Kindle版もあります。
オットー1世の皇帝戴冠(九六二年)を起源とする神聖ローマ帝国は、ドイツを中心に周辺へと領域を広げた。皇帝位は一四三八年以降、ハプスブルク家がほぼ独占。十六世紀に最盛期を迎える。宗教改革、三十年戦争といった混乱を経て帝国は衰退し、一八〇六年に消滅した。弱体に見える国家が八五〇年も存続したのはなぜか。叙任権闘争など、皇帝と教皇の関係はいかなる推移をたどったのか。捉えにくい「大国」の実像に迫る。
『神聖ローマ帝国』を世界史で習った記憶がある人は多いはずです。
「神聖」とか自分で言ってりゃ世話ないよ、とか僕は学生時代に思っていました。
神聖ローマ帝国は、ローマ教皇によってオットー大帝が戴冠したのが西暦962年、それから、ローマ教皇と密接な関係があった時代、ヨーロッパの中世、宗教改革、オスマン帝国との死闘、三十年戦争、フランス革命から皇帝ナポレオンの時代を経て、1806年の皇帝フランツ2世の退位宣言による終焉まで、約850年間続いています。
とはいえ、僕はこの帝国の全体像については、ほとんど理解できておらず、カノッサの屈辱とか、フリードリヒ2世というなんかものすごい個性的な皇帝がいたなあ、とか、ハプスブルク家の婚姻政策のことを思い出せるくらいです。
この「世界の驚異」といわれる皇帝・フリードリヒ2世について、塩野七生さんが書かれたこの本は、とても印象深いものでした、いつの時代にも「時代を先取りした(あるいは、先取りしすぎてしまった)人はいるのだなあ」と。
この中公新書版の『神聖ローマ帝国』。850年の帝国の歴史を「概観」したものです。正直、僕は歴史上の人物のエピソードや人物評を読むのが好きなので、前述のフリードリヒ2世やスウェーデンの「流星王」グスタフ・アドルフやマリア・テレジアに割かれている文章の簡潔さへの寂しさもありました。
ただ、850年もの歴史を新書一冊にまとめるには、こうせざるを得なかったのだろうな、とも思うのです。
そして、読み終えてみると、個々の人物のエピソードよりも、「神聖ローマ帝国」という、皇帝に絶対的な権力があるわけでもなく、内部での諸侯の抗争が絶えなかったシステムが、どうして850年も続いたのか、考えずにはいられなくなるのです。
神聖ローマ帝国の歴史は、(フランク帝国の)カール大帝まで遡れば1000年を超える。この長い歴史を持つ神聖ローマ帝国を語るために、二つの視点を設定しようと思う。
まず一つ目の視点は、皇帝(皇帝権)とローマ教皇(教皇権)の関係である。この二つの普遍的権力からなる社会は、二つの焦点を持つ楕円的統一体と表現される。
ローマ教皇による皇帝戴冠により、皇帝はキリスト教会の守護権とキリスト教世界の理念的指導権を得たが、これはまさに普遍的皇帝権の救済史的な使命だった。他方、ローマ教皇はキリストの代理人として世界を指導する立場にあり、ドイツ王選挙に対しても適格性の審査権(選挙審査権)を繰り返し要求している。二つの焦点は、対等に安定していたわけではなく、常に緊張関係にあった。本書では、まずこの両者の関係に注目して、神聖ローマ帝国の歴史の流れを整理したいと思う。
二つ目の視点は、ドイツの歴史家ペーター・モーラフのモデル、「開かれた国制」と「凝集化」である。開かれた国制とというのは、帝国政治がまだ制度化されておらず、皇帝との個別的な人的結合関係が大きな比重を占めていた状態を示している。いろいろな問題が起きるが、それを制度的に確定した方法で対処するのではなく、その時々の人的な関係によって対応が図られている状態を指している。いわば色々なことがまだオープンな状態にあるということを「開かれた」と表現している。
