琥珀色の戯言

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【読書感想】「それから」の大阪 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

大阪は「密」だからこそ魅力的だった。
そんな大阪の町はこれから変わってしまうのか、それとも、変わらないのか──。
2014年に大阪に移住した著者が「コロナ後」の大阪を歩き、人に会う。
万博開催予定地、40年の営業に幕を下ろす立ち飲み店、閑散とした道頓堀界隈、自粛要請に振り回される屋台店主、ベトナムに帰れず大阪で1年以上を過ごすアーティスト、町を練り歩くちんどん行列、新世代の大衆酒場、365日朝6時から営業する銭湯、ド派手な巨大看板をつくる工芸店……。
非常時を逞しく、しなやかに生きる大阪の町と人の貴重な記録。


 2014年の夏に、生まれ育った東京から大阪に引っ越してきたスズキナオさんがみた「生活の場としての大阪と、そこで生きている人々の話」。
 大阪といえば、ヒョウ柄の服を着たおばちゃんとか、ずっとボケとツッコミの会話をしている女子高生がいるお笑いの街、というイメージが僕にはあるのです。
 著者は、この本の最初に、こんなふうに書いています。

 大阪で暮らす人々は、外から見た“大阪らしさ”をあえて演じているんじゃないかと思うときがある。大阪に引っ越してくるまで、私が持っていたイメージは「お笑いの町」「コナモンの町」「おばちゃんが元気な町」といった、大阪を外から眺める多くの人が思い浮かべるであろうものと同じだった。しかし、大阪で生活するようになると、そのような“大阪らしさ”は決して嘘ではないにせよ、かなり大げさにデフォルメされたものだと感じるようになった。漫才師の掛け合いのようなスピード感のあるやり取りが聞こえてくることも確かにあるが、小声でゆっくりしゃべる人、寡黙な人だっている。たこ焼きやお好み焼きを毎日のように食べるわけではないし、ヒョウ柄の服に身を包んだおばちゃんばかりが町を歩いているわけでもない。そもそも私のような移住者だって大勢いる。
 だからそれらのイメージはあくまでも外から見たものであって、内側から見える大阪はもっと複雑だ。ただ、その複雑さを語り出せばキリがないから、「コテコテの大阪ゆうことで、まあ、ええわ」と、少し投げやりに受け入れている節がある。
 私はその表面的な大阪らしさの内側に隠れた、もっと普通でありふれた、いわば“平熱の大阪”を知ってもらいたいと思った。なぜなら私が生活者として日々ふれているのはその平熱の大阪だからであり、私が大阪に対して感じる魅力も、そういったものだからだ。


 僕は大阪で生活したことはなく、観光客として、あるいは仕事で何日か滞在した程度なのですが、外から来た人たちは、「観光客向けに『大阪らしさ』を煮詰めたような場所」を訪れて、「大阪って、こういうところ」だと思っているのかもしれません。
 
 維新の会が圧倒的に支持されているのをみると、「他の地域とは、けっこう気風が異なるのかな……」と考えるところもあるのですが、イメージされているほどの「地域性」っていうのは、いまの日本には存在しないような気がします。

 この本のなかで、『こばやし』という立ち飲み屋の閉店の日のことが書かれていました。
 それはとても感傷的な気分になる素晴らしい文章だったのです。
 濃厚なおもてなしや常連が多い店が苦手で、放っておいてもらえるチェーン店好きの僕でさえ、「こういう店には、なくなってほしくないなあ」と思わずにはいられないほどに。

 この店には誰であろうと分け隔てなく受け入れてくれるような居心地のよさがある。あるとき、店の常連さんに聞いたところによると、ここでは常連になればなるほど地位が下がるんだという。一見さんや女性客など、こういった店に入りにくい人にこそ心遣いをし、常連さんは放っておかれる。「俺なんかお母さんに起こられてばっかりやもんなぁ」と語る常連さんの顔は、しかしとても嬉しそうだった。
 たいていの店では逆だろう。常連客こそが大事にされ、一見さんよりいい扱いを受けるのが普通だ。ここではそれが反転していて、だからこそ肩ひじ張らない気楽なムードが生まれるのだ。
 店の中で大阪市廃止を問う住民投票の賛成派の人と反対派の人とが議論を交わしているのに遭遇したことがある。主張が異なる者同士の言い合いなのだが、熱気にあふれてはいるものの、相手の主張に耳を傾けて最後は「まあ、飲もう」と歩み寄る雰囲気があり、お互いがいがみ合わず、そっぽを向くでもなく、こんなふうに話せるのはなんと素晴らしいことだろうかと感動した。それもこれもきっと、コの字カウンターの中にいるお店の方々の優しい雰囲気が波紋のように周りに波及していくからではないかと思った。

