- 作者:柳澤健
- 発売日: 2020/12/15
- メディア: 単行本
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
花田紀凱と新谷学。ふたりの名編集長を軸に昭和、平成、令和の週刊誌とスクープの現場を描く痛快無比のノンフィクション。
僕は『1976年のアントニオ猪木』をはじめ、柳澤健さんの『○○年の××』シリーズをずっと読んできたのですが、この『2016年の週刊文春』のタイトルをみて、「ああ、ついにプロレスラー・格闘家のネタが尽きたのか……」と思ったのです。
ところが、読み始めてみると、柳澤さんにとっての「古巣」である『週刊文春』というのは、もっとも書きたかったネタだったのかもしれないな、と感じました。
なんといっても、長い間一緒に仕事をしてきた人たちの話ですし。
僕自身は『週刊文春』に対して、「他人のプライバシーを暴くのを仕事にしているなんて、下品な雑誌だよなあ」というのと、「とはいえ、『そういうプライバシーを覗いてみたくて仕方が無い、叩いても許される存在を探したい』と渇望し、本当は興味ないんだけど、というフリをして読んでしまう現実の自分への自己嫌悪」が入り乱れているのです。
この本、花田紀凱さんと新谷学さんという、『週刊文春』の黄金時代をつくった2人の名編集長を軸に、「雑誌界の銀河系軍団」と称される『週刊文春』の編集者、外部記者たちの活動と、『文藝春秋』という組織の盛衰が描かれています。
花田紀凱さんに対しては、僕自身は「西原理恵子さんにマンガでさんざんネタにされていた人」「ナチスのユダヤ人虐殺はなかった、という記事を載せて、『マルコ・ポーロ』を廃刊に追い込んでしまった人」というのが主なイメージだったのですが、この本を読むと、本当に雑誌が好きで、編集者が天職の魅力的な人だったことが伝わってきます。
私が花田紀凱に初めて会ったのは1984年11月のことだ。翌年6月に創刊された隔週刊の写真雑誌『Emma(エンマ)』編集部はあまりにも忙しく、体力と根性のない2年目の若手社員は、花田デスクに弱音を吐いた。
「花田さん、この3週間1日も休んでないんですけど、これって労働基準法違反じゃないんですか?」
「バカだなあ、雑誌に労働基準法はないんだ(笑)」
それから5年ほどが過ぎた1990年前後の冬の夜、『週刊文春』編集長になっていた花田さんと、グラビア班員の私は、カメラマンの個展に行くために銀座の並木通りをふたりで歩いていた。
「柳澤、雑誌はおもしろいなあ」
「あ、はい」
「なんだお前、おもしろくないか?」
「いや、おもしろいですけど、花田さんほどじゃないです」
「そうか、俺は生まれかわったらもう一度雑誌編集者をやるよ」
「マジですか。俺は女になってみたいですね。凄い美人に生まれかわってブイブイ言わせたいです」
「バカだなあ、女より編集者の方がおもしろいに決まってるよ」
この人には一生敵わない、と思った。
1989年4月に明らかになった「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の加害者の少年たちを、『週刊文春』が実名報道したときの話。
警察を出てすぐに、(特派記者の)佐々木は編集部の松井に電話を入れた。
「四人の名前がわかったよ」
ところがその後、佐々木がなかなか編集部に戻ってこない。
「夜九時を過ぎても帰ってこないんだ。データ原稿(記事の元になる原稿)を書いてもらわないといけないから心配していたら、10時近くになってようやく帰ってきて、『松井さん、ごめん』といきなり俺に言った。
『あの後、被害者の女子高生の家に行ったのよ。私が命じられたことは、加害者四人の名前を特定することと、もうひとつ、被害者の両親のコメントをとることだったよね? 昼間のうちは、新聞記者やテレビの連中が、被害者の女子高校生の家の周囲にたくさん張り込んでいたけど、夜になるとみんないなくなる。そんな時、玄関の門扉が開いてお父さんが出てきた。報道陣が道路に捨てた煙草の吸い殻を、箒で引き寄せていたんです。チャンスだ、声をかけようと思ったけど、お父さんが背負っている悲しみがあまりにも大きすぎて、とうとう声をかけることができなかった。何十年も記者をやってるけど、こんなことは初めてだった』
『いや、佐々木さん、もう充分ですから』と俺は言うしかなかった。
勝谷(誠彦)は最後まで反対したけど、とにかく実名を入れた原稿を書かせて、ゲラにして花田さんの机の上に置いた。俺から花田さんに何かを言うつもりはまったくなかった。
今でも忘れられない。花田さんはほかの記事を全部校了にして、このゲラだけを自分の机の上に置いて、腕組みをしたまま目をつぶってずっと考えていた。その姿が忘れられないんですよ。
最後に、俺を呼んで『よし、実名でいく』と言った。
編集長というのはこういうものなんだな、としみじみ思ったよ」
このとき、花田さんは新聞のインタビューに「野獣に人権はない」と答えたことが知られているのですが、花田さん自身にも、葛藤があったのです。
『週刊文春』は、人のプライバシーを暴いて商売をしているのは事実ではありますが、暴く側にも、それなりの覚悟があるし、けっして万人に愛されるような仕事ではないことも編集者たちはわかっているのです。