これに対して凝集かとは、この開かれた国政が制度化していくことを指している。その時々の人的関係によってではなく、制度的・法的に決めていくようになるプロセスを凝集化と表現する。さらにモーラフは、15世紀後半以降に帝国は凝集化の段階に入るが、「凝集化する帝国と並んで、開かれた国制の帝国もまた部分的に存在し続ける」と述べている。これが何を意味しているのか。本書では、皇帝周辺の人的関係と帝国政治の制度化、その変容にも着目する。
この二つの視点を用いて、神聖ローマ帝国の歴史を複合的かる重層的に描くのが、本書の主題である。
神聖ローマ帝国というのは、世界地図でみると、現在のドイツ・オーストリアを中心とした、ヨーロッパの真ん中にある大国なのですが、皇帝を選挙する権限のある7名の選帝侯をはじめとする諸侯の独立性がかなり強かったのです。
神聖ローマ帝国とその皇帝は、前半はローマ教皇との権力争いがあり、ルターの宗教改革ではややカトリック寄りの調停者として機能し、オスマン帝国やフランスが力を増して領邦内に侵攻してきた際には、諸侯をまとめて(まとまらなかったこともしばしばあるのですが)それに対抗する、という役割を果たしていきます。
周辺諸国の中央集権化し、近代国家となっていくなかで、「ゆるやかな結びつき」で、絶対的な権力を持っていたわけでもないからこそ、これだけ長い間、諸侯の旗頭としての命脈を保ってきたのです。
この本を読んでいると、神聖ローマ帝国の850年という歴史とその政策、戦争、外交は、人類の歴史において、さまざまな変化をもたらしたことがわかります。
1618~48年の間,神聖ローマ帝国で断続的に行われた国際戦争である三十年戦争は、1648年のウェストファリア条約で講和に至りました。
ウェストファリア条約が締結されたミュンスターの市庁舎の「平和の間」には、今もウェストファリア講和会議で活躍した使節の肖像画が飾られている。講和会議に出席した使節は同時代においても高く評価され、それぞれの宮廷で高い官職や顕彰を得ている。平和の創始者トラウトマンスドルフ伯は、すでに講和会議期間中に、金羊毛騎士団(1430年に創設された世俗騎士団で、ヨーロッパで最も権威のある騎士団)に迎え入れられた。
こうして5年ほどの期間、ヨーロッパの主要国と帝国等族の使節たちが講和条約を行ったことは、のちのヨーロッパ政治の方法を大きく変えた。専門知識と経験を積んだ外交官たちが、さまざまな講和会議の舞台で活躍することになる。ドイツ国内においても、帝国等族本人ではなく、専門知識を持った代理人や使節たちが協議を行うようになった。皇帝や帝国盗賊が顔を合わせて協議を行う政治の段階から、高度な法学的知識と外交術を身につけた専門官僚による政治の段階へと変化したのだった。
専門職としての「外交官」が誕生したのは、神聖ローマ帝国での長年の戦乱がきっかけだったのです。
現代(2024年)の感覚では「外交官」が存在するのはごくあたりまえのこと、なのですが、「専門職としての外交官」が誕生したのは、そんなに昔の話ではないのです(17世紀半ばというのは、けっこう昔ではあるかもしれませんが)。
また、著者は、神聖ローマ帝国での郵便事業の発展についても、本書の中でしばしば触れています。
郵便は情報の伝達だけでなく、19世紀に鉄道が普及するまで、郵便馬車は、最大の陸上交通手段でした。
人々が農業に従事するためにひとつの土地に居続けるのではなく、道路工事などの仕事に就き、長い距離を移動しながら生きる時代をつくったのです。
さらに、郵便馬車のなかでは、さまざまな階層の人々が乗り合わせ、「階層の交流」が起こったことや、馬車が通りやすいような舗装された道路が求められ、その道路をつくれた地域が発展し、のちに、舗装道路に沿って鉄道が敷かれていったことも紹介されています。
神聖ローマ帝国の影響は、現代の世界にも受け継がれているのです。
1815年に結成されたドイツ連邦は、35の君主国と4つの自由都市からなり、フランクフルトに連邦議会