Kindle版もあります。
なぜ目が離せないのか?徹底取材&分析!
玉川徹、西野亮廣、ガーシー、吉村洋文、山本太郎――
時に大衆を熱狂させ、時に炎上の的になるメディアの寵児たち。
毀誉褒貶付きまとう彼らは何者か。その存在はそのまま単純かつ幼稚な「正論」がもてはやされる日本社会の問題点、メディアの不健全さを映し出す。新聞、ネットメディアの記者を経て、ノンフィクションライターとなった著者が本人、周辺への取材を重ねて綴った、超ど真ん中、正統派人物ルポの誕生!
なぜ、この人がこんなに支持されているのだろう?
支持者、支援者たちは、騙されたり、「洗脳」されているのでは……
そう思わずにはいられないような「メディアの寵児、あるいはネットでのカリスマ」って、少なくない数がいて、その多くは途中でメディアや支持者に手のひらを返され、転落していくか忘れ去られていくことになります。
この本、毎日新聞という大手メディアの記者からBuzzFeed Japanというネットメディアに「転身」したことで話題になった(現在では、そんなに珍しい話でもなくなりましたが)、ノンフィクションライターの石戸諭(いしど・さとる)さんが、彼ら「トリックスター」について、本人、それが不可能な場合には、なるべく近い人に直接取材をして、その人物像を紹介したものです。
著者は、「プロローグ」で、この本で採り上げられている「トリックスター」たちについて、こう述べています。
彼らについて総じて言えるのは一部の熱狂的な支持者・擁護者と、何があっても批判をする熱量の高いアンチとの対立を生み出すことだ。アンチは絶対に認めようとしないが少なくない人々からの確かな支持と──人によっては、だが── 一定の利益を獲得している。この本のなかで取り上げる元国会議員のガーシーこと東谷義和のように、暴露系ユーチューバーから一転して刑事事件の被告人として裁かれた人物もいるにはいる。だが、彼もまた億単位の利益を生み出し、一時とは言え芸能人との派手な交友や暴露を元手にして我が世の春を謳歌したという事実は確かに残っている。
加えて、熱量を込めて語りたくなる存在であるということも挙げられる。市井に生きる少なくない人々が彼らの存在について何かを語りたくなる。直接の利害関係はほとんどないのに、話題に上ることを欲し、何かを書き込みたくなってしまうくらい惹きつけられているのだ。
一介の社員コメンテーターとしてスタートし、時に致命的な間違いを発信しながらも社会に確かな影響力を残した玉川徹──。
お笑い芸人から絵本作家に挑戦し、ファンとのビジネスコミュニティーを構築する一方で「信者ビジネス」だと批判を浴び続けている西野亮廣──。
YouTubeでの暴露を武器に、一部の熱烈な支持者からの期待を集めて参議院議員にまで上り詰めたガーシー。
政界とのつながりが過剰なまでにクローズアップされた「旧統一教会」──。
政党として着実に支持を伸ばしながら、評価より感情的な反応が先行する「維新の会」と吉村洋文──。
小ポピュリズム政党を率いる山本太郎──。本書は彼らを巡る動きを一貫して一つの「社会現象」として位置付けている。彼らは一体何者なのか? その存在は何を意味しているのか。見えてくるのは社会を変えた夢の技術としてのインターネットの終焉と幼稚化する日本社会の姿である。ここに私がのめり込んだ理由がある。私は自分が抱えてきた疑問と彼らの現象を重ね合わせて取材レポートを書いていたのだ。
うーん、なんて「胡散臭い」ラインナップなんだ……と、彼らの名前を見ながら僕は思っていたのです。
そういえば、みんな「男性」なんですね。男性のほうが、こういう「社会を巻き込んだインフルエンサービジネス」みたいなものをやりがちなのだろうか。
女性のインフルエンサーは商品を売りたがるけれど、男性は「思想」を売りがちだとも感じます。
これは長年ネットを観測してきた僕の感覚的なもので、きちんと統計をとったわけではありませんが。
この本で、著者が実際に本人や身近な人に取材をして書いたことを読んでみると、彼らは「ネットを利用し、愚かな大衆に迎合してのし上がってきた怪物」ではないことが伝わってきます。