そして、『週刊文春』は、「暴く」からには、丁寧に証拠を積み重ねて「裏取り」をしていたし、他のマスメディアと比べて、独立性が高かったために、扱うネタの制約も少なかったのです。
「(新谷(学・『週刊文春』元編集長)は)編集者としても能力が高いと思うんですが、一番驚異だったのは取材者、記者としての能力でしたね。要するに人脈。『新谷くん以外には会わへん、話さへん』というタマを山ほど持っとるわけです。そこまで落とし切っている。人間関係をズブズブにしてしまう力、人に可愛がられる力がとんでもない。花田(紀凱)さんは雑誌づくりの天才。でも、人脈を情報に変えてしまう能力に関しては、新谷さんが圧倒的に上じゃないでしょうか」(西岡研介)
しかし、新谷と飯島勲(小泉純一郎元総理の主席秘書官)の蜜月は、ひとつの記事によって突然終了する。
<小泉首相秘書官が月4回密会する北朝鮮工作員>(2003年1月16日号)である。担当デスクは新谷自身だった。
「日朝交渉の時に飯島が使っていたエージェントが、朝鮮総連系のスパイだったんです。ユン・ギジュンという男で、金正日体勢でナンバー2の張成沢(のちに甥にである金正恩の不興を買って2013年12月に処刑)の親戚と言われていた。小泉首相の側近が北朝鮮のスパイを使っていいのか、とドッカーンと大きくやりました(笑)」(西岡研介)
記事を見た飯島は激怒した。新谷のことはこれまで散々面倒を見てやったつもりが、こんな掌返しをするのか。
《「もう訴えるぞ! 謝罪広告出させてやる!』と言われ、私も「しょうがないですね」と答えるしかなかった。結局、東京地裁に名誉毀損で訴えられた。飯島さんと私は証人尋問に出て直接対決することになった。》(新谷学『「週刊文春」編集長の仕事術』)
新谷はごくあっさりと書いているが、普通の取材者には大切なネタ元との関係を断ち切ることなど決してできない。日本の最高権力者の側近とつきあえば、耳寄りなネタがいくらでも入ってくるからだ。その上、首相秘書官と北朝鮮工作員の関係を報じたところで、世間を揺るがすほどのトップニュースにはなり得ない。記事を握りつぶした方が、新谷にとっても『週刊文春』にとっても得なのだ。
「新谷のように、自分でリスクを取って取材してくる人は本当に少ない。相手に嫌われても、自分の大切な人間関係を壊してでもネタを取ってくる人はほとんどいないんだよ」(鈴木洋嗣)
ひとつの情報を手に入れるために、現場の記者たちがどれほどの努力をしているか。そのことが、同じ経験をしてきた新谷にはよくわかる。自分のネタ元との関係を保つために、部下の努力を握りつぶすことなど決してできない。新谷はそう考える人間なのだ。
「俺のモットーは、『親しき仲にもスキャンダル』。友達でもネタ元でも何かあれば書くよ、と。情に流されやすくて、誰とでもすぐに仲良くなってしまう自分への戒めもこめています」(新谷学)
かくして飯島勲との関係は断ち切られてしまった。
『週刊文春』では、ジャニーズ事務所のジャニー喜多川さんの少年たちへのセクハラ疑惑を積極的に採りあげていました。
ジャニー喜多川およびジャニーズ事務所は新聞やテレビから一切の批判を受けることなく、芸能界における絶大なる権力と影響力を長く保ち続けた。2019年7月9日にジャニー喜多川が亡くなった時、少年たちへのホモセクハラに触れた主要メディアは『週刊文春』だけだった。
権力の監視者を標榜しつつも、実際には極端に臆病で従順なのが日本の新聞やテレビだ。諸外国とは異なり、日本の新聞社とテレビ局は資本関係でつながる異常な構造を持つ。読売新聞と日本テレビ、朝日新聞とテレビ朝日。テレビ局は許認可事業であり、規制に弱いのは当然だ。政治記者は政治家に食い込み、同様に芸能記者は芸能事務所に食い込み、様々な形で便宜を図ってもらううちに、いつのまにか取り込まれ、やがて何も言えなくなる。
権力者は、自分にとって都合のいい情報だけを発信し、都合の悪い情報は徹底的に隠す。だからこそ不都合な真実を伝える週刊誌、特にタブーを恐れない『週刊文春』は権力者からはことさらに危険視され、敵視され、忌避されるのだ。『ニューズウィーク』は「週刊誌がおじけづいたら、誰が政治家に楯突くのかと考えると絶望的になる。日本の新聞はあまりにも臆病だから」と書いた。
紙の雑誌がどんどん売れなくなっていくなかで、『週刊文春』も、デジタル化、ネットでのニュース配信での収益化に舵を切ろうとしているのです。
記事の内容がテレビで採りあげられるときに「使用料」を徴収するようにもなりました。
そんな高い志があるのなら、芸能人のスキャンダルじゃなくて、政治家の汚職とかだけを追うようにすればいいのでは、とも思うのだけれど、実際に「売れる」記事は芸能人のスキャンダルのほうなんですよね。
週刊誌が「下世話」なのは、読者もまた「下世話」だから、なのです。
まあでも、人間、そんなものだよね、僕だってそうだし。
ベッキーさんの「センテンススプリング!」とか、爆笑してしまったものなあ。
『週刊文春』は、日本に残された、唯一の「メジャーであり続けているジャーナリスト集団」なのかもしれません。
「親しき仲にもスキャンダル」を貫くのって、キツイことですよね。
書く側も「人間」であることが、あらためて伝わってくる本でした。