琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

【読書感想】批評の教室 ――チョウのように読み、ハチのように書く ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

批評はなによりも、作品を楽しむためにあります。本書では、批評を「精読する」「分析する」「書く」の3つのステップに分けて、そのやり方を解説していきます。チョウのように軽いフットワークで作品を理解し、ハチのように鋭い視点で読み解く方法を身につけましょう。必要なのは、センスではなく調査力と注意深さ。そしていくつかのコツを飲み込めば、誰でも楽しく批評ができます。作品をより深く理解し、たくさんの人とシェアするための、批評の教室へようこそ。


 僕はけっこう長い間、インターネットに読んだ本、観た映画の感想を書き続けているのです。

 自分が書いているものは「書評」なのか?

 自信が持てないので、ずっと「感想」だと言い続けているのですけどね。

 その一方で、せっかくインターネットという「誰でも自由に書けるメディア」があるのだから、立派な「批評」ではなくても、もっと気軽に多くの人が「自分の感想」を書いて良いのではないか、とも思うのです。

 ただ、「批評」というものには本当に難しいというか、多彩な考え方があって。
「テキスト(となる本や感想)をどう読み、解釈しようとも、それが受け手の率直な意見であるかぎり、自由なのだ」
 そう考える人もいれば、
「やはり、ある程度対象となるテキストへの予備知識を持っているべきだし、『まっとうな解釈の範疇』というのはある」
 と主張する人もいるのです。

 ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。
      (谷川流涼宮ハルヒの憂鬱』11ページ)


 涼宮ハルヒの子の発言はなかなか的を射たものです。実のところハルヒ同様、ほとんどの人はただの人間には興味がないので、あなたが宇宙人、未来人、異世界人、超能力者とかでないのであれば、書いた批評を他人に読んでもらうのは大変です。たまに「感動した」とか「これが良かった」みたいな一言だけで作品がバカ売れするようなインフルエンサーがいますが、これはその人自身が宇宙人レベルで特別かつ有名な人と見なされているからそうなるのです。テスラ社のトップであるイーロン・マスクTwitterでつぶやくだけで株価が上下するそうですが、そんなマスクは宇宙人ではないかという冗談があり、本人もこのふざけた噂が気に入っているようです。宇宙人だという噂を立てられるくらいの著名人でないと、単純な一言二言だけで人を動かすことはできません。
 あなたが自分の作品を紹介する時に「感動した」とか「面白かった」とか「考えさせられた」みたいなぼんやりしたことを言ったとして、あなたを知らない人はその作品に手を出してくれるでしょうか? たぶん手を出してくれないと思います。あなたをよく知っていて信用している友達であれば、一言「感動した」と言って薦めれば見てくれるかもしれませんが、世の中の人間のほとんどはなあなたの友達ではありません。さらに、友達であってもその程度の一言二言では興味を持ってくれないかもしれません。娯楽が多い21世紀に、自分が見て欲しい作品に人の注意を惹きつけるのは大変です。批評を読んでもらうため、薦めたい作品に興味を持ってもらうために大事なのは、「感動した」とか「面白かった」みたいな意味のない言葉をできるだけ減らして、対象とする作品がどういうもので、どういう見所があるのかを明確に伝えることです。

 
 「本や映画の感想」っていうのは、ネットで比較的書きやすい、続けやすい一方で、なかなか大勢の人に読んでもらうのは難しいコンテンツだよなあ、と僕も悩み続けてきたのです。


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 この本などは「うずくまって泣きました」のオビの言葉だけでけっこう売れた印象があるのですが、読んでみると、「この本のどこで『うずくまって泣ける』んだ……何か悪いものでも食べたのか?」という小説だったんですよね。

 『世界の中心で、愛をさけぶ』は大ベストセラーになったのですが、柴咲コウさんの「泣きながら一気に読みました」というコメントが売れる大きなきっかけになったことが知られています。

 ミヒャエル・エンデの『モモ』は、小泉今日子さんが「愛読書」として紹介したことであらためて売れました。
 
 本や映画の感想を書く立場として思うのは、結局、ほとんどの人は「何が書いてあるか」よりも、「誰の感想なのか」を重視しているのではないか、ということなんですよ。


 とはいえ、アカデミックな「批評」には、最低限のルールというか「押さえておくべきポイント」みたいなものがあるのです。
 いや、アカデミックなものに限らず、ネットでのさまざまな書評、映画評をみていると、長年続いていて、ある程度の固定読者を得ているものには、それなりの知識の積み重ねを感じるものが多いのです。
 なかには「ネタバレでもなんでもやって、PV(ページビュー)さえ稼げれば、それが良いエントリ」だと考えている人もいて、それはそれで、時代のニーズなのかもしれませんけど。


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 著者は「精読とは?」という項で、こう述べています。

 批評をするからには、対象をしっかり読む必要があります。しっかり読むというのは、ものすごく細かいところまで中央するということです。我々は登場人物の一挙手一投足はもちろん、小説の地の文に出てくるちょっとした描写とか、映画の色の設計とか、舞台芸術の小道具とか、いろいろなところまで気を配って、作品が隠しているものを暴く必要があります。普段の暮らしよりもはるかに注意深く対象を見つめなければいけません。


