琥珀色の戯言

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【読書感想】遊王 徳川家斉 ☆☆☆☆

遊王 徳川家斉 (文春新書)

遊王 徳川家斉 (文春新書)


Kindle版もあります。

遊王 徳川家斉 (文春新書)

遊王 徳川家斉 (文春新書)

在位50年、子どもは50人以上!
泰平の世のはまり役、「オットセイ将軍」の治世は、賄賂と庶民文化の花盛り。

「種馬公方」と揶揄されがちな家斉。映画やドラマでは常に脇役扱いで、評伝などもほとんど見当たらない。しかし、明治期に「古きよき時代」と懐かしがられたのは彼が50年にわたって治めた文化文政の世だった。華やかで、のびやかな権力者生活を謳歌した十一代将軍とその時代を詳らかにする。


 徳川家の十一代将軍・家斉は、将軍の位に50年間もとどまり、50人以上の子供をつくったと言われています。
 将軍の子とはいえ、半分くらいは幼少時に亡くなっているのですが、その子供たちを諸大名に嫁入りさせたり、養子にさせることによって、多くの大名家が血縁となり、政権の安定にもつながりました。
 まるでハプスブルク家のようだ……と思いながら読んでいたのですが、家斉の死後、「家斉の係累」があまりにも多くなり、同族意識を持って権力を握ることになったがゆえに、のちに、「それ以外の者たち」の反発も生まれてきたのです。
 最後の将軍、徳川慶喜は、家斉と血縁のない水戸藩徳川斉昭の子であったがゆえに、譜代大名幕臣から「よそ者」とみなされていたのではないか、と著者は推測しています。

 50年も将軍の地位にあったにもかかわらず、「徳川家斉は、何をした人か?」という問いに答えられる人は少ないのではないかと思われます。
 将軍に就いてからしばらくは、老中・松平定信の主導で「寛政の改革」が行われましたが、これは、家斉がまだ若く、政治を家臣に任せていた時期のことでした。
 その松平定信は、もとは御三卿の田安家の一員で、他藩に養子に出されなければ将軍になっていたかもしれない人物だったのです。

 この本で「家斉の治世」を追っていくと、家斉のような「何もしない人」だから文化文政期という比較的安定し、庶民の文化が花開いた時代が生まれたのか、そういう時代だったから、家斉という「身体は強く、子供も大勢いるけれど、積極的に政務をやろうとはしない人」でも、五十年間も将軍で居続けることができたのか、と考え込んでしまうのです。

 もし、家斉が戦国時代の大名だったら、放蕩三昧で家を傾けていたかもしれません。
 でも、この本で紹介されているエピソードを読むと、けっこう器の大きな人だったのではないか、という気もしてきます。

 家斉の人気は気前の良さに加えて、仕えやすさにもある。
 家斉は『三国志』が好きだった。自ら紺地に金泥で諸葛孔明の像を描いて、賛も入れ、吹上の庭の瀧見の茶屋に掛けておいた。
 散策の時、これを眺めて、ため息をついた。「今はなぜこのような家臣がいないのであろうか」。お側の者が真っ青になる発言だ。
 しかし家斉はすぐにニッコリとして「それはそうだな。上に劉備玄徳のような君主もいないからな」。お側の者はホッとして「いと有りがたき御事」と思ったとか。
 これは肥前平戸藩の老侯、松浦静山(清)が書いた随筆集の『甲子夜話』から引用して、正史の徳川実紀に載っている。

天保の改革」を主導し、ぜいたく禁止の引き締めで江戸を火の消えたような街にしてしまったといわれる水野忠邦
 ところがこの水野が幕閣での出世に燃えていた時、家斉に着目されたのは「菊づくり」がきっかけだった。
 ある秋、家斉は居並ぶ老中らに菊の苗を与えた。翌年、花の頃になり、出来栄えを見せよと命じた。
 それぞれ花を切り、見事な器に載せてご覧に供した。「いづれも絢爛富麗にしていふばかりなく美事なりし」という。
 ところが水野のだけがみすぼらしく、他の花に比べると「見どころもなくぞありける」という始末。
 家斉はつらつら眺めて言った。
 富麗のものはプロの「園丁」に育てさせ、水野の花がうるわしくないのは自分で育てたからだろう。

「これより忠邦を寵遇し給ふこと他に異なりしとぞ」(文恭院殿御実紀附録「実録」)

 いかにも堅物の水野らしい挿話だが、家斉も人を見る目があったということでもあろうか。
 江戸の各地での様々な植木市も家斉の時代から盛んになり、菊人形もその起源を染井で流行した菊細工にさかのぼることができるという。


 「遊王」なんて、『ヤングジャンプ』のマンガのタイトルにありそうな呼ばれ方をしている家斉なのですが(これは『文恭院殿御実紀』に「また遊王となりて数年を楽しみたまふ」という記述があるのです)、仕えていた者たちからすれば、「自分に厳しくはなかったけれど他者にも寛容で、けっこう、人を見る目もあった」ということなのでしょう。
 「英雄」ではなかったけれど、平和な時代の君主には、もってこいの人物だったような気もします。

 寺子屋などを通じて教育が普及したことで、庶民も本を読み、芝居や絵画などの芸術を楽しむようになったのも「家斉の時代」からと言っていいだろう。
 滝沢馬琴は文化四年(1807)に『椿説弓張月』がベストセラーとなり、文化十一年(1814)から刊行が始まった『南総里見八犬伝』は28年をかけて天保十一年(1842)に完結した超ロングセラーだ。
 馬琴は原稿料で暮らした初めての日本の作家と言われている。
 原稿料というものが発生したのも寛政年間の末期、すなわち「寛政の改革」が終わり、「家斉の時代」に入った頃からといわれる。
 それまでの安永、天明年間に、つまり「田沼時代」までは恋川春町、四方赤良(大田何畝)らが作品を出版しても、決まった原稿料といったものはなく、版元からお礼に一献と酒食のもてなしを受けるくらいだった。
 初期の戯作者はほとんどが武家で、奉公先から俸禄をもらっており、文筆は道楽に過ぎなかったのだ。
 とことが馬琴や山東京伝ら町人が出てくると、原稿料で食っていくというスタイルになっていく。


 日本で職業作家が生まれたのも、家斉の時代だったのです。
 50年の安定政権は、少なくとも江戸の文化にとっては、大きなプラスになったのではないでしょうか。

 家斉の死後、ペリーの来航をきっかけに幕府が急速に不安定になっていくのですが、家斉は、江戸時代の平和な時期を、ひとりで「いいとこどり」してしまった人ではありますよね。
 この時代の将軍が他の人であれば、半世紀もの穏やかな時代は無かったかもしれません。
 でも、この時期に、もうちょっと危機感を持った将軍がいて、先を見据えて準備していれば、その後の幕末の動乱も、また違ったものになっていた可能性もあるわけで、歴史のめぐりあわせについて、考えずにはいられないのです。


武士の人事 (角川新書)

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