オスマン帝国 英傑列伝 600年の歴史を支えたスルタン、芸術家、そして女性たち (幻冬舎新書)
- 作者:小笠原 弘幸
- 発売日: 2020/09/30
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
13世紀末、現在のトルコ共和国の片隅で誕生したオスマン集団は、やがて三大陸をまたにかける大帝国となった。1453年ビザンツ帝国コンスタンティノープル陥落、1529年ウィーン包囲など、強大な国家を築き上げ、イスラム世界の覇者として君臨した。世界史上稀にみる600年もの繁栄の理由は、さまざまな出自を持つ人々が活躍しえたことにあった―。優れた改革を推し進めたスルタンたち、西洋列強に劣らぬ文化を確立した芸術家、そして政治に影響を与えた女性たち。多様な経歴の10の人生を通して、大国の興亡をひもとく一冊。
日本、あるいは中国の歴史上の人物の半生や業績を並べた「列伝」というのは、けっこうよく見かけますよね。
でも、「オスマン帝国」の人物伝が、新書という手にとりやすい形で上梓されたのは、画期的なことではないかと思います。
最近、世界史ブーム、それも、ヨーロッパ、中国、アメリカ以外の、これまであまり注目されていなかった国に関する新書がかなり多く出ている印象があるのです。
歴史ファンの裾野が広がったのか、メジャーなところはもう掘り尽くしてしまったのかはわかりませんが、これらの本を読むと、それまでの歴史では、「侵略者」とか「敵役」という感じでみていた国にも、それなりの立場や事情があったのです。
『ロード・オブ・ザ・リング』のサウロンが率いていたような、「邪悪そのもの」みたいな国は、現実には存在しないのです。
ただ、オスマン帝国やビザンツ帝国となると、これまで馴染がなかっただけに、出てくる地名がどのあたりにあるのかわからず、何度も地図を確認しなければならなかったり、同じような名前の皇帝や重臣がたくさん出てきて、誰が誰だかわからなくなって混乱してしまいます。
これは、日本史に接した外国人も、「なんでみんな同じ苗字のトクガワイエなんとかなんだ……とか思うのでしょうけど。
こういう「ひとりひとりの人物にスポットライトをあてて、その人の物語として書かれている」と、読みやすくて助かります。
新書での「大帝国の通史」は、「よく一冊にまとめたなあ」というものが多いのですが、それだけに、歴史上の事実の羅列ばかりでエピソードに乏しくなりがちですし。
「征服王」と呼ばれるメフメト二世(在位1444~1446、1451~1481)の項より。
イスラム世界の王朝において、君主は子をなす相手として、しばしば奴隷を選んだ。イスラム法において、奴隷は一定の権利を保障されていたし、正室の子も奴隷の子も、ひとしい権利を持っていた。また奴隷は親族による後ろ盾を持たないことから、国政に介入する外戚の存在を排除できるという利点があった。そのため、奴隷が母であるということは、オスマン王家にとってなんら瑕疵のない、むしろ有利なことであった。
日本や中国、ヨーロッパでは、同じ皇帝の子であっても、母親の家柄によって、かなり立場が違ってくるのです。
皇帝が兄弟や妻の親族を積極的に取り立てると彼らが権力の座を狙って反乱を起こしたり、宮廷で専横したりするのですが、徹底的に弾圧すると、いざというときに王家を守る人や皇位継承者がいなくなってしまう、というリスクもあるのです。中国史は、皇族を大事にするシステムと、皇族の影響力を排して役人を重視するシステムを交互に繰り返している、という感じでもあります。
オスマン帝国の場合は、「皇帝への権力の集中」が最も重視されており、新しい皇帝が決まると、その兄弟は皆殺しにされる、という時代が長く続きました。
残酷ではありますが、母親が奴隷であっても気にしない、というのも含めて、皇帝への権力集中のための合理性を追求していたとも言えます。それでも、反乱というのは起こるものではあるのですが。
この新書では、皇帝だけではなく、実権をにぎった女性たちや、建築家・画家などの文化人の列伝も収められているのが印象的でした。
