琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】おいしいごはんが食べられますように ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

第167回芥川賞受賞作。

「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。

職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない人間関係を、食べものを通して描く傑作。


 第167回芥川賞受賞作。
 僕は『文藝春秋』の受賞作全文掲載で読みました(Kindle版)。


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 『報道ステーション』での「自分たちが欲しいコメントを強引に言わせようとする取材姿勢」の炎上のほうが強く印象に残ってしまった感もありますが、読んでみての率直な僕の感想は「読みやすい!」でした。
 芥川賞受賞作って、円城塔さんの『道化師の蝶』や黒田夏子さんの『abさんご』など、文体や形式が斬新な、というか、新しい純文学への挑戦、という、かなり難解なものがある一方で、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』や宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』など(又吉直樹さんの『火花』もこちらの系統ですね)、読みやすくてエンターテインメント性が高く、その時代を切り取ったものもあるのです。
 この『おいしいごはんが食べられますように』は、後者寄りで、非常に読みやすい作品であり、「ていねいな暮らし」とか「スローライフ」みたいな近年の風潮に、うまく馴染めない側の現代人の気分を上手に描いているなあ、と思いながら読みました。

 カップ麺でいいのだ、別に。腹を膨らませるのは。ただ、こればかりじゃ体に悪いと言われるから問題なのだ。一日三食カップ麺を食べて、それで健康に生きていく食の条件が揃えばいいのに。一日一粒で全部の栄養と必要なカロリーが摂取できる錠剤ができるのでもいい。それを読むだけで健康的に生きられて、食事は嗜好品としてだけ残る。アルコールや煙草みたいに、食べたい人だけが食べればいいってものになる──これまでに何度となく考えてきた想像をなぞりながら、目はぼんやりと藤さんとその周辺に向けていた。


 僕もときどき、自分が機械になれればいいのに、と思うのです。テレビゲームやパチンコに惹かれるのは、自分が機械の一部になれるような気がするからかもしれません。
 美味しいものは好きだけれど、この作品のなかにもあるように、食べる時間、あるいは「ちゃんとした食事」をつくる時間や摂る時間、食器を洗ったり、後片付けをしたり、食材を管理したりする手間を思うと、「適当に何か買ってきて食べるか外食したほうが効率的ではないか」という気分になるんですよね。
 もちろん、さまざまな集団の一員として、自分のそんな感情を押し通すことが難しい、あるいは、かえってめんどくさいのは百も承知ですし、子どもたちに「カップ麺でいいよ」とは言えないのだけれど。

 「スローフード」と「新書一冊」だったら、僕は後者に時間を使いたくなってしまう。
 職場で誰かがつくってきてくれたお菓子や差し入れを「おいしいです!」「ありがとうございます!」と気を遣って笑顔をつくりながら食べるよりも、コンビニデザートをスマホの画面をみながら仏頂面で食べるほうがラク

 自分で料理をやってみることもあるんですけどね。正直、このクオリティのものを時間をかけて僕が作るのは「効率が悪い」とか、つい考えてしまいます。
 
 この小説のAmazonの紹介文には「恋愛小説」と書いてあるのですが、僕はむしろ「恋愛というものが実感できないまま、ドラマとかマンガ、小説で描かれている『恋愛で行われている事象』をなぞって、無意識に体裁を整えようとしている人たちの小説」だと感じました。もしかしたら、恋愛って、ずっと「そういうもの」なのかもしれないけれど。


 世の中の「進歩」によって、多様な生き方がみとめられ、「おひとりさま」でも生きやすくはなったし、「弱者」「生きるのがきつい人」も声をあげられるようになりました。
 そのこと自体は、「良いこと」だとは思うのです。
 でも、僕自身もこうしてネットに書いていて、それは「自分の苦しさを言葉や文章にするのがうまい人」が有利な社会になった、というだけなのかもしれないな、と後ろめたい気持ちになることがあるのです。
 本当に苦しんでいる人たちは「言葉」を持たないのではないか。
 あるいは、「言葉」に頼ろうとするから、自分を苦しめているのだろうか。

