琥珀色の戯言

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【読書感想】フジテレビ プロデューサー血風録 楽しいだけでもテレビじゃない ☆☆☆


Kindle版もあります。

「楽しくなければテレビじゃない」――。かつて、フジテレビの"軽チャー"路線と一線を画し、真っ向勝負でテレビに挑み続けた男がいた。ワイドショー『おはよう! ナイスデイ』、情報番組『なんてったって好奇心』、探検シリーズ『グレートジャーニー』、未来予想番組『アルビン・トフラーのパワーシフト』、"脱ワイドショー"を掲げた『とくダネ! 』、実録『ザ・ノンフィクション』……立ち上げ秘話や艱難辛苦なエピソードを通して語られる、プロデューサーの流儀とは。フジ親会社ならびに産経新聞のトップへと登りつめた男が見据える、テレビ、メディアのこれから。


 ネットでは批判の声が大きくなりがちなフジテレビなのですが、僕が子どもの頃、1980年~90年代は「自由で楽しい雰囲気のテレビ局」として、破竹の勢いで人気番組を送り出していました。
 フジテレビでは、『ひょうきん族』や『笑っていいとも』のようなバラエティ番組が語られることが多くなりがちです。
 この本は、そんなフジテレビでワイドショーやノンフィクションをつくりつづけてきた人が「あの時代」を振り返ったものです。
 著者は、先日終了した『とくダネ!』のはじまりにも関わっていたそうです。
 今も続いている『ザ・ノンフィクション』も担当されていて、ある意味「フジテレビらしくないフジテレビの人」とも言えそうです。

 私は、その組織下の末端、王国の辺境で生きてきた。エログロ事件、芸能人のゴシップ、スキャンダルを主なネタとするワイドショーのディレクターとして、30代を過ごした。報道からは蔑まれ、ネタの賞味期限が切れるや「何も、そこまでやらなくても!」と世間からハエやゴキブリのごとく叩かれ、バカにされた。ロス疑惑山口組対一和会の抗争、殺人事件の周辺でもがき、嗅ぎ回り、走り回り、徹夜の連続でも大酒を飲み、裏通りの視聴率競争に血道を上げていた。
 1985年、38歳の8月だった。日航機が御巣鷹の屋根に墜落。乗客のひとりだった大学時代の親友が死んだ。もうひとり、坂本九さんとも縁があった。私はワイドショー『おはよう!ナイスデイ』の放送現場に連日いながら、「そろそろ、この稼業も潮時かなあ」と、日に日に醒めていく自分に気づいていた。事件、事故、人の死をメシの種としているうちに、身近な人間の死まで、ついに仕事になってしまった。そんな気分になっていたのだ。
 それから30年余りがたった。その大半は番組作りの現場だった。フジテレビがゴールデンタイムで初めてスタートさせた1時間の情報番組『なんてったって好奇心』。探検家、関野吉晴さんと組み、10年がかりで制作したシリーズ・スペシャル『グレートジャーニー』。今は亡き畏友、BSフジの社長を務めた北林由孝さんと奔走し、実現させた『プライムニュース』……。数多くの安請け合い、その時々の野心があり、笑ってしまうほどの困難に恵まれた。


 大物芸能人のエピソードなどはそんなに出てこないのですが、つねに「現場」でギリギリのスケジュールのなか、番組をつくってきた著者の話を読んでいると、「テレビが、フジテレビがいちばん元気だった時代」を思い出さずにはいられません。

ロス疑惑」は、1981年11月に、ロサンゼルスを走る高速道路脇フリーモント地区の駐車場で、輸入雑貨商の三浦和義さんの妻、一美さんが銃撃されて重体になり、三浦さん本人も足を撃たれることから始まる。
 82年1月、三浦さんは重篤な状態の奥さんを日本に連れ帰る。神奈川県伊勢原市東海大学医学部付属病院に移送するために、米軍のヘリが病院近くの広場に着陸。三浦さんが発煙筒をたいてヘリを誘導した。この光景を当時フジのニュースキャスターだった故・逸見政孝アナウンサーが、泣き声で絶叫リポートしている。その映像がいまだに使われることがあるが、今思えば、別に夜でもないし、見晴らしのよい所で、なぜ発煙筒をたいているのかよくわからない。しかし、当時はそんな疑問を持たないぐらい、「うわー、大変な目に遭っちゃって!」悲劇の主人公として「気の毒にねえ……」が人々の気持ちだった。