イスラム圏にも素晴らしい「文化」があり、偶像崇拝が禁じられていたなかで、キリスト教圏とは違った様式が発展し、その後、西洋文化の影響を受けたり、逆に、影響を与えたりしていくのです。
「トルコのミケランジェロ」と称される、建築家ミマール・スィナンの章より。
それまで宮廷建築家長であったアジェム・アリスィが1537年に没すると、リュトフィー・パシャは重用していたスィナンを後任に推挙し、スレイマン一世もそれを是とした。ここに、建築家スィナンが誕生した。モルタヴィア遠征から帰還した直後、1539年のことである。以降のスィナンは、1588年に没するまで、まさにオスマン帝国を「作り上げる」ことに従事する。スィナン研究の第一人者ギュルリュ・ネジプオールが評するように、この半世紀は、まさに「スィナンの時代」であった。
スィナンは宮廷建築家長として、オスマン帝国各地の建築にたずさわった。彼自身の言を借りれば、「80の大モスク、400以上の小モスク、60のイスラム学院、32の宮殿、19の墓廟、7のコーラン学校、17の療養施設、3つの病院、7つの橋、15の水道橋、6つの倉庫、19の隊商宿、33の浴場」を建てたという(合計698.ただし、写本によって数は違う)。
もちろん、いかにスィナンが超人的な天才であったとしても、ひとりで700件もの建築を監督しきることはできなかったはずである。
じつは、これほどの数の建築が、彼の作に帰せられるのには理由がある。スィナンの時代、それまで個人技にたよっていた宮廷建築家職は、建築家長を中心とした統一的な組織に再編された。それにともない、地方の建築事業も帝都イスタンブルの建築家長をかなめとするネットワークのなかに組み込まれたのである。そのため、スィナンは帝国全土の建築を統括し、さまざまな建物の立案等にかかわる立場にあった。彼がかかわったといわれる建築には、彼が中心的な役割を果たしていないものも含まれているとみなすべきであろう。
20世紀を代表する建築家のひとりル・コルビュジェ(上野の国立西洋美術館を設計したことでも知られる)が「エディルネの壮麗なる王冠」と評したセルミエ・モスクは、まさしくスィナンの最高傑作というにふさわしい建築であった。
この本で紹介されている、スィナンの天才ぶりを示すさまざまなエピソードには驚かされるのですが(1538年に10日で川に木製の橋を架け、橋を守るよう指示した指揮官に「壊されてもすぐに再建できるから見張りは必要ない」と豪語した、など)、トルコにとって歴史に残る偉人であったことが、彼の死後、さまざまな喧騒を生み出してしまったのです。
トルコ共和国の民族主義が高まるなかで、スィナンは「トルコ民族の輝かしい英雄」として位置づけられたのですが、彼が属していた民族集団に関しては、特定できない、というのが研究者の見解だったのです。しかしながら、共和国側としては、英雄がトルコ民族であることにしたかった。そこで、史料の捏造が行われたり、墓を掘り起こされて、頭蓋骨の長さを鑑定されたりすることになったのです。頭蓋骨の長さで出自がわかるというのは当時の俗説でしかなかったのですが。ちなみにその後、その頭蓋骨は行方不明になっています。
この本を読んでいくと、多くの民族、宗教が入り混じったなかでバランスをとりながら長年統治されてきたオスマン帝国が、現代のトルコでは「トルコ民族の誇りの象徴」のようになっていることに不思議な感じがするのです。
多くの国における「民族主義」って、実際は、そういうものというか、後世の人の都合が良いように解釈されていることが多いのです。
オスマン1世から、ムスタファ・ケマル(ケマル・アタテュルク)、そして、エルドアン大統領まで。
「親日国」として有名なトルコなのですが、こちらは、トルコの歴史って、ほとんど知らなかったんだよなあ、と思いながら読みました。
- 作者:中谷 功治
- 発売日: 2020/06/22
- メディア: 新書
- 作者:タミム・アンサーリー
- 発売日: 2011/08/29
- メディア: 単行本