琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】書評の仕事 ☆☆☆

書評の仕事 (ワニブックスPLUS新書)

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Kindle版もあります。

書評の仕事 (ワニブックスPLUS新書)

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年間500冊。
書評を出すたび売上ランキング急上昇↑

超人気の書評家が、
「日常」「お金」「売れる本」「本の選び方」「要約の極意」「心を動かす文章術」「批評/感想文との違い」
など、秘密も技術も大公開。


【見出し例】
・書評とは?
・書評家としての一日
・編集者の「ある種の熱意」について
・いい書評、ダメな書評
・書評を通してわかった自分の考え
・書評家の「癖」
・書評家の「収支」
・書評家が思う「おもしろい本」「売れる本」「話題になる本」「自分に役立つ本」「意外な本の選び方」
・「人の心をつかむ/動かす」文とは?
・読書術としての書評
・要約、7つのポイント
・書評とネタばらし
・僕の書評の書き方 etc.

本好き、(とくに)必読!


 なんだか、のらりくらりとした本だなあ、というのが、全体を通しての印象でした。
 著者は、月間40本の書評と、それ以外のコラムやエッセイを書き続けている人気ライターなのです。
 この本を読めば、「プロ書評家の仕事内容」とか「(ネット上を含めて)書評の書き方」「どんな本を読めばいいのか」がわかるのではないか、と思ったのですが、漠然とした情報があれこれ羅列され、肝心のところははぐらかされているのです。

 書評家の「収支」という項より。

 では、書評家が書評を執筆したら、どれだけのお金が原稿料として振り込まれるのでしょうか? やっぱり、それも気になるところですよね?
 ただ先に申し上げておくと、書評家であろうが、書評家以外の文筆業者であろうが、”文章を書いてお金をもらっている人”の原稿料にそれほど差はないと思います。ですので書評家の収支というよりは、文筆家・ライターの収支と考えていただいたほうが近いはずです。
 もちろん、大御所とか売れっ子といわれる人は違うのかもしれません。しかし、大半の文筆業者の懐事情は、おそらくだいたい同じくらいではないでしょうか。ましてや、書評家だから高いというようなことは決してありません。
 また、これから書くのはあくまでも僕が知っている範囲のことで、もっと稼いでいる方がいらっしゃる可能性もなくはないので、あくまで参考程度と思っていただければと思います。
 書評以外の執筆業者も事情は似たようなものでしょうが、ひとくちに書評の原稿料といっても、その額は非常にばらつきがあります。具体的な額は書けませんが、Aという媒体の原稿料とBという媒体の原稿料とでは3倍くらいの差があったりもします。
 などと書くと、結果的にものすごい額が振り込まれているような印象を持ってしまうでしょうか? しかし、そんなことは断じてありません(あったらどれだけ楽か)。そもそも、この記述の基準になっているのは「最低額」なのです。
 たとえば最低額が10万円だったとしたら、すべての原稿料を合わせると相当な額になるでしょう。でも残念ながら、最低額が10万円などということは考えられません。一桁(あるいはそれ以上)違うこともザラ、つまり最低額が低すぎるので、仮に最低額がその3倍あったとしても、合計すればたいした額にはならないわけです。
 ですから現実的に、書評だけを書いて食べていくことは難しいと思います。他のフリーランスも似たようなものでしょうが、少ないものをこつこつと積み上げていく以外に手段はないわけです。
 え、だったらなんで続けてるのかって? そりゃ、この仕事が好きだからですよ。


 これを引用するためにキーボードを叩きながら、僕はものすごく苛立っていました。
 このまわりくどい文体と、結局、知りたいことは何も書かれていない内容、何かに似ている。

 そうだ、「いかがでしたかブログ」だ……


news.nicovideo.jp

 
 この引用部の前半を読むと、「これから、著者の実際の収入や、書評の原稿料が公開されているんだな」って思いますよね。
 そりゃ、A社は3万円、B社は1万5000円、とか、あまりにも明確に書いてしまうわけにはいかないのはわかります。
 でも、読者に期待させておいて、これだけの文章を読む手間をかけさせ、得られる確かな情報は「最低10万円なんて高額ではない」ということだけ。教えてくれなくても、わかってるよそんなの。
 「読者が読みたいものを書く」と、この本のなかでは繰り返されているのだけれど、その能力は、書評以外の自著では発動しないのでしょうか。

