琥珀色の戯言

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【映画感想】星の子 ☆☆☆☆

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父(永瀬正敏)と母(原田知世)から惜しみない愛情を注がれて育ってきた、中学3年生のちひろ(芦田愛菜)。両親は病弱だった幼少期の彼女の体を海路(高良健吾)と昇子(黒木華)が幹部を務める怪しげな宗教が治してくれたと信じて、深く信仰するようになっていた。ある日、ちひろは新任の教師・南(岡田将生)に心を奪われてしまう。


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2020年、映画館での10作目。
平日の夜からの回で、観客は僕ひとりでした。
芦田愛菜さん出てるのに!
良い映画なのに!
まあでも、観る人が少ない理由も、わかるような気がします。
世の中で「バズる」ものの多くは「面白い」か「役に立つ」もので、映画やドラマの場合は「泣いてスッキリできる」というのもあるのだけれど、この『星の子』は、「えっ、これで終わり?」って感じだし、観終えてもモヤモヤしっぱなしだし。
「2時間観ることで、世界の見え方が少しでも変化する」という意味では、本当に「素晴らしい映画」だと思うのだけれども。


主人公・林ちひろは子供の頃から身体が弱くて、両親はちひろのためにあらゆる手を尽くすのです。その「手段」のなかに、宇宙のパワーを込めた(自称)「金星のめぐみ」という水を勧める新興宗教があって、それが、ちひろに「効いて」しまった。客観的にみれば、その水の効果というよりは、成長とともにアレルギー体質がおさまってきただけではないか、とも思うのだけれど、我が子の皮膚がどんどんつるつる、すべすべになっていくのを目の当たりにしたら、それを親が「信じる」のもわかるのです。
うちも、下の子が生まれてすぐに黄疸が出て、しばらく入院したときは、不安で仕方がなかったし、代われるものなら、代わりたい、と真剣に思ったから。医学とか科学に対しては、それなりの知識と経験を持っているはずなのに、自分のこととなると、冷静ではいられない。

「お金のために誰かを騙そうとしているニセ宗教家は悪だ」という考えには、みんな共感できると思うんですよ。
この映画をみていて困惑してしまうのは、教祖も信者も、みんな本気で「信じている」ということに対してなのです。
頭に「金星のめぐみ」をひたした白い手ぬぐいみたいなものを乗せて生活している、ちひろの両親に対して、登場人物のひとりが「河童みたい」と言うシーンがあるのですが、僕はその言葉に、ちょっとホッとしたのです。ああ、そう言っちゃっても良いんだ、って。
 
いまの日本では「宗教」というのがあまりにも特別な存在になってしまっているから、ある人の全体像を「あの人は〇〇の信者だから」と総括してしまいがちですよね。
実際は、「何を信仰しているか」というのは、その人の一面でしかないはずなのに。
少なくとも、いまの日本では、尊重はするけれど、同調する必要はないはずなのに。

この『星の子』では、信者たちは「河童」みたいな恰好をしていたり、「金星のめぐみ」という水を持ち歩いていたりという、わかりやすいアイコンで示されているのだけれど、これまでの僕の人生にも、さまざまな「信仰」を持っている人はいたのです。でも、彼らのほとんどは、「ちょっと真面目で融通がききにくいかな、というくらいの『普通の人』」だったのです。
外見や薄い付き合いではわからなかった、「新興宗教を信じている人」にも、たくさん接してきたはずです。
基本的に「迷惑なくらい積極的に布教」してこなければ、あるいは、あまりにも常軌を逸した制限を子どもたちに強要しなければ、問題はない。

 ……と言いたいところではありますが、宗教というのは、一般的に「戒律」を持つものではありますしね……「豚肉、美味しいのになんで食べないの?」とムスリムを問い詰めても、どうしようもない。

ある宗教の熱心な信者である、という人に対して、とくに新興宗教に対しては「カルト」とか、「勧誘されそう」というイメージから、敬遠したくなる気持ちが僕にもあります。
僕は基本的には無宗教だけれど、身内の葬儀ではお寺にお経をあげてもらうし、結婚式はチャペルでした。ただ、「無宗教」というのは、世界標準ではなくて、「どの宗教も信じていない人間」は、不審、あるいは理解不能な存在だとみられる国も多いのです。

僕自身は「無宗教」というか「死んだら神の国に行くよりも、壊れた家電みたいになるんだろうな」としか思えないのですが、だからこそ、「信仰」に惹かれるところもあるのです。
隠れキリシタンが、酷い拷問を受けても棄教せずに殉教を選んだ、ということに、子どもの頃は「なんて残酷な話なんだ。そこまでして信仰を貫くなんて狂っている」と思っていたのです。
でも、今は「あんな苦しい目にあっても、『信じ抜く』ことができて、死ぬことさえ恐れないで済むというのは、本当に『不幸』なのだろうか?」と、「死ねばそれでおしまい」派の僕は考えずにはいられないのです。
だからといって、いまさら「信仰に目覚める」なんてことは無さそうだけれど。
 

