琥珀色の戯言

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【読書感想】日本の歴史的建造物-社寺・城郭・近代建築の保存と活用 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

法隆寺や姫路城はじめ、日本には世界遺産に指定された歴史的建造物が多い。だが、役割を終えた古い建物でしかなかったそれらに価値や魅力が「発見」されたのは、実は近代以降のことである。保存や復元、再現にあたって問題となるのは、その建造物の「正しい」あり方である。歴史上何度も改築された法隆寺、コンクリート造りの名古屋城天守閣、東京駅、首里城……。明治時代から現代に至る美の発見のプロセスをたどる。


 法隆寺や姫路城は、僕が生まれた時点ではすでに「価値が認められた歴史的建造物」であり、それが当たり前のことだと思い込んでいました。
 しかしながら、建物にはそれぞれつくられた年代と役割があり、日本で「歴史的建造物の価値」が広く認識されるようになったのは、そんなに昔の話ではないのです。
 

 高度経済成長期には、各地の古い町並みや農村の風景は危機的な状況となり、多くが失われた。まるでロンドンのようだと評された東京丸の内界隈の赤煉瓦の建築群は、1970年頃までに完全に姿を消し、世界的建築家のフランク・ロイド・ライトが設計した有楽町の旧帝国ホテルも取り壊された。赤煉瓦の東京駅舎の取り壊しが検討されたのは1987年の出来事で、さほど昔のことではない。それ以前、戦中・戦後にも数多くの歴史的建造物が失われていて、さらに明治初期まで遡ると、寺院や城郭の多くが破壊の危機に晒されていた。現在、世界遺産となっている奈良の興福寺や姫路城も、まかり間違えば取り壊されていたのである。
 現在でも歴史的建造物の破壊は続いている。しかし、破壊ではなく保存の道を選択するケースはかつてよりも格段に多くなっている。その理由は単純で、守るべき価値と魅力が発見され、それを多数の人が認めたからである。逆に言えば、そうした価値と魅力が認知されなければ、老朽化した歴史的建造物を取り壊していくのはある意味当然の出来事である。高度経済成長期に多くの民家や明治大正期の建築が失われたのも自然の流れであった。
 歴史的建造物の価値や魅力は、不変で絶対的なものではない。具体的にどのような建造物に価値を見出し、何を保存しようとするかの判断は常に変化している。かつてはありふれものとみなされていた街角の建造物に、ある日スポットライトが当たる、こうした現象こそ価値と魅力の発見であり、その積み重ねが現在の状況を創り出したものである。


 著者は、明治時代初期の1868年の神仏分離令によって、多くの寺院が急速に衰えて打ち捨てられ、その後、神社も統合がはかられた際に取り壊されていったことを紹介しています。
 城郭も、明治維新の際には、「皇室に逆らった武士たちの象徴」のようなイメージを持たれ、破壊されたものが多かったのです。
 歴史的な遺物、とはいうけれど、人々の思想や宗教的な変化によって、建物の運命は翻弄されてきました。

 2001年、イスラム原理主義組織タリバンによって、アフガニスタンバーミヤン渓谷にある、2つの大仏像が破壊されたニュースをみて、「なんて『野蛮』な……人類にとっての歴史的遺産を壊すなんて……」と思ったのですが、タリバンの信仰にとっては、大仏は「受け入れがたいもの」ではあったのでしょう。
 
 日本には、太平洋戦争の空襲で失われた歴史的な建造物もたくさんあります。

 歴史的な建造物が「保存」「修繕」されるのは、それに「価値」があると認識されているからで、どこまでを遺す対象にするのか、というのも難しい問題です。
 古い建物をすべて保存する、というのでは、現代人の生活は成り立ちません。
 古い建物には、現在の基準でつくられた災害等に対する基準を満たしていないものも多いですし。

 日本は世界のなかでも、古い木造建造物が多く遺っている国で、つくられてから1000年以上経ったものもあるのです。
 その理由として、著者は「定期的な修理が行われてきた」ことを挙げています。

 この「修理」というのが、歴史的建造物の保存においては、大きな問題となっているのです。
 たとえば、同じ場所に建っている家でも、戦後すぐに建てたものを今のライフスタイルに合うようにリフォームしたら、「新築ではないけれど、昔の家と同じとは言えない」ですよね。
 建造物を維持していくためには、「ただそのままにしておく」だけではどんどん傷んできますし、災害時には危険も生じてきます。

