琥珀色の戯言

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【読書感想】音楽が聴けなくなる日 ☆☆☆

内容(「BOOK」データベースより)
電気グルーヴピエール瀧が麻薬取締法違反容疑で逮捕された翌日、レコード会社は全ての音源・映像の出荷停止、在庫回収、配信停止を発表した。近年ミュージシャンの薬物事件ではこのような対応が即座になされ、また強化されてきたが、その「自粛」は何のため、誰のためのものだろうか?こうした「自粛」に異を唱える著者たちがそれぞれの立場から問題の背景と構造を明らかにし、現代社会における「音楽」「薬物」「自粛」の在り方について考察を深めていく一冊。巻末の音楽自粛小史は必見。


 ピエール瀧さんが麻薬取締法違反容疑で逮捕された翌日に、瀧さんと石野卓球さんのユニットである電気グルーヴのすべての音源・映像が「自粛」されることになりました。
 この本は、その「自粛」という対応に異議を唱え、ネットで署名活動などを行った、社会学者の永田夏来さんと宮台真司さん、音楽研究家のかがりはるきさんが、それぞれの立場から、「作者の不祥事で、音楽は自粛されるべきなのか?」について語ったものです。

 かがりはるきさんは、音楽の「自粛の歴史」について紹介されています。
 かがりさんは「自粛がほとんどなかった時代の例」として、1987年に尾崎豊さんが覚せい剤取締法違反容疑で逮捕され、懲役1年6か月、執行猶予3年の判決を受けた半年後、執行猶予中にシングル『太陽の破片』をリリースして復帰したのを紹介しています。

 その2年後の1989年(平成元年)4月に、BUCK-TICK今井寿さんがLSDの使用による麻薬取締法違反容疑で逮捕され、懲役6か月、執行猶予3年の判決を受けた事例が、「自粛」が一般的になるきっかけになったようです。

 この件では「自粛」の萌芽ともいえる措置やメディア対応が見られました。作品に対する回収等の措置こそなかったものの、直後に予定していたツアーは中止となり、BUCK-TICKのメンバー全員が約半年間の謹慎をしました。ただし、今井寿さんの脱退などはなく、今井さん本人は復帰直後のインタビューで、事件のことをこう振り返っています。
「ツアーが中止になったのはどうしようかと思ったけど、事務所とかレコード会社とか大家とか、そういうビジネス面での迷惑がすごくかかるわけだから、ああとんでもないことしちゃったっていうのがそこで初めてわかった」(「ROCKIN'ON JAPAN」1990年1月号)
 また、「ROCKIN'ON JAPAN」1999年12月号の、日本の90年代ロックを振り返る特集でも右のインタビューに触れられており、同誌編集者(当時)の中本浩二さんが「その事件の時はほとんどの音楽誌がBUCK-TICK関係の記事を削除したり、シカトしたり、なんか嫌な自粛ムードがありました」と語っています。
 こうした証言から、ミュージシャンや周囲のスタッフから音楽誌に至るまで、BUCK-TICKに関して明らかな「自粛」ムードが感じられます。
 とはいえ、現在の感覚からすると、自粛の期間自体は短く、復帰も華々しいものでした。約半年間の謹慎を経た後の復帰の場はなんと、年末の東京ドーム公演「バクチク現象」。もちろん今井さんはこの時点で執行猶予中です。
 当時、BUCK-TICKは破竹の勢いで、この直後に代表作ともいえるアルバム「悪の華」もリリースします。レコーディングに要する期間を考えると、謹慎期間中といっても実際には音楽の制作活動をしていたと見ていいでしょう。


 それまでは、ミュージシャンの不祥事に対して、「作品の回収や、記事の削除」などは、ほとんど行われていなかったのです。
 そういえば、尾崎豊さんが復帰したときも、『太陽の破片』が大々的に宣伝されていたのを見た記憶があります。
 音楽の「自粛」が平成からはじまったというのは、昭和天皇の御病気による「自粛ムード」の影響もあるのではないか、あと、BUCK-TICKが、自粛後にミュージシャンとして(セールスの)ピークを迎えたことや、企業の「コンプライアンス」が厳しく問われる時代になったことについても、かがりさんは指摘しておられます。

