琥珀色の戯言

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【読書感想】世界「失敗」製品図鑑 「攻めた失敗」20例でわかる成功への近道 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

■すごい会社も派手に「失敗」していた!
アップル、グーグル、アマゾン、任天堂ソニートヨタ、etc……グローバル企業20社の「失敗」事例をイラストと共に徹底解説。ベストセラー『世界「倒産」図鑑』の著者が贈る、トップ企業の「失敗」をあなたの「成功」に変えるケーススタディ集。


 「私、失敗しないので」が決め台詞の人気ドラマがありますが、現実には「絶対失敗しない人」はいないんですよね。もしいるとすれば「何もしなかった人」だけでしょう。
 アップルも経営危機に陥ったし、任天堂にも『バーチャルボーイ』や『WiiU』といった、「うまくいかなかった製品」が少なからずあります。ファミコンディスクシステムのように、「カセットよりも大容量!」「パスワードを書き写さなくてもセーブができる!」と大々的にアピールしていたら、カセットの容量があっという間に追いついてしまい、セーブ機能も付けられるようになったものもありました。500円で書き換えができる、という魅力はありましたが、ゲームメーカーにとっては、利幅が少ないというデメリットもあったのでしょう。
 ロード時間もカセット慣れしていたら気になってしまうもので、『ゼルダの伝説』で、敵に迷宮の入り口に吹き飛ばされてしまったときには、けっこう苛立った記憶があります。

 画期的な製品でも、あっという間に技術が追いついてきたり、安くするために機能を省いたら、ユーザーにとっては「それじゃあまりにもチープすぎる」とそっぽを向かれたり。

 この本で紹介されている「失敗製品」、特に電気製品やコンピュータ好きにとっては、「こんなのあったよなあ!」と言いたくなるものばかりです。
 GoogleSNSサービス「グーグルプラス」やマイクロソフトの「ウインドウズフォン」なんて、あんな大きな、先進的な企業が鳴り物入りで始めたサービスや製品だったのに。

 マイクロソフトがウインドウズフォン7という新たなモバイル用のOSを搭載した機種を発表したのは、2010年10月でした。
 当時は、あの「パソコン用OS(オペレーティングシステム)の巨人」がスマートフォンに参入したことで、勢力図が大きく変わるかもしれない、と思われていたのです。
 最初のうちは、ですが。
 アップルのiPhoneが発売されたのが2007年6月ですから、わずか3年あまりの遅れでしかありません。しかしながら、あまりにも大きな3年間でもあったようです。
 マイクロソフトは、大手端末メーカーのノキアと提携し、スマートフォンでの勢力拡大を目指したのですが、結果的にはうまくいきませんでした。

 2015年11月、マイクロソフトは起死回生の勝負に出ます。マイクロソフトの最大の資産であるパソコンユーザーを狙い、パソコンのOSであるウインドウズ10をそのままスマートフォン向けにアップデートした「ウインドウズ10モバイル」というOSを作るのです。標準でワード、エクセル、パワーポイントなどのアプリをパッケージした純正のオフィスモバイルを付属し、ファイル閲覧のみならず編集もできるようにしました。そして、大画面に出力してマウスとキーボードを用いてデスクトップパソコンのように使える「コンティニュアム」という機能を取り入れ、パソコンを持ち出さずにどこででもスマートフォンで仕事ができる、ということを売りにしたのです。ビジネスシーンでウインドウズパソコンを使っているユーザーにとっては、最低限のストレスで仕事ができるスマートフォン……になるはずでした。
 しかし、パソコンとスマートフォンをつなげていこうというマイクロソフトの戦略に対して、アプリ開発者はついていきませんでした。開発したアプリがパソコンとスマートフォンで活用できれば、1つのアプリを双方に提供できるのでメリットは大きいはず。しかし、開発者たちの考えは違いました。スマートフォンにとっての最適なインターフェイスがパソコンにとって最適であるとは限りません。画面の大きさも異なれば、操作性も大きく異なります。結局、パソコン・スマートフォン双方で動く「ユニバーサルアプリ」の構想は、どっちつかずの中途半端な代物と見なされたのです。結果的に、開発サイドにとって、ウインドウズ10モバイルはユーザーが限定的となり、魅力的な場にはなりませんでした。


(中略)


 アプリがあまりないスマートフォンとなってしまった新しいウインドウズベースの端末シェアは当然のことながら伸び悩みます。2016年時点において欧州主要国で2.8%、アメリカで0.8%、日本で0.4%だったものが、2017年にはさらに悪化し、欧州で0.7%、アメリカで0.5%、日本では0%にまで落ち込みました。
 そして、2019年2月、マイクロソフトは、ウインドウズ10モバイルのサポートを2019年12月10日で終了すると発表しました。ウインドウズ端末の利用者に対して、iOS、もしくはアンドロイド端末への乗り換えを推奨することで、事実上の集結宣言を行ったのです。


 先行し、多くのシェアを握っているライバルがいるところに新規参入するというのは、難しいことではありますよね。みんな、よほどの理由がなければ、使い慣れたスマートフォンのOSを変更するのはめんどくさい、と思うでしょうし。