 「どこまでが『修理』として許されるのか?」については、ずっと議論が続いているのです。

 (1897年に制定された)古社寺保存法は、特別保護建造物の維持と公開を求めた上で、修理については「地方長官」が「指揮監督」すると定めている(第三条)。つまり、所有者の恣意的な判断に基づく修理を否定して、内務省の指揮下にあった府県が主体となるシステムを導入している。これは法制定の時点で修理の重要性を想定していたからであろう。
 この仕組みの下で、奈良・京都を皮切りに特別保護建造物の修理が始まるが、そこで実際の修理を指揮したのは、近代建築学を学んだうえで府県の技師として派遣された建築家で、彼らが修理の際に導入した理念こそ、建設当時の姿に戻す「復元」であった。
 復元(復原)の本来の語義は、暦が一巡して元の状態に戻ることを指し、転じて最初の状態に戻ることを意味するようになったものである。復元に類似する発想は、第一章で述べた京都御所の再建のようにすでに江戸時代に萌芽していたが、明治の建築家が歴史的建造物の修理にあたって復元を行ったのは、西洋で発達した近代建築学の影響によるものである。
 近代建築の父と称されるフランスのヴィオレ・ル・デュク(1814~79)は、西洋中世の教会堂で採用されたゴシック建築を構造面から解析し、その形態を合理的に解釈した人物で、それまで哲学的・美学的だった様式の議論に構造合理主義を持ち込んで理論体系を打ち立てた。そのためヴィオレ・ル・デュクは、構造的に最も合理的な姿をもって理想とし、その理想像を純粋な様式として仮想して、実在する歴史的建造物を評価すると同時に、新築の設計にも応用した。さらに、修理にあたってもこの理想とする様式観をあてはめ、失われた部分や改変された部分を大幅に創作して復元を行った。
 こうした立場から、ヴィオレ・ル・デュクはパリのノートルダム大聖堂の1857年の修理に際して、失われていた尖塔を14世紀に仮託して創作的に復元している。2019年に焼失した尖塔はこのときに創られたものである。また1860年から実施されたピエールフォン城の修理では、廃墟化し失われていた上方部分を創作的に復元した。
 ビオレ・ル・デュクの復元は同時代人から批判を受けている。その批判の根拠はさまざまであったが、根拠が薄弱な創作を復元の名の下に行ったことへの批判は強烈なものとなった。しかし、歴史的な様式を応用して新築設計を行う19世紀の様式主義的な建築観とヴィオレ・ル・デュクが行った復元行為との間に矛盾はなく、明治の建築家にとっても自然な発想となっていたのである。


rocketnews24.com


 この「スペインで80代女性が勝手に『修復』したキリスト画」は、けっこう話題になりましたよね。
 僕も「なんでこんなことを……」と思ったのですが、「以前の状況を精査し、なるべく元通りにするのが修復」だということになったのは、そんなに古い話ではないのです。
 「わからないところは、想像で埋めたり、今の時代のベストで補う」というのが「復元」だとされていた時代もあったのです。
 正確に「復元」しようにも、当時と同じ材料がなかったり、設計図も失われていたり、1000年以上前につくられた建物となれば、できた当時のことを知っている人は、今の時代には誰もいないですよね。
 1000年と言わず、数百年前であっても、「元通りにする」のは困難なのです。
 

fujipon.hatenadiary.com


 こういう研究をされている方もいます。
 興福寺の国宝「阿修羅像」は、もとは赤い、派手な像だった、と著者は述べています。
 今の感覚としては、真っ赤でペンキ塗りたてみたいな仏像が出てきたら、「ありがたみがない」としか言いようがないのですが、完成当時から、あんな枯れた色合いではなかったですよね、たぶん。

 そんな「完成した時点の建物を再現する修復」を人々は求めているのか?
 
 この本のなかでは、これまで行われてきた「修理」の変遷や、どのくらいの手間をかけて、歴史的建造物を保存、復元してきたのかについても紹介されています。
 いま行われている「修理」では、柱の一本でも、おろそかにしないのです。

 その一方で、「コミュニティのシンボルとして、「再建」された、大阪城についても触れられています。

 大坂城といえば豊臣氏のイメージが強いが、豊臣氏が建設した初代大坂城天守は1615年(慶長二十)に大坂の陣で焼失している。その後に、場所を移動して徳川氏が建設した二代目天守も1665年(寛文五)に焼失し、その後天守は再建されることはなかった。
 こうした履歴を辿った大坂城天守であるが、二百年ぶりの再建事業は、京都府技師・京都帝国大学教授の天沼俊一の指導の下、大阪市土木局が設計を担当した。二代目天守の位置を敷地として選び、そこに「大坂夏の陣図屏風」が描く初代大坂城天守の上層部と二代目天守の下層部を組み合わせた外観デザインが採用されたが、構造は鉄筋コンクリートで、内部は展望機能を持った博物館となった。すなわち、過去を連想させる位置と外観に対して、内部は近代市民社会に対応するものとなったのである。
 再建された大阪城天守閣は、不完全かつ不整合ではあるが、建設位置と外観においては歴史性に一定の配慮を行い、近世城郭が本来的に有していた都市のシンボル、ランドマークとしての性格を創出しようとしている。こうした性格は、松江城松本城犬山城天守において市民が守り抜こうとしたものと共通しているが、大阪城天守閣ではそれを創作によって新たに生み出したのである。


 僕も子どもの頃に行ったことがある大阪城は、1931年に「再建」されたものなのです。
 昭和に再建された天守は「大阪城天守」と、豊臣家がつくった「大坂城天守」とは異なる表記がされているそうです。

 歴史的な遺物としての「正統性」には欠けていそうな「大阪城」なのですが、現在でも「大阪のシンボルのひとつ」とみなされ、多くの人が訪れています。
 こういう「歴史的な物語と人々の愛着を背負った創作物」もあるのです。
 

 古い建物が遺っている、あるいは、新しい建物がつくられるのには、それぞれの「理由」がある、ということをあらためて考えさせられる新書でした。


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