玉川徹さんは、テレビマンとして「視聴率を獲ること」に重きを置いているし、ガーシーさんの「暴露」のきっかけは、ギャンブルによる多額の借金でした。西野亮廣さんも「夢想家」だし、信者ビジネスなのは事実だとは思うけれど、実業界の「カリスマ経営者」って、けっこう宗教みたいな「信念」を発信している人が多いのです。
西野さんの場合は、ネットを通じて、その「活動内容」が可視化されているので、外部から批判されやすい、という面もあるのかもしれません。ちょっとしたことで話題になって持ち上げられ、熱狂が冷めると出た杭が打たれ続ける、その繰り返しのネット社会のネガティブな面に疲れた人も多いのでしょう。
僕も「なんかいいかげんなことばっかり言っているなあ」と思ってきた維新の会の大阪府知事・吉村洋文さんについて、2021年4月6日(大阪が(当時)過去最多の新型コロナ新規感染者数を記録していた日)に、ニュース番組で共演したときのことを著者は書いています。
重症病床を増やすにも限界があるという現実を、甘い見込みや希望的観測を排し、踏み込んで語っていた点は、反対派が言うほど無責任なものとは思えなかった。その後、打ち出した不急の手術を延期する要請も理にかなったものだった。
無論、私は諸手を挙げて彼のすべてを擁護する気はなかった。吉村が府民へのアラートとしていた、通天閣などを赤く染める「医療非常事態宣言」にどれほどの効果があるのかという疑問は最後まで消えなかったし、府外からの医療支援も要請したほうがいいのではと思った。
しかし、初対面の印象は決して悪いものばかりではなかった。私の記憶に強く残っているのは、オンエアー中に連呼していた「府民へのお願い」や「方針」よりも、CM中にぽつり、ぽつりと自身の職責について語っていた言葉だった。
「体というより、気がしんどいですね。常に感染者数のこと、病床のことばかり考えていて、気が休まらないです。感染が広がれば、亡くなる人は増えます。医療従事者はずっと大変な状況にいる。飲食店をやっている友達だっていますし、かたや感染しても自分は大丈夫と思う人もいる。難しいですよ、社会は。いろんな立場の人がいますから」
ただ一方的に「敵」を仕立て、自分を正義とする構造を作るのではなく、綺麗事だけではすまない複雑な社会と丸ごと向き合おうという気概は感じられた。
新型コロナウイルスへの感染対策として、会見中にいきなりイソジンうがい薬を推奨しはじめたときには、医療従事者としては「そんなエビデンス(根拠)も不確かなことを責任がある立場の人が言うなんて……)と呆れたのを覚えています。
なんか思いつきで言っているだけ、のようにも見えたのですが、吉村さんは、ある意味「世の中の矛盾に悩み、目の前の情報に踊らされ、自分の立場から言葉を発してしまう普通の人」だった、とも言えるのかもしれません。
おそらく、身近な人からすれば、「愛され、信用されやすい人」だったのではないでしょうか。
それが「政治家」に向いているのかどうかはさておき。
いまは「清濁合わせ呑むような、器の大きさを感じさせる政治家」は、評価されにくい時代で、「共感できるくらいのわかりやすい人」のほうが支持されやすいとも感じます。
れいわ新撰組と山本太郎さんを論じた文章では、こんな見解が述べられています。
れいわ以後もポピュリズム的な路線を取る小政党はいた。例えば、参政党がそうだ。彼らは反新型コロナワクチン、「日本の伝統を大切にする『子供の教育』」「無農薬栽培や化学物質に頼らない医療などを推進する『食と健康』」「外資規制の法制化、外国人労働者の増加抑制、外国人参政権の不認定などの『国まもり』を標榜した。反ワクチン、親エコロジー、右派的思想のミックスという一見するとよくわからない政策をまとめた党の中心であり、参院議員に上り詰めた男の名は神谷宗幣という。
(中略)
本当の問いは現実を受け止めた先にある。一時は「参政党現象」とも称されたが、その後に一体何が起きたかといえば、内紛と組織としての機能不全の露呈により政党として支持拡大ができていないという現実だ。
