- 作者:帚木 蓬生
- 発売日: 2020/03/28
- メディア: 文庫
- 作者:帚木 蓬生
- 発売日: 2020/03/28
- メディア: 文庫
Kindle版もあります。
九州の筑後領高橋村。この小さな村の大庄屋と百姓たちは、キリスト教の信仰を守るため命を捧げた。戦国期から明治まで三百年。実りの秋も雪の日も、祈り信じ教えに涙する日々。「貧しい者に奉仕するのは、神に奉仕するのと同じ」イエズスの言葉は村人の胸に沁み通り、恩寵となり、生きる力となった。宣教師たちは諸国を歩き、信仰は広がると思われたが、信長の横死を機に逆風が吹き始める。
カール・マルクスの有名な言葉に「宗教は民衆のアヘン」というのがあるのです。
こう言いたくなるマルクスの気持ちは、マルクスが生きた時代背景を含めて考えるとわからなくはないのだけれど、厳しい現実の前に、何かにすがりたくなる民衆の心情にあまりにも冷淡ではないか、とも思うんですよ。
僕自身はとくに信仰を持たない人間ですが、子どもの頃から「死ぬこと」はやっぱり怖くて、「死ぬというのは家電の電源を切るようなもので、何も感じなく、考えられなくなってしまう」と思うと眠れなくなることもありました。
正直、「死んだら神様のところに行ける」「今の苦しい人生は仮の状態」というのを信じられたら、もっと生きやすくなるのではないか、という気もします。
人はなぜ、宗教を信じるのか?
まあ、こんな問いができるいまの時代と日本という国がむしろ例外で、歴史の大部分では、「環境的に、ある宗教を信じることになっている」ことがほとんどなのでしょうけど。
この『守教』という小説は、九州の筑後領高橋村(現在の福岡県大刀洗町)に、キリシタン大名の肝煎りで生まれた「キリスト教信仰の村」の歴史を、その大庄屋一家を中心に描いたものです。
読みながら考えていたことは、「なんだかとても淡々とした小説だなあ」ということでした。
舞台になっている地域には、ほとんどドラマチックな出来事は起こりませんし(ひとつ、大きな事件があるのですが)、他地域でのキリスト教徒・宣教師たちの受難が伝聞として伝えられる一方で、高橋村では、形を変えながらもキリスト教の信仰が続いていくのです。
上巻の途中くらいまでは、「この小説、いつになったら、盛り上がるんだろう?」と思いながら読んでいたんですよ。
でも、読んでいるうちに、なんとなくわかってきました。
多くの小説では「劇的な出来事」、たとえば、宣教師や信者への拷問や踏絵の残酷さや「殉教」の場面、迫害された信者たちが立ち上がる姿などが描かれているのです。
しかしながら、この『守教』で描かれている高橋村の信者たちは、「幕府の棄教命令に表向きは従い、良い百姓として暮らし、現実と妥協しながら、生きて、信仰を受け継いでいくこと」を選びました。
ある意味、したたかでもあるし、時代とともに信仰が薄れていく人も大勢いたのです。
キリスト教が広まった時期は、境界があったり、神父や修道士が数年に一度信者がいるところを巡ってミサや洗礼を行ったりしていたのですが、彼らが弾圧によっていなくなってしまってからは、村人は親から子へ信仰を受け継いでいきました。
幕府からの棄教の命令に従わずに、残酷な刑罰に処せられた人たちの信仰心の崇高さには心を打たれるのですが、「僕にはこんなことはできないな」とも思う。
その一方で、なんとか現実の状況と折り合い、「生き延びること」を選び、表向きは寺にも行くし、踏絵も躊躇無くやってみせる、ことによって、信仰を後世に受け継いだ人たちには、「ああ、こういう『信仰』も有りなんだな」と共感できたのです。
それは簡単なことではないし、賞金もかかっていたなかで、よく内部告発もなく、明治維新まで「隠れ」続けられていたものだなあ、と、その静かで終わりが見えない戦いの凄さに圧倒されます。
ほとんど何も起こらない、淡々と時間が流れていくからこその「歴史の重み」を感じるのです。
「何も起こさない」ために、どれだけの苦労と工夫と犠牲を、高橋村の人たちは積み重ねてきたのだろうか。
「人はなぜ宗教を信じるのか?」
この小説を読んでいて疑問だったのは、キリスト教が日本に入ってきたときに、なぜ、こんなに多くの人たちが、その教義に惹かれ、入信したのか?ということだったんですよ。
キリスト教の宣教師たちの技術や医療に驚いたり、それまでの仏教のありかたに不満を持っていたから、なのだとしても、こんなにあっさり、信じるものを変えることができるものなのだろうか。
その答えは、結局、よくわからなかったのです。
でも、信仰とか恋愛とかいうのは、「なぜ信じるのか、なぜ好きになるのか、よくわからない」からこそ成り立つもので、言葉で説明できるようなものは、噓なんじゃないか、という気もしてきたんですよ。
ただ、ひとつだけ言えるのは、「人は神様や教義を信じる」というよりは、「人は、やっぱり人を信じる(あるいは、人しか信じられない)」のではないか、ということなのです。
この小説には、大勢の神父や修道士が登場してきます。
なかには、ちょっといけすかない人もいるんですが、大部分は、信仰のために言葉も通じない日本にやってきて、布教のためにほとんど休む間もなくあちこちを歩きまわり、人々の声に耳を傾けているのです。
弾圧を受けて拷問の末に命を落とした宣教師も大勢います。
傍からみれば「なんでこんなキツイことを……」と思うようなことを「神の道具として生きる」ためにやり続けている宣教師たちや、「慈愛」の精神を持って助け合っている信者たちの姿こそが、人々を信仰に向かわせてきた。
なんで「殉教」するリスクもある信仰を続けるのか?
いまの時代を生きている僕はそう思うのだけれど、「殉教」をためらわない人々の姿こそが、他の人々の信仰心を強める面もあるのです。
天正遣欧少年使節としてローマにまで行った4人の少年たちのことは歴史の授業で習ったのですが、彼らの「その後」について、僕はこの小説ではじめて知りました。
ヨーロッパの文化を目の当たりにして、栄光に包まれて日本に戻ってきたはずの彼ら、とくに、この小説で描かれている中浦ジュリアンの「その後の人生」は、幸福なものだったのだろうか?
僕はこの小説の舞台になった地域には、少しだけ土地勘があって、通りがかったときに、なんでこんな田舎に、立派な教会があるのだろう?と感じたことを思い出しました。
テーマは重そうだし、キリスト教にも興味はないし……
そう感じる人も多そうではありますが、「どう生きていいのか、なんだかわからなくなっている」現代人には、けっこう刺さる小説だと思います。
fujipon.hatenadiary.com
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