(中略)


 なぜ虚構の世界ではこうしたストーキングが許され、評価されるかというと、芸術作品というのは現実の世界とは異なり、あらかじめ受け手によって探索され、理解されるためのものとして作られているからです。悲しいことに、現実世界は私たちに理解されるためのものとして作られているわけではなく、私たちは自分の人生すらまともに読めません。私たちが現実の人生で出会う人たちは私たち同様、何が何だかよくわからない世界の中で右往左往している生身の人間なので、他人が都合よく理解できるように作られているわけではないのです。相手の意思に反して他人の考えを探るのはプライバシー侵害になります。
 一方、作品の登場人物は現実の人間とは違い、受け手の探索を通して理解されるための存在として提示されます。たとえ登場人物が作中で何かを隠したがっているとしても、作品は我々受け手がその秘密を暴くことを望んでいます。このため、作品世界で提示されるものには全て必然性があり、偶然出てきているものなどはなく、何らかの意味合いがあってそこにあるのだ、と考えなければなりません。登場人物が息をするなら何か意味があるし、動くなら何か意味があるはずなのです。現実の世界では、私たちは自分や周囲の人々を守るため、けっこうぼんやり生きてます。虚構の背系と向き合うにあたっては、受け手は注意力を研ぎ澄まさなければなりません。
 こういう、対象をものすごくじっくり細かいところにまで気を配って読むやり方を「精読」(クロース・リーディング)と呼び、あらゆる批評の基本とされています。便宜的に「読む」という言葉を使っていますが、映画とか舞台芸術でも変わりはありません。精読をストーキングにたとえるのは穏やかではないかもしれませんが、とりあえずそのレベルの注意力が必要なのだということは理解してください。現実世界で私たちが維持している儀礼的無関心はかなぐり捨てて、ゴミ箱をひっくり返す覚悟でいきましょう。


 「フィクション」というのは「嘘」「現実ではない世界」なのですが、作られたものだからこそ、そこに存在しているものには、作り手の意思や意図が反映されているのです。
 アニメで何気なく描かれているような背景や会話にも、それぞれ「意味」があるのです。

 でも、観客の多くは、その意図を見抜くことは難しいので、「『シン・エヴァンゲリオン』の解説エントリや解説動画」が人気になるわけです。
 ああいう「解説」ができるのは、まさに「精読」しているから、なのでしょう。
 町山智浩さんの映画の本を読んでいると、僕が気付かなかった情報がこんなに作品に込められていたのか、と驚かされるのです。
 キリスト教などの宗教的な知識がないとわからないセリフや演出もあるし、知識として持っていても、信仰している人が受けるイメージと同じ、というわけにはいきませんよね。

 この本を読むと、アカデミックな世界での「批評の潮流」とか「他人に伝えるための批評を書くための最低限のふるまい」がわかります。まあ、「ちゃんとした批評だから、ネットでたくさん読まれる」っていうわけでもないんですけどね。それこそ、柴咲コウさんや小泉今日子さんオススメにはかなわない。

 良い批評探偵になるには、まず虫眼鏡のかわりに辞書を用意しましょう。小説でも戯曲でも映画でもよいので作品をひとつ選びます。読んでいる本や映画の台詞、字幕などに知らない単語があったらその都度、辞書を引きましょう。これは初歩的なことですが、実はとても重要で、実はよくわかっていない言葉があるのに気がつかないうちに読み飛ばしてしまっていることがあります。私が東大生だった時、ゲーテの『庶出の娘』という作品が一部でとりあげられている文章について発表したクラスメイトが、先生に「ところで『庶出』って何ですか?」と聞かれて答えられず、もっと辞書を引きながら読むようにと指導されているのを見たことがあります。作品タイトルや地名みたいなものまで、出てくる言葉の意味が全部わかっている、というのは読む上で最も基本的で、最も重要なことです(ものすごく古い文献になると、単語の正確な意味すらわからなくなってくるので読解が大変になります)。辞書と友達のように身近に置いておきましょう。友達よりも頼れます。


 それこそ、今は「手元のスマートフォンで検索できる」時代なのですが、僕自身も、テンポが悪くなる気がして、「文脈でなんとなくわかったつもり」になって、言葉の意味をきちんと調べることはほとんどないのです。
 まあ、「楽しむための読書」だと割り切っているのなら、「精読」しなくても良いのでしょうけど。
 東大生でも「庶出」って、知らないものなのか。そして、先生も、「それを知らない学生がいる」と認識しているのだなあ。

 ネットで「書評(本の感想も含む)」を書いてみたい、という人は、読んでみて損はしないと思います。
 これだけ、先人が「批評」について積み重ねた経験があるのだから、その「肩の上に乗る」方法を知らないのはもったいない。



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