 大阪中の立ち飲み店をめぐってきた松井さんに「『こばやし』の魅力はどこにあるんでしょう」とたずねたことがある。すると松井さんは「それが見つからんねん!」と歯を見せて笑った。「でも、ここに来る客はみんないいやつやねん。こんな場所はないよ」と言う。


 読んでいるだけでも、こんな店に行ってみたい、と思うのです(もう無くなってしまったけれど)。
 ただ、大阪だからこそ、という感じもあまりしなくて、こういう店は、東京の下町にもありそうです(僕も出張の際に、東京でこんな雰囲気のけっこう有名な店に入ったことがあります)。
 いまの日本では、東京か大阪か、よりも、同じ街のなかでも、都市部か郊外か、高級住宅街か下町か、の違いのほうが大きいのです。
 そういうのは、「いまの日本」だけの話ではないのだろうけど。


fujipon.hatenadiary.com


 僕はスズキナオさんのこのエッセイ集を読んで、ファンになったのですが、この本は「大阪」というテーマがあることで、スズキナオさんの目のつけどころの面白さが、制限されてしまっているような気もするのです。


『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』には、「自分で、あるいは自分の家族が食べるためにつくる、家にあるものでサッと作ったラーメン」を「自分の家系ラーメン」と定義し、他の人がつくる「家系ラーメン」を食べてみたい!という衝動に突き動かされ、友人や、ネットで「自分のラーメン」を公開している人に取材にも行った話が書かれています。
 
 それに比べると、この『「それから」の大阪』は、いかにも「タウン誌(というのも、最近はあまり見なくなりましたが)の連載エッセイっぽい感じ」で、行儀が良すぎるようにも感じるのです。面白いんですけどね。

 このエッセイは、取材時が新型コロナウイルスのまん延の時期と重なっており、「あの賑やかな大阪は、コロナ禍でどんな日々を過ごしていた(いる)のか」が、そこで暮らしている人の目線で記録されています。

 コロナ禍の今年、福むすめの前にはビニールシートが張られ、みな紫色のマスクをしている。「顔が全然見えへんわぁ」とカメラを構えながらぼやく男性もいた。
 私も笹に飾り付けをしてもらうことにした。吉兆がどれぐらいの金額なのかわからず、とりあえず二つ飾り付けてもらったところ、「3000円のお納めになります」とのこと。一つ1500円というのが相場のようだ。
 私の笹は周りの人のものと比べるとだいぶ寂しく、見ていると5点から7点ぐらいの吉兆を付けてもらう場合が多いようであった。
 笹を持って境内を後にする。ほんの少しだけ出ている屋台に立ち寄り、豚汁で冷えた体を温めた。
 お店の方に聞けば、「人は全然おらんね。いつもの10%ぐらいちゃうか」とのこと。「道に出たらあかんから、潰れた家の敷地とか駐車場を借りて(屋台を)出すしかないねん。いうてもそんな場所たくさんはないからな」と言っていた。 
 毎年神社の周辺に屋台を出していた人たちはどう過ごしているんだろう。きっと一念のうちでも大きな収入源だったはずだ。決まった土地に店舗を持って商売する人と違って十分な補償がなされるのかも心配なところである。

 新型コロナウイルス禍のなかでの、今宮戎神社の「十日戎」の風景など、後世の人々にとっては、貴重な記録になるのではないでしょうか。

 いまは、マスクをして生活するのが「あたりまえ」になっていますが、新型コロナ以前は、こんな状況が何年も続いて、学校がずっと休みになってリモート授業がここまで浸透するなんて、予測していた人はいなかったはずです。
 それでも、これまでの歴史を鑑みると、疫病はいつか(たぶん数年の単位で)収束、終息していく。
 
 1918年から1920年に世界中で大流行した「スペインかぜ」のときにマスクをして登校している子どもたちの写真を見たことがあります。

 医学や疫学は100年前よりずっと進歩しているのだけれど、グローバル化で人の広範囲な行き来も盛んになっており、人類とウイルスとの闘いは、人類が続くかぎり繰り返されることになるのでしょう。

 このコロナ禍は、本当に終わるのだろうか?
 いままで通りの生活に戻れる(戻りたい)のだろうか?

 何十年か後の子どもたちは、「新型コロナで学校が長期休みになった」というのを聞いて、「うらやましいなあ~」とか言うのでしょうね。僕も同じ立場でも、そう言っていたと思う。


fujipon.hatenablog.com

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