 マイクロソフトだけではなく、多くの(パソコンの)インターネットで成功した企業が、そのサービスをパソコンに近い形でスマートフォンに移植し、失敗しているのです。
 僕のような、40年前からパソコンを使っている人間は「パソコンと同じことをスマートフォンでやる」ことに価値を感じるのですが、物心ついた時からスマートフォンに慣れている世代にとっては、「スマホファースト」つまり、スマートフォンで使いやすいことが最優先なのです。今の若者には、パソコンの使い方がわからない、ほとんど触ったことがない、という人も大勢います。
 モバイルネイティブ世代は、文書の作成どころか、動画編集とかまで、スマホでやってしまうのです。
 僕のような旧世代のパソコンオヤジは「スマホの小さな画面やタッチパネルで仕事なんてできないよ」と考えてしまうのですが、それはもう、「パソコンに慣れてしまっていた旧世代の都合」なのです。

 マイクロソフトも、OSやオフィスがパソコンで圧倒的なシェアを握っていたという「成功体験」があったからこそ、「スマートフォンでの使いやすさ」よりも「パソコンと同じ」ことを指向してしまったのでしょう。

 もし、iPhoneと全く同じタイミングでスタートしていれば、違った結果になったのかもしれませんが……


 この本を読んでいて感じるのは、「失敗しない人間も企業もいない」し、「その失敗を活かすことができるかどうかで、『その後」が決まる」ということなんですよ。

 1961年6月、トヨタ自動車工業(当時)から「パブリカ」という新車が発売されました。その価格は38万9000円という当時にして破格の安値。まだ自動車が高級品だった時代において、機能性と経済性を両立させた「大衆車」となり得る一台として、この新商品には大いに注目が集まりました。


 ちなみに、1950年代の大卒初任給が平均1万5700円という時代に、1955年に発売されたトヨタのクラウンは98万円、1957年のコロナは60万円代だったそうです。
 そこで、当時の通産省の肝入りで、「大衆車」の開発がすすめられ、さまざまなコストダウンの試みの末に「月産3000台を達成すれば黒字になる」という設定で生まれたのが、トヨタの「パブリカ」だったのです。

 このように期待を背負って発売されたパブリカですが、早々に壁にぶつかります。販売台数は好調な月でも2000台程度。目標としていた月販1万台には遠く及ばず、原価の基準となる3000台にすら届かない数字でした。
 その理由は、低コストを実現するために、外装にはメッキ部品を使わず、内装ではヒーターやラジオはもちろんのこと、燃料計やサイドミラーさえ標準装備から外した質素すぎる内外装にありました。日本は当時高度経済成長期の真っただ中。1959年には次回オリンピックを東京で開催することが決定され、1960年には池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出したタイミングです。まさにその時代の変わり目のタイミングで、マイカーという新たな贅沢品に夢を見出した大衆が抱く期待と、質素なパブリカのイメージにはミスマッチが生じていたのです。実際に顧客フロントにいた販売店からも、「豪華な感じがしない車では客の心は掴めない」と苦情が集まっていました。
 開発主査を務めた長谷川(龍雄)氏は「開発を始めた当時と売り出した時とでは、社会環境はがらりと変わり、時代の要求とズレてしまった」と語ります。開発を始めた1955年から発売した1961年というたった6年の間に、消費者ニーズはこうも大きく変わってしまったのでした。


 高いお金を払って車を買うのだったら、いくら(他の車と比較して)安いといっても、あまりにも質素というか、安っぽさが目立つようなものは買いたくない、というのはわかります。
 不景気で先の見通しが立たず、とにかく乗れて動けばいいや、という時代なら、パブリカもそれなりに売れたのかもしれませんが、右肩上がりの経済成長の時代だと、「ちょっと高い買い物をしても、給料も上がっていくだろうし、なんとかなるだろう」と将来を楽観していた人も多かったのです。
 20年くらい給料も物価もほとんど上がらず、少子化の時代を長く生きてきた2022年の日本人にとっては、もはや、同じ国の話とは思えないのですけど。


 高度経済成長の高揚感に包まれていた時代の日本人にはそっぽを向かれた『パブリカ』なのですが、この「失敗作」の物語には、続きがあるのです。

 そして、発売からわずか1年後の1962年には、長谷川氏の頭は、早々にパブリカから離れ、より1つ上のグレードで大衆車の座を勝ち取る開発構想が生まれていました。その新たな構想の提案書は、社内では「パブリカを出したばかりで、時期尚早」と一蹴されますが、当時別会社だったトヨタ自動車販売会社社長で「販売の神様」と呼ばれる神谷正太郎氏を巻き込むことで、社内決裁を通すことに成功します。開発番号は「179A」と決まり、開発は1963年からスタートしました。この179Aは、パブリカの反省を生かして、多少価格を上げてでもユーザーが求めるものを標準装備と定めます。また、排気量は高速道路でも余裕のある走行が可能な1100㏄と大型化させるとともに、日本で初めて変速機をフロア・レバーにし、変速ワイパーやガソリン警告ランプも取り入れました。そして1966年に発売されたこの179Aこそが、やがてトヨタを代表する車となり、販売台数世界一の車種となる「カローラ」です。


 「日本のロケットの父」と呼ばれる、糸川英夫さんは、「うまくいかなかったことは『失敗』ではなくて、『成果』なんだ」と常に仰っていたそうです。
 有能な開発者でも、大きな失敗をすることはある。本当の勝負は、失敗から学び、次に活かすことができるかどうか、なのです。
 『パブリカ』は、それだけでみれば「失敗製品」だったけれど、それを教訓にして生まれた『カローラ』のトヨタや「自家用車」への功績を思えば、「大きな成功を生む土壌」になりました。
 誰でも、失敗することはある。
 大事なのは、そこから何を学び、次に活かしていくか、なんですよね。
 「絶対に失敗しない人」なんで、テレビドラマの中にしか、いないのだから。


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