「どうしようもないでしょ。できない人……いや芦川さんのことを仕事ができないとは思ってないけど、それ以外の、まあしんどいこととかが、できない人は一定数いるわけで、だからってクビにはできないでしょ。いや知らんよ他の会社がどうてるかはね。でも、うちくらいのまあまあ大きい会社でそういことできないでしょ。芦川さんなんか、いいじゃん、全然いい。前の支店で一緒だった真木さん。四十半ばくらいの男の……、押尾さんも聞いたことあるかもしれないけど、あ、知ってる? ね、ひどかったよ。花粉症がしんどいので休みます。肩こりがつらいんで休みます。気圧低くて体がだるいので帰ります、ってしょっちゅう。そんなのみんな、みんなしんどいけど我慢してることじゃんか。で、二言目には権利。働く者の権利。クオリティオブライフ。自分を守れるのは自分だけ。いやさあ、言ってることは分かるよ。っていうかおれもそうしたいよ。でも、じゃあ自分を大事にって言って帰った人の仕事は誰がやるんだっていう。花粉症なんてあの時期みんなつらいわけ。で、花粉症がつらいって帰った人の分を、別の花粉症の人がやるんだよね、無理して、残業して。しかもこれがだいたい手つかずか、にっちもさっちもいかない状況で止まっててね。真木さんて結婚してて、確か子どももいんのよ。二人。奥さんは専業主婦らしくて。信じられねえよなあ。なんか。信じらんねえ」

 インターネット社会で、「弱者」が声をあげて、SNSで多くの人に「いいね!」される一方で、そのしわ寄せが自分にくるとなると、ほとんどの人は寛容ではいられない。「病名がついた人」の「苦しい」は尊重されなければならないけれど、ギリギリのところで踏ん張って、日々の仕事をこなしている人たちは「だって、あなたがそれができているんでしょう?なら良いんじゃない?病気じゃないんだし。うらやましいですね」と温かい言葉さえかけてもらえない。

 実際のところ、いろんなものが「可視化」された社会では、自分のほうが我慢させられているのではないか、と感じてしまうことが、僕には多いのです。
 SNSで「定時退社」を誇らしげに語っている人を見るたびに、そして、その人が多くの人に支持されているのを確認するたびに、「この人、職場の同僚たちには、どう見えているのだろう?」と思います。
 病院であれば、誰かが「当直をしない」と言えば、「じゃあ、今夜は当直医不在、ってことで」というわけにはいきません。
 誰かに、そのしわ寄せがいくのです。
 職場全体のバランスとして、「誰かが困っているときには、フォローしあっている」という状況ならベストなのですが、実際は、そんなにうまくいくことは少なくて、「なんか自分ばっかり、うまく使われてしまっているような気がする……」人が多いのではないでしょうか。

 新型コロナウイルスを「人間関係の病気」だと言った人がいましたが、僕の実感としては、それは、一面の真実ではあります。
 医療現場でただでさえ人手不足で感染対策などの仕事が増えているなか、コロナ感染や濃厚接触で突然の欠員ができると、誰かがその穴埋めをしなければならない。ただでさえ、きついのに。
 そこで、人間関係もギスギスしてくるし、普段は気にしないような些細な言葉も、悪いように受け止めてしまう。

 今はそういう世の中だし、全体としては、生きやすくなっているはず、という理性と、「でも、この現在置かれている状況は自分が割を食っているだけではないのか」という感情が、つねにせめぎあっているのです。
 「きつくて仕事ができない」という人が、「推し活」や「娯楽」に興じている様子が、SNSで「見えてしまう」こともある。


 この小説に関しては「描写の丁寧さ」と「読みやすさ」、そして、「なんとも言えない不穏さ」は白眉であるものの、こういう話って以前からあって、目新しいものではありません。
 『逃げ恥』のコロナ禍のなかでのドラマスペシャルにもこういう話はあったし、マンガやTwitter、『はてな匿名ダイアリー』などでは、「『やりたくない、できないことを無理にやらせない社会に過剰適応している無敵弱者』へのカウンター」は、けっこう前からあったと思います。

 『同志少女よ、敵を撃て』を読んで、僕はすごい作品だ、と感動したのですが、ある書評で、「あれは『鬼滅の刃』のノベライズみたいなものではないのか」というのを読みました。作者が意図的にやったものではないでしょうし、「復讐の物語」で読者にウケるものには、ある程度「類型」があって、『鬼滅』も『同志少女』も、「巨人(先行作品)の肩の上に乗っている」だけではあるのでしょうけど。
 芥川賞は時代(時流)を描く作品が多い、というイメージが僕にはあるのですが、もはや、文学・小説のスピードでは、時流の「いちばん先」を走るのは難しいのではないだろうか、そんなこともあらためて考えずにはいられませんでした。


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