Kindle版もあります。
「派遣で死者を弔う仕事」
喪主に聞かせられない
業界の恥部と、僧侶のフトコロ事情
――葬式しなくちゃいけませんか?私は東北地方某県に存する東法院の住職だ。東法院は今から250年ほど前、江戸時代中期に創建された寺院で、先代住職から代替わりしてすでに20年以上が経ち、私は還暦をすぎた。
このように自己紹介をすれば、たいそうな宗教家のように思う人がいるかもしれないが、現在の私は〝派遣僧侶〟としてどうにか暮らしを立てている。
派遣の依頼を受け、現地に赴き、布施を受け取り、導師を務め、経をあげる。後日、受け取った布施の中から、依頼元の派遣会社に手数料を振り込む。
これが私の日常であり、本書は〝派遣僧侶〟という一般の方には耳慣れないであろう職業に就いている私の体験を赤裸々につづったものである。
本書では、派遣僧侶業界にとどまらず、仏教界や宗門の内情にも触れながら、奇妙でおかしなこの世界の全貌を明らかにしたい。
「坊主丸儲け」なんていう言葉が昔からありますし、新興宗教の「集金術」が統一教会関連であらためて話題になり、「宗教は儲かる」というイメージが僕にもずっとあったのです。
観光客が押し寄せる京都の有名なお寺などは入場料(拝観料)だけでもかなりのものになりそうです。
「お寺」ではないですが、(家から比較的近くて、九州国立博物館が近くにある)太宰府天満宮のようなメジャーどころは、お金には困らないだろうな、とも思います。子どもの七五三のお参りで祈祷してもらったときには(七五三御祈祷プラン、みたいなのがあるんです)、同じ目的の人たちが境内に大勢いて賑わっていましたし。
その一方で、地方で見かける小さな古いお寺は、どうやって収入を得ているのか、疑問でもありました。
葬儀の際のお布施や檀家からのお布施、寺院によっては霊園や納骨堂の経営などで、それなりに稼げているのだろうか?
思い返してみると、僕が子どもだった40年くらい前には、実家はお寺で僧籍も持っているけれど、ふだんは学校の先生をしている人がけっこういました。
当時からすでに「専業」でやっていくのは、とくに地方の中小寺院では難しかったのかもしれません。
僕の両親が亡くなった際に、葬儀で読経してくれた方も、それまでは面識がありませんでした。
現代人、というか、いま50過ぎの僕でさえ、自分がどのお寺の檀家であるか、なんて考えたこともありませんし、住職との日常的な付き合いもないのです。
最近は、かなりの有名人が亡くなったときでも、家族だけで葬儀を行い、後日お別れの会、というのがかなりありますよね。
お昼のワイドショーで報じられる「有名人の告別式の様子」や「縁が深かった人の弔辞」も、あまり見かけなくなりました。
僕自身も、自分が死んだら、立派な葬式なんてしなくていいから、その費用でおいしいものでも食べて、と言っています。
死ねば炭素のかたまり。
……とか言いつつ、身内の葬儀は、やはり「それなりの儀礼を尽くして」きました。
葬儀社の「料金表」みたいなものをみると、「世の中金かよ!」とか「霊柩車の装飾でこんなに料金が違うのって、なんかおかしいよなあ、でも、いちばん下のランクだと、故人を軽んじているようにみえるかな……」とか、考えてしまうんですよね。
人は、自分の葬式を自分では仕切れない。
だからこそ、「いちばん安いので」とも言いづらい。
とはいえ、最近は少子高齢化や世の中の経済状況、宗教観の変化などもあり、「直葬」という、通夜や告別式を省き、火葬のみを行う葬儀形式が選ばれることも増えています。
それでも、費用は数十万円くらいはかかるそうなので、「ただでは死ねない」世の中ではありますね。いまの日本では、特殊な事情がないかぎり、火葬されることになっていますし。
派遣の依頼を受け、現地に赴き、布施を受け取り、導師を務め、経をあげる。後日、受け取った布施の中から、依頼元の派遣会社に手数料を振り込む。
これが私の日常であり、本書は”派遣僧侶”という一般の方には耳慣れないであろう職業に就いている私の体験を赤裸々につづったものである。