ちひろにとっては「きっかけは自分の病気を治すためだった」という両親の信仰を否定はできない。でも、ちひろのお姉さんは、自分の家の「特殊性」にうんざりし、妹のことばかり両親が考えているようにもみえて、家から離れる選択をしてしまった。
信仰によって、林家は、周囲の人々から白眼視されているし、ちひろも「親の信仰を強要されている、かわいそうな子」と見なされている。
ただ、ちひろ本人は、ずっとそういう環境のなかで生きてきたし、姉の家出、という大きな転機はあったけれど、両親の仲は良いし、親子の関係も悪くはない。「もともとは自分のためにやってきてくれたこと」だという「負い目」みたいなものもある。

オウム真理教が陥ってしまったような、他者を傷つけたり、社会を破壊したりする宗教は、許容できない。
ショッカーの改造手術みたいな、明らかな「洗脳」も認められない。
でも、こんなふうに「信者の二世」が、自分が置かれた環境によって染まっていくのは、どう考えれば良いのだろうか?
自分で信仰の道に進んだ人たちはその対象がひどいものでなければ「自己責任」ではある。
では、その子どもはどうなのか?
そういう環境に置かれたのが原因なのだから、本人の自由にさせてあげるべきだ、と言っても、自分が生まれた環境から自由でいられる人間というのは、本当に存在するのだろうか?
映画『マトリックス』で、機械につながれて栄養を吸い取られながら、楽しい文明の夢をみている人間たちが出てきたけれど、彼らを起こして(解放して)原始的な生活をさせることが、はたして本人にとって「幸せ」なのか?

いまのちひろの家族はそれなりに幸せそうにみえます。
むしろ、外部からの働きかけが、彼らを不幸にしているような気がするのです。
僕は、もっと経済的に豊かで、宗教にもハマらず、自由な生活をしている人間をたくさん知っているけれど、そういう人たちの家庭が、みんな幸せというふうにも見えない。
みんながそれぞれの「自由」と「権利」を主張しあっていくと、人と人とは、大概、離れていく。

正直、僕はわからない。
ちひろは、「不幸」なのか?

僕がいままで接してきた「新興宗教を信じている人たち」は、僕に布教しようとするのがめんどくさい、という点を除けば、大概、大人しくて礼儀正しい人だった。そもそも、よほど深い付き合いにならなければ、今の日本では、その人の信仰の対象を知ることは難しい。
でも、その礼儀正しさは、「宗教的な都合によって親から埋め込まれたもの」だということもある。
 
あらためて、芦田愛菜さんはすごい女優だな、と思った。
ものすごく美形というわけではないし、存在感が際立っているわけでもない。
僕は何度も「これ、あの芦田愛菜、だよな」と心のなかで確認していました。
ちひろというのは、まさにそういう「どこにでもいそうな子」であり、それをきちんと芦田さんは演じていた。いや、演じていたのか、今の年齢の芦田さんだからこそ役にシンクロできたのかは僕にはわからないけれど。
「演じている」のかどうかもわからないというのは、やっぱり、すごいことではなかろうか。

あと、岡田将生さんの「さわやかなイケメンなんだけど、嫌な奴」っぷりも見事だった。映画のなかでみると、ものすごく嫌な感じだけれど、世の中では、ああいう態度を取る人が多いし、誰かが「新興宗教の信者である」というだけで、「おかしな人」扱いする人も大勢いる。あれだけ感情を露わにするというのは、教師としては問題点だと思うが、あれを「率直な態度」だと好ましく感じる人もいるはずだ。
映画やドラマでは、少数派の立場から描かれることが多いので、「マイノリティを弾圧するマジョリティ」に観客は怒るけれど、実生活では、たいがい、弾圧する側に立っているのだ。僕もそう。

個人的には、「もっと良い星空(の撮りかた)があったのではないか?」というのだけ、ちょっと残念だったけれど、ものすごく好きな映画だった。
楽しくもなければ、たぶん、人生の役にも立たない。知らない、感じないほうが、ラクに生きられる。

この作品を観終えて、「えっ、こんな中途半端な終わり?」って僕も驚きました。
でも、この映画にドラマチックな結末も結論もないのは、人が生きるとか幸せになるとか何かを信じるということに、結末も結論もないからなのだと思うのです。

 
 
fujipon.hatenadiary.com
※読み返してみたら、この「本の感想」のほうが、うまくまとまっていると思います。

fujipon.hatenablog.com

星の子 (朝日文庫)

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