 僕は他の人の感想を読むのが好きだし、書評家が自分の好きな本や「なぜ書評家として生きるようになったのか」を語っているのも読むのも大好きです。
 この人は「いま、いちばん成功している『書評家』」なのかもしれないけれど、なんというか、すぐにAIに代替されそうな仕事をやっているなあ、と感じます。

 ただ、「思い入れのある作品への、熱い書評」よりも、「その書評を読んだだけで、その本を読んだ気分になれる、『書評』というよりは『本の内容のまとめ記事』」のほうが、今の読者のニーズに合っているのではないか、という考え方については、頷かざるをえないところもあります。
 いや、僕自身も、そういう「読書感想」を濫造している、という自覚があるのです。
 ビジネス本やノンフィクションへの感想って、自分のフォーマットみたいなものにあてはめてしまえば、あまり頭と時間を使わずに作成することができますし。
 読む側も「お前の意見とか体験談じゃなくて、この本に何が書いてあるのか、サッとわかれば十分なんだよ」ということなのでしょう。

 著者は、「書評」の辞書的な意味は、「新刊の書物の内容を紹介・批評した文章」というもので、新聞や雑誌などの紙媒体における伝統的な書評(トラッド書評)は、現在、その役割を十分に果たしていないのではないか、と述べています。
 大学教授などが書いた新聞の書評には、難解で読みにくいものが多く、読者のその本に対する興味をひきにくい。

 紹介されている本自体に責任はないのに、書評を読んだ結果、「これは自分には手が届きそうにない本だな」「縁のない本だな」と敬遠してしまうことになったのなら、読者は本と出会うチャンスのひとつを失ったことになります。したがってその書評は結果的に、「(読者のために)新刊の書物の内容を紹介・批評」していないことになってしまいます。
 このように、トラッド書評については思うことが少なくなかったのですが、ウェブメディアが進歩した近年は、ちょっとした変化が起きているようにも感じます。
 ウェブ上で公開されるさまざまな書評が、「気軽に読める(情報収集ができる)文字情報」として健全に浸透しているという実感があるのです。新聞や雑誌の書評を読むときには、多少なりとも「理解しなければ……」というような緊張感がついてまわるものですが、ちょっと乱暴ないい方をすると、ウェブ上にある書評の多くは「なんとなく消費できる」のです。
 不真面目そうに聞こえるかもしれませんが、書評を「なんとなく消費できる」ことには大きな意義があります。書評を読んだ結果としてその本のことが気になったのであれば、実際に手に取ってみればいいし、なんとも思わなかったなら忘れてしまえばいいのですから。これは理屈の問題ではありません。
 いわば読者にとってのガイドラインとして機能してくれるわけで、それは書評の理想的なあり方ではないかと感じるのです。単純に、新聞や雑誌のページをめくるよりも圧倒的に楽ですしね。
 そういう意味では、インターネットが書評を「あるべき姿」に近づけてくれたのかもしれません。いいかえれば、書評のあり方に変化が訪れてきているのです。僕は、そこに可能性を感じています。


 いろんな書評や感想があって良いと思うんですよ。
 でも僕は、豊崎由美さんや大森望さん、北上次郎さん、「狐」さんなど、一冊の本について、それが生まれた背景や「書物文化」のなかでの位置づけなどを語ってくれる書評家には、圧倒されてしまうのです。
 「いかがでしたかブログ」が、PV(ページビュー)が多いからといって、「こっちのほうが現代的で、正しい」と威張っているようなネットは、多くの人を愚かにしていくだけです。
 たくさん消費されなくても、ある本と、それを本当に必要としている読者を結び付けられる誠実な書評の居場所が「稼げない」という理由で失われていくのは、あまりにも情けない。

 数をこなそうと思えば、そして、そんななかで、自分のモチベーションを保とうとすれば、こういう理論武装をするのはわかるんですよ。僕だって、「粗製乱造組」のひとりなので。
 それでも、「プロの書評家」っていうのは、もっとバカバカしいくらい本が好きで、本のことを熱く語って、読者を啓蒙するくらいの気概を持つ人々なのだと、僕は信じています。


fujipon.hatenadiary.com
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書評家〈狐〉の読書遺産 (文春新書)

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  • 作者:山村 修
  • 発売日: 2007/01/19
  • メディア: 新書

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