日本にある仏教寺院の数は7万5000を超える。全国にあるコンビニの店舗数が約5万5000店といわれているから、それよりずいぶん多いことになる。
また、『宗教年鑑』によれば、仏教系の教師(仏教界における僧侶)は30万人とされる。沖縄県那覇市や愛知県春日井市の人口が約30万人とされ、日本全国にそれと同規模のお坊さんがいるということになる。
「みんなのお葬式」からは翌月の頭に、荒川区のアパート、いや「東法院東京教会」宛に請求書が送られてくる。同社は月末締めの翌月指定日払いだ。
請求書には「×月×日 永沢家葬儀 手数料7万1000円」と記されている。これは葬儀案件を回してくれた「みんなのお葬式」に支払う紹介手数料だ。
じつはこの手数料はだんだん値上がりしている。2010年代初めまでは3割程度が平均だったが、2015年あたりから4割、2020年ごろに5割となった。その後、コロナ禍があって6割の業者が多くなり、最近では75%をとる業者もあるようだ。「みんなのお葬式」の手数料も約6割である。
私は先日のお布施12万円の中から、この手数料分を「みんなのお葬式」宛に銀行振り込みしなければならない。つまり、先日の葬儀における導師を務めた私の手取りは4万9000円ということになる。
振り込みを済ませ、ようやく派遣僧侶としてすべての仕事が完結する。
手数料6割、実際に現場で働いた本人が半分も貰えないのか……
とはいえ、地方の檀家が少ないお寺の僧侶が葬儀の仕事を得るには、派遣会社頼みにならざるをえないのです。
「品質が高いお経を読みます!」とか大々的に宣伝をするわけにはいかないし、人が亡くならないと葬式の需要もない。
高齢化、人口減少に加え、信仰を持つ人の割合も減ってきて、「商圏」もどんどん小さくなっています。
この本、お寺とは縁がない家に生まれ、サラリーマンだった著者が、縁があって地元のお寺を継ぐこととなった経緯と、そのお寺の経営状態や日常の生活が率直に書かれています。
いま、お葬式で読経してくれるお坊さんは、こういう人たちが多いのか……と思いつつ読みました。
故人と縁があったわけでもない、運転免許の合宿の厳しいやつみたいなので僧籍を得たお坊さんが「派遣」でやってきて、信仰心なんて持ったことがない家族が、「弔い」のために、「葬式坊主」たちを形式的に敬う。
おかしいといえばおかしいのだけれど、お葬式には厳粛な雰囲気があるし、故人と自分の「人生」を短い時間でも考える機会であるのも事実です。
この本のサブタイトルは「檀家壊滅! 還暦すぎて派遣で葬儀に出かけます」となっています。
そんな年齢になっても、食べていくためにはそこまでやらないとダメなのか……と暗澹たる気持ちになりつつ読んでいたのですが、読み進めていくと、こんな話も出てきました。
朝6時、目覚ましより先に体が動く・昨日の法要の疲れが抜けきらないまま、スマホで配達アプリのスケジュールを確認する。朝イチから夕方まで配送の予定が詰まっている。天気予報によると終日晴れで、最高気温は35℃らしい。6時半に家を出て、コンビニで買ったおにぎりを車中で頬張りながら、配送センターへ向かう。
センターに着くとすでに十数台の軽バンが並んでいる。常連ドライバーのあいさつは短い。
「今日も詰まってますか?」「まあまあですね。なんとかやりましょ」
台車を押して仕分け場へ行き、伝票番号と住所を確認しながら、自分のエリア分の荷物を積み込むと、息つく暇もなく7時半には出発だ。
「葬式坊主日記」が、急に「宅配ドライバー日記」に舞台転換され、驚いた読者がいるかもしれないが、これもまたまぎれもなく私の大切な仕事である。
というのも、派遣僧侶の仕事だけで生活していくことのできない私はダブルワークとして、月に5~8日程度、軽貨物配送の仕事を請け負っている。
午前中、住宅街のマンションを中心に配達。インターホンを押しても出ない家が続くとため息が出る。マンションを終えると、住宅街の細い路地へと入り、1つずつ荷物を届けていく。
