
直木賞受賞作家・小川哲が2022年に発表しベストセラーとなったミステリー小説「君のクイズ」を映画化。
賞金1000万円をかけた生放送のクイズ番組「Q-1グランプリ」の決勝戦。お茶の間が注目するなか、「クイズ界の絶対王者」こと三島玲央と、「世界を頭の中に保存した男」といわれる本庄絆は、ともに優勝への王手をかける。そして迎えた最終問題の早押しクイズで、本庄はまだ問題が1文字も読まれていないにも関わらず回答ボタンを押す。どよめく会場をよそに、なんと本庄は正解を言い当て優勝を果たす。あり得ない出来事に、三島は困惑を隠しきれない。本庄はなぜ不可能とも思える「ゼロ文字正答」を成し得たのか。三島はその謎を解明すべく独自に調査するが……。
2026年7作目の劇場鑑賞。公開初週の土曜日の19時くらいからの回で、観客は20人くらいでした。
『君のクイズ』の原作小説が大好きだったので、どんなふうに映像化されたのだろう、と楽しみにしていたのです。
僕は小学生の頃、「アメリカ横断ウルトラクイズ』を毎週楽しみに観ていて、東京の大学に入って、『ウルトラクイズ』に出たい!と思っていたのです。
雑学とかいろんな知識を得るのは楽しくて、クイズは好きだし、クイズ番組も好き。
ただ、1990年前後に放送されていた『ギミア・ぶれいく』という大橋巨泉さんが司会のバラエティ番組の『史上最強のクイズ王決定戦』で、問題文の途中で解答ボタンを押して正解するクイズ王たちの凄まじさを観たり、島田紳助さん司会の番組で「おバカタレント」たちが正解を出すよりも面白い回答を競っているのを観たりするうちに、「ここまで専門化・先鋭化してしまうと、もう普通のクイズ好きにはついていけないな」と思うようにもなったのです。
競技クイズを題材にした『ナナマル サンバツ』というマンガが2010年から連載され、スマッシュヒットしています。
『君のクイズ』の舞台は、クイズ番組の最高峰、生放送の『Q-1 グランプリ』。
優勝賞金1000万円がかかった実力勝負(のはず)のクイズ大会の決勝戦、両者あと1点で優勝の最終問題で起こった「問題文が読み上げられる直前に一方の回答者がボタンを押し、正解して優勝した」のです。
この「ゼロ文字正答」の謎について、優勝した本庄絆の決勝での相手だった、クイズに人生を捧げた男・三島玲央が、決勝の流れを再現しながら検証していくのです。
普通に考えれば、「問題が1文字も読み上げられていないのに回答する」なんていうのは、問題が事前に漏洩されていないかぎり、無理ですよね。
「勘がものすごい確率で当たる」ということも絶対にあり得なくはないとしても。
原作小説の凄さは、この「絶対にありえない」と思うことが、どのようにして起こったのか、幸運とか偶然に頼らずに、論理的に説明してしまうところだったのです。
確かに、こういうロジックだったら現実的に「ゼロ文字正答」が可能だったかもしれない。
あえて本庄絆がそれをやった理由も、僕ならやらないとしても、やる人がいるのは理解できる。
昨今評判のミステリも、主人公が超常能力を持っていたり、ものすごく加害者と被害者が似た属性を持っていたり、というような「ありえない設定」で成り立たせているものが多いのです。
でも、『君のクイズ』は、ひたすらロジックで詰めてくる。
競技カルタ(百人一首)の名人戦のように、クイズにも、「確定ポイント」というのがあります。
百人一首で、ここまでの文字が読み上げられれば、どの札かわかる、というポイントがあるのと同様に。
「史上最強のクイズ王」でのクイズ王たちの解説では、「アマゾン川」ではじまる問題は、その後に続く助詞が「アマゾン川『の』」ならこの答え、「アマゾン川『が』」ならこの答え、というようなポイントがあるし、「日本で一番高い山は富士山……ですが、日本で一番低い山は?」というような、早押しの間違いを誘発する「ですが問題」なんていうのもある。
問題を作る人にも癖とか傾向はあるし、番組製作側は「面白い、視聴率が取れる番組にしたい」から、ヤラセのない真剣勝負でも、番組が面白くなるような「お膳立て」をしようとする。
新聞の見出しの大きさと同じように、クイズの「編集権」は、番組側にある。
参加者は勝つことが目的でも、制作側は、視聴率を取る、視聴者やスポンサーに喜んでもらうのが目的です。