 今の感覚では、ミュージシャンが不祥事を起こしたら、作品も排除するのが当たり前になっているのですが、そうなったのは、そんなに昔の話ではないのです。


 宮台真司さんは、その「販売・配信停止、回収」が本当に正しいのかどうか、疑問を呈しているのです。
 正直、宮台さんが書いておられる部分は、僕には難しくて、しっかり読み取れている自信はないのですが、アーティストの「作品」というのは、そのアーティストだけのものではなくて、その時代の空気みたいなものから生まれてきたものだ、と宮台さんは考えられているようです。
 巫女が告げた「ご神託」の内容について、巫女に全責任を問うのはおかしい、ということなのでしょう。
 
 宮台さんは、不祥事を起こしたアーティストの作品については、ゾーニングサブスクリプション(定額聴き放題)でのブロックで対応すればよいのではないか、と述べています。

 プリアナウンスによるゾーニングだけで問題を解決できる。これがここ30年間の基本的な枠組みです。日本を除く先進国で現実に実践されています。ところが日本では、こうした先進国ならば当然踏まえているべきやり方が弁えられていません。実に野蛮です。
 但し僕は、こうした「見たくないものを見ない」態度を過度に推奨すべきではないと考えます。第一に、「見たくないものを見る」ことが公共的態度であり得るし、第二に、「心に傷をつけること」がアートの伝統的な本質だからです。
 前者については、「犯罪者」の作品には社会的悪影響どころか良い影響さえあり得ます。「犯罪者」とカッコ付きなのは、逮捕当時のピエール瀧さんは、推定無罪presumed innocenceの原則ゆえに、まだ犯罪者ではないからです。そのことは第一章で永田さんが触れています。
 有罪確定後の犯罪者の作品でさえ、良い影響があり得ます。理由は、第一に、それを受容することが犯罪者に対する偏見の除去に役立つことです。「犯罪者は自分たちとは違うおかしな人だ」という偏見には根強いものがありますが、偏見を取り除くのは公共的です。
 良い影響の第二は、「犯罪者が世界や社会をどう見るのか」と知るのに資すること。「罪を犯した人間から世界や社会がどう見えているのか」を知ることは、再犯の動機を抑止できる社会のアーキテクチャー(仕組み)を、構築することにも役立ちます。
 第三の良い影響は、犯罪者と非犯罪者との関係についての新しい視座や、感覚を与えてくれることです。犯罪者は「敵」だと思っていたが、作品に接してみたら「仲間」だった、みたいなこと。それも、自分も犯罪者になり得るという現実の理解につながります。
「それこそが悪影響だ」という視座もあるでしょうが、言葉の自動機械、法の奴隷という意味で、「クズ」の考え方です。犯罪者が自分の同類だと思うことを悪影響だと捉えるのは、第一の「犯罪者は自分とは違う存在だ」という偏見の現れです。
 アートについて言えば、「敵だと思っていた犯罪者が実は仲間だった」という感覚は、小説や映画の受容ではよくあること。これがなければ、誰も『罪と罰』のラスコーリニコフの話に感動しません。大衆の娯楽においてさえ、「悪役への共感」はありふれた話です。


 「犯罪者の作品に触れること」にも、さまざまなメリットがある、ということなのです。なるほど、こういう考え方もあるのだなあ。少なくとも、「見えない、聴けない状態にしてしまえばいい」というのが短絡的な発想であるというのは理解できます。
 ただ、僕自身の感覚としては、「それでも、違法な薬物で有罪になった人の作品が『無罪』あるいは『有用』ですらあるというのは、しっくりこない」のも事実なんですよね。
 憧れのアーティストがドラッグをやっていると、自分もやってみようか、って思う人だっているでしょうし。
 僕もこの30年あまりで、すっかり「自粛体質」になっているのかもしれませんが。

 この本のなかで、いちばん印象に残ったのは、永田さんが紹介した、電気グルーヴ石野卓球さんのtweetでした。

 キミたちのほとんどは友達がいないから分からないと思うけど友達って大事だぜ。あと”知り合い”と”友達”は違うよ


 僕は電気グルーヴの作品は、アルバムを何枚か持っており、いくつかのヒット曲を口ずさめるくらいでしかないのですが、ピエール瀧さんと石野卓球さんの「友情」は、心底羨ましいと思っています。友達、いないから。


30 (特典なし)

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