れいわも同様である。彼らは全国でおおよそ100万票を獲得すれば比例で1議席が取れる参院選、衆院選の比例ブロック、あるいは同じ選挙区から多数が当選する地方選という制度が生み出した政党にすぎない。彼らが議席を獲得したからといって、何かが変わったのか。個別に見れば小さな変化はあるかもしれない。あるいは「こんな言動の国会議員がいるのか」という呆れや政治への諦念が生まれることがあったかもしれない。だが、大勢にはなんら影響がなかった。参政党が数議席を取ろうが新型コロナ対応の方針は変わらず、れいわが議席を増やそうが減らそうが一貫して彼らは野党の中心には立てずに消費税減税の足並みを揃えることすらかなわない。やや突き放した見立てになってしまうが、彼らの存在は左派ポピュリズムが好きな国民、反化学物質や新型コロナワクチンに疑義を抱いている国民が一定数いることの表れでしかない。
「反マスメディア」「反LGBTQ」「反左翼」「反右翼」……何を標榜しても辿る道は同じになるように思える。すなわち一部の熱狂やSNSを見て「ここに本当の世論がある」と叫び、自分たちの主張を取り上げないニュースを嘆く。自分たちの主張の拙さを棚にあげる。彼らはメディアをにぎわす「一発屋」のようなものだが、一発がないまま去っていく政治家よりはるかに際立った個性がある。しかし、一発ではやがて支援者のあいだにも違和感がやってくる。最初期の一発は大切なことまでは認めるが、政治家の本当の力量は一発で惹きつけた先に試されるものだ。
メディアは一発の大きい花火に注目するが、華々しく散った後には何も注目しない。
ポピュリズム一本でほとんど革命に近いダイナミックな変化を叫ぶよりも議会の中で継続的に活動し、小さな花火を打ち上げながら政党として成長を目指したほうが変革に近づくのだが、それはムーブメントとは縁が薄くなり、やがて普通に議会にいる一派になることを意味する。
最初は奇抜な方法でメディアにも注目され、一部の人々から熱狂的な支持を集めることができても、組織をより大きくし、支持を浸透させていくとなると、既成政党が試行錯誤して生み出してきた「これまでのやり方」に寄っていかざるをえなくなるのです。
僕はインターネットの世界で、「新しい、自由な生きかた」を主張して人気になった人々が、結局は物販やオンラインサロンの会費や広告で収入を得るようになり、「既存のシステム」の枠に取り込まれていくのを見てきました。
大手メディアはスポンサーに忖度して、自由な報道ができない、というけれど、ネットメディアも広告主やスポンサーを意識せざるをえないし、大勢の人に見てもらうために「迎合」「妥協」せざるをえないのです。
お金を稼ぐ方法が同じであれば、課せられる制約も似たようなものになってしまう。
尖った主張は熱狂的な支持者を生み出すけれど、支持の拡大には限界がある。
山本太郎さんも、「なんかもう色々やろうと動きすぎているわりには実際には何もできておらず、迷走している」ようにもみえます。むしろ、「大きな花火」を打ち上げるという「手法」「スタイル」にこだわりすぎてしまっているがゆえに、「普通の政党として党勢を拡大する」のが難しくなっているのかもしれません。
アメリカのトランプ大統領をみていると、「泡沫とかネタっぽいとか甘く見ていると、いつのまにか世界が大きく変わってしまうのではないか」とも思うのですが、トランプ大統領は「共和党」という組織にうまく乗っかっているんですよね。共和党内部にも「自分たちは本当はトランプさんとは違うんだけど(でも人気があるからな……)」という人は多いのではないかなあ。
「トリックスター」たちは、話題性ほど、現状では「一瞬の輝き」はあっても、大きく社会を変える力を得ていないし、彼らは絶対善でも絶対悪でもない、という著者の解像度の高い分析には納得せずにはいられませんでした。
ただ、読んでいると、Mr.Childrenの大ヒット曲の「さまざまな角度から物事を見ていたら、自分を見失ってた」というフレーズも頭に浮かんでくるのです。
僕自身も、そういう、いろんな事情や状況を考え過ぎて、「答え」を出せず、前に踏み出せないという「課題」をずっと抱えているから。