 昔のニュースを振り返るとき、「やっぱりおかしいと思っていた」なんて言う人は少なくないのですが、リアルタイムでは、取材していた人たちだって、こんな感じだったのです。今から考えると、たしかに、「なんでこの人が発煙筒を持って誘導までやっているんだ?」なんですけど。
 リアルタイムで、その悲劇のドラマに流されないで、「おかしい」と気づくのは、本当に難しいよなあ。
 オウム事件のときも、地下鉄サリン事件まで、僕たちの周りでは「オウムの歌」とかをさんざんネタにしていましたし。
 著者は、「ドキュメンタリー」にも多数関わっているのですが、この本のなかで、ドキュメンタリーやノンフィクションに「演出」がいるのは、事実を収録したものでも、「ありのまま」に伝えるのは不可能で、その切り取り方によって、見えかたは大きく変わってくる、ということだ、と述べています。
「ニュース」だって、扱い方によって受ける印象は変わってきます。
 加害側の不幸な生い立ちを中心にするのか、被害者側のやりきれない気持ちに時間を割くのか。


 アナウンサーの逸見政孝さんが亡くなられたのは、1993年のことでした。

 私もかつて『なんてったって好奇心』でご一緒していて、人柄のよさ、能力の高さをよく知っていた。1993年の秋改編で逸見さんが司会のバラエティ番組『平成初恋談義』が決まり、夏頃に番組のポスター撮りがあった。
 撮影が終わると、逸見さんから「この後時間があったら、うちに来てくれませんか?」と誘われた。逸見さんのご自宅といえば豪邸として有名だったから、喜んで伺った。ところが、そこで告げられたのは、胃癌、だった。自分の状況を淡々と話し、今後ご迷惑をかける可能性が出てきたため、と結んだ。
 逸見さんは2歳下の弟さんが30歳にしてスキルス胃癌で亡くなっているため、健康に人一倍気を遣っていた。93年1月から体調を崩し、手術のために入院していたが、翌月には現場に復帰していた。当時は十二指腸潰瘍を患ったと公表していたが、癌に侵され、この時にも既に再発している状態だった。まもなくスタートする『平成初恋談義』の他にも、レギュラー番組を週5本抱えている。逸見さんがとった行動は「会見」だった。
 日本テレビのスタジオで行われた会見の冒頭、彼は冒頭を偽っていたことを詫び、現状を述べるところから始めた。逸見さんは「これまで伝える側だった自分が、自分の身に起きていることを何も伝えないのは信条に反する」と。その場に立ち会った私は、スタッフ、視聴者に対して、どこまでも誠実であろうと努力する逸見さんが痛ましかった。
 当時は癌を公表する芸能人などいなかった。
 逸見さんはこの会見から4カ月後の12月に、息を引き取る。『平成初恋談義』のポスター用に撮った写真が、遺影写真となった。


 僕もあの会見のことはよく覚えています。
 当時は、癌を公表する、ということは異例だったんですよね。しかも、自分自身で。
 僕は当時医学部の学生だったのですが、逸見さんの会見は、それまで、患者本人には未告知のままどんどん病状が悪くなっていくことが多かった癌を「告知」して、本人に治療や残りの人生をどう過ごすかを決めてもらうようになったきっかけのひとつになったと感じています。
 あれから27年。当時学生だった僕は、ちょうど亡くなられたときの逸見さんと同じくらいの年齢になりました。
 この本を読んでいると、あのニュース、あの事件があったときに、自分自身がやっていたことを思い出さずにはいられません。
 
 フジテレビの「バラエティ班の記録」は、いろんな人が証言を残しているのですが、「それ以外のフジテレビの番組」に関しては、当事者が語る機会が少なかったと思うんですよ。
 そんななかで、「バラエティではないフジテレビ」で、ワイドショーのADからフジ親会社のトップまでを経験した著者の話は、貴重なものだと思います。

 この本にも出てくる『ワーズワースの冒険』とか、好きだったなあ。


ワーズワースの冒険 (扶桑社文庫)

ワーズワースの冒険 (扶桑社文庫)

  • 作者:寺崎 央
  • 発売日: 1997/04/01
  • メディア: 文庫

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