昼をすぎると突き刺すような陽射しが強さを増す。助手席に置いたペットボトルはすでにぬるくなっている。コンビニ駐車場で十数分だけ昼食を兼ねた休憩をとってから午後の配達をスタート。ビル街の裏口にクルマを停め、受付に荷物を届けてサインをもらう。
東京でこの仕事を始めてもう15年以上経つ。
地方とはいえ、自分のお寺がある「住職」なのに、僧侶としての仕事だけでは、派遣で葬式を請け負っても食べていけず、還暦を過ぎても、東京で配送の仕事をせざるをえないのか……
15年以上、ということは、中小のお寺の住職では食べていけない、というのは、最近の話ではないようです。
何もせずにお寺でじっとしているよりは、少しは稼がないと、ということでもあるのでしょうけど、住職に限らず、年金だけでは暮らしていけないというのが、いまの高齢者の現実なのです。
高齢者は優遇されて、「逃げ切れる」から羨ましい、もっと若者や子育て世代にお金を使うべきだ、という意見は多いけれど、高齢者も、けっして左団扇で趣味三昧の楽しい老後を送れる人ばかりではない。というか、それができるのは、ごく一部の人だけです。
病院で働いていると、「こんな年齢、身体の状態でも、まだ働いているのか……」と、驚くことも少なからずあります。
いまの60代くらいだと、まだ身体もしっかり動く人が多いし、働くことに「生きがい」を感じている人が多いのも事実だけれど、悠々自適の老後、なんていうのは、もはや幻想でしかない。あるいは、高齢者を「仮想敵」にして若い世代の支持を集めようとしている人たちの「印象操作」でしかない。
ただ、これから、高齢者の置かれる状況は、もっと厳しくなっていくことは間違いないでしょう。
寺(宗教法人)には資産台帳があり、そこに土地・本堂・庫裡(居住棟)といった不動産、および本尊、仏具、什器などと、現預金(通帳)が記載されている。それはすっかり新住職である私に引き継がれた。
住職になって初めて東法院の資産状況をこの目で把握したわけだが、通帳の現金は20万円ほどで、それ以外に財産と呼べるようなものはほとんどなかった。全国に7万5000ある寺院のうち、経済的に自立しているのは2~3割といわれる。それ以外は何らかの仕事をしながら、兼業で寺院を経営しているというわけで、東法院もまた例外ではなかった。経済的に楽ではない寺の住職を引き受けるのはリスクしかないことを体感した。
脚注で、「20万円」というのは寺の名義の預金で、住職の個人財産と寺の資産が曖昧になっていた(おそらく、住職名義での通帳からも寺の運営費用や収入が出し入れされていた)と思われる、と書かれていますが、それにしてもかなり財政的に厳しい状況で、「わが東法院の檀家はもはや十数件」という話も出てきます。
地方の中小寺院の住職になるというのは、田舎の「空き家問題」みたいなもので、少なくとも金銭的には、負の資産を引き受けることにしかならない。
そして、寺院というのは、「儲からないから、もうイヤになったからやめる!」と、そう簡単にリセットできるものではない。
需要と供給のミスマッチが顕著な業界だから、淘汰されてしかるべき、だとコンサル的には言えるのでしょうけど、お墓や納骨堂の管理はどうするのか? 残っている檀家に対する責任は? などの問題が生じてきます。
著者は、そんななかでも「葬儀に導師(僧侶)が立ち会う意義」を考え続けていて、けっして「金のためだけに僧籍に入った人」ではないのです。
でも、「寺院を維持するにはお金が必要だし、自分も食べていかなくてはならない」。
社会全体の流れを考えると、葬儀はさらに簡素化され、僧侶も寺院も減っていくのだと思います。
とはいえ、すぐに葬式も僧侶もお寺も「ゼロ」にはならないでしょう。
「衰退産業」だとは認識していたけれど、ここまで経済的に厳しい状況なのか、と驚かされました。
「稼いでいるごく一部の大寺院は、資産形成に余念がない」というエピソードも出てきたんですけどね。