でも、視聴者参加番組で不正はできないから(今のネット社会なら、尚更そうでしょう)、不正とみなされないような「演出」をしようとする。
クイズそのものは大学のサークルなどで今でも盛んに行われているにもかかわらず、テレビでの視聴者参加型のクイズ番組が減ったのは、面白くするのが難しいから、でもあるのでしょうね。
ああ、『君のクイズ』の話をしていると、僕のクイズ少年魂がよみがえってきてしまう。
映画『君のクイズ』の話をしよう。
この映画の前半部分、三島が本庄の「ゼロ文字正答」を特別番組のなかで検証していく場面までは、「映像的に演出過剰で画面が騒がしい感じはするけど、映画としてはしょうがないよな。やっぱり、原作が面白いと映画化しても面白いな」と思いながら観ていました。
前述した「確定ポイント」や「ダイブ(まだ確定ポイントは来ていないが、その時点での正解候補の一つを選んで勝負をかけるテクニック。もちろん誤答のリスクもある」などの競技クイズのテクニックや、番組制作サイドの思惑と、それを「勝つために読もうとする」挑戦者たち。
三島役の中村倫也さんの不器用そうだけど真摯な演技と、本庄役の神木隆之介さんの人を食ったような怪演、ムロツヨシさんのいかにも怪しそうで、テレビマンとしての職務に忠実な演出家っぷりにも引き込まれました。
でも、後半から終盤にかけての展開は、僕を困惑させたのです。
映画を制作する側からすれば、『君のクイズ』はすごく面白い小説だけれど、場面は密室で派手なアクションがあるわけではないし、大きな事件が起こるわけではない(ネットでは大変「バズりそう」な話ですが)。
映画としては盛り上がりに欠けるし、尺(上映時間)も足りないし、それなら「人間ドラマ」的な要素をもっと盛り込んで、映画オリジナルの魅力を出そう!
原作未読勢がどう感じたかはわからないのですが、僕は『君のクイズ」という小説って、「ロジックを積み重ねて、次第に答えに近づいていくのが醍醐味」だと思うのです。
映画の制作側が「作家性の発露」「観客へのサービス」と思い込んで、あまりに「作家性」「人間味」みたいなものに気配りをしたせいで、なんかありきたりのお涙頂戴日本映画化してしまい、原作の魅力が薄れてしまった。
「人生はクイズであり、クイズではない」
そんなお説教は、もう飽きた。
「クイズなんだよ、人生なんて」
僕は『君のクイズ』の、そんな突き放した態度が、すごく好きでした。
少しネタバレになってしまうかもしれませんが、原作で本庄は「ゼロ文字正答」に関して、「もし不正解でも自分は構わなかったし、それを想定した準備もしていた」と告白していたのです。
でも、映画では、その「本庄の憎らしいまでの凄みと周到な準備」は、カットされていた。
代わりに、とってつけたような三島の「人間ドラマ」と某有名インディーズゲームのシーンが挿入されていました。
うーん、このゲームの話、なんの意味があるの?
もしかして、昔『トランスフォーマー』で中国企業の商品がたくさん出てきたような、映画内広告?
(ちょっと調べてみたのですが、少なくともそのゲームの企業がスポンサーとなっているわけではないみたいです)
僕はそのゲームはけっこう好きだし、オーケストラコンサートにも行ったくらいなのですが、この映画のなかで使われる必然性も効果も感じなかった。
原作をなぞって、このキャストを活かして映像化するだけで、十分だったのではないか、というのと、なぜこんな作品のクオリティを下げるような「演出」が行われたのか、というのと。
もしかしたら、これは映画の観客に出された「クイズ」なのだろうか?
どうしてこんな「映画化」になってしまったのでしょうか? シンキングタイム!
映画を観て、なんだかすっきりしなかった人は、ぜひ原作小説を読んでみてほしいのです。
監督の「作家性を出したい」みたいな欲求って、映画やドラマ、アニメの「面白さ」であるのと同時に、「落とし穴」でもありますよね。
原作通りにやれば「映像化する意味がない」と言われ、オリジナルの要素をふんだんに盛り込めば「原作はそんな話じゃない」と責められる、難しい仕事ではあるのでしょうけど。
『死亡遊戯で飯を食う』とか『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』とか、映像化、映画化での「作家性」とのせめぎ合いって、不幸な結果になることが結構あるんだよなあ。








