵連隊は山砲編成(砲身が長く重い野砲を持たず、威力は弱いが分解して駄馬で運べる機動性の高い山砲のみ装備)であった。歩兵は単発の村田銃を使用した。
 これに対して清軍は、ドイツのクルップ社製の鋳造鋼鉄製の野砲と山砲を、歩兵はドイツ製輸入小銃またはドイツ製小銃をモデルに国産化したものを使用し、なかにはドイツ製の新型連発銃を持つ者もあった。兵器のレベルは清軍が上で、平壌の戦闘では清軍の優秀な武器が効果的に使用されると日本軍は苦境に陥った。日清戦争では日本軍の兵器のほうが優秀だったという説があるが、これは明らかな誤りである。


 あらためて、この戦争の経過を追っていくと、日本軍は必ずしも一枚岩ではなく、まだ明治維新の時代の藩閥の空気を色濃く残している司令官たちが、独断専行で大本営の意向を無視して戦ったり、戦初期は補給がうまくいかなかったりと、かなり「危うい戦争」だったことがよくわかります。
 できたばかりの「日本政府」にとっては、初の海外での戦争でもありますし、試行錯誤の連続だったのです。
 結果的に勝てたのは、各地の軍閥の勢力に頼って戦争を進めなければならない一方で、それらの軍閥からは見放されつつあった清という国の末期的な状況のおかげだった、ともいえそうです。
 兵力も装備も、清国はけっして劣ってはいなかった。
 ところが、指揮官たちの内部分裂や、まだ大勢がけっしていない状態での撤退など、清側の士気は、きわめて低かったのです。
 「国民国家という意識」「国のために戦う」という意思だけは、日本のほうが「近代化」されていた、ということなのかもしれません。


 また、この新書のなかでは、日清戦争中に起こった「旅順虐殺事件」についても触れられています。

 旅順虐殺事件は、現代の中国では「旅順大屠殺」、欧米ではPort Arthur Massacre またはPort Arthur Atrocitiesと呼ばれる。1894年11月21日の攻撃で日本軍は旅順の主要部分を制圧し、その日の夕方と翌日以降市街と周辺の掃討を行った。この掃討の過程で、日本軍は捕虜と非戦闘員(婦人や老人を含む)を無差別に殺害したと欧米の新聞雑誌が非難したのだ。現在、中国側は旅順大虐殺の被害者を約2万人としている。


 著者は、さまざまな史料などにもとづき、「旅順虐殺事件」について、このように推測しています。

 旅順半島は付け根部分の柳樹屯や蘇家屯のあたりが狭くなった袋状の地形だったので、清軍の敗残兵が逃亡するのは困難であったが、日本軍は兵力が少なく清兵の逃亡を阻止する力を持っていなかった。結果的に旅順防衛軍の姜桂題・徐邦道・程允和などの諸将や兵士の多くは無事に北へ逃れ、金州の北方の蓋平で宋慶軍に合流する。
 したがって、犠牲者数が1万を超えることも、ましてや2万に達することはありえない。一方で旅順とその周辺で日本軍が殺害した清軍兵士は4500名を超える可能性があり、そのなかには正当な戦闘による死者だけでなく、捕虜にすべき兵士に対する無差別な殺害や、捕虜殺害と民間人殺害(婦女子、子ども、老人を含む)が含まれていたことは確かな事実である。


 また、著者は、当時の兵士の日記に、「集合地出発の際、男子にして壮丁なる清人は皆逃さず、生さず、切殺すべしとの命令下れり。兵士の勇気皆溢れけり」という記述もあり、当時の日本軍の将官下士官には「赤十字条約の精神が欠落していた者も少なくなかった」そうです。
 それが戦争であり、このような行為は、日本軍だけがやっていたわけではないのですが……
 

 この本を読んでいて驚いたのは、下関条約後に日本領となった台湾占領についての話でした。
 1985年5月に、日本政府は台湾総督府を設置し、台湾を「接収」しようとしますが、台湾の人々は、これに激しく抵抗したのです。

 こうした激しい戦闘に直面し、所属の兵力も増えたため、当初民政組織として構想された台湾総督府は、植民地戦争に対応する軍政組織となった。近衛師団に加えて、第二師団と後備部隊が加わった段階では、台湾総督府麾下の兵力は、将兵約5万名、軍夫2万6000名、合計7万6000名という巨大なものとなった。このほかに、馬が9400頭、徒歩車両3500輛をともなった。そして住民の激しい抵抗と台湾の風土病のマラリアや、不衛生な水と食品が原因の赤痢、栄養不足から来る脚気が蔓延したために、日清戦争の死者の過半は台湾でのものとなった。

 台湾には、「親日」のイメージがあるのですが、両地域の間には、こんな歴史もあったのです。
 

 著者は「あとがき」で、こう述べています。

 日本では日清戦争について、いまだに「日清戦争は朝鮮独立を助けた正義の戦争」、「日本軍は国際法を遵守した」、「乃木希典は一日で旅順を攻め落とした」など根拠のない言説が存在する。同様の事例が、韓国や中国にもあるかもしれない。


 自分の国に対して好意的にみてしまうのは、中国や韓国だけの現象ではないんですよね。
 自虐的になる必要はないけれど、歴史というのは、人々の願望で歪められがちなものだということは、知っておいたほうが良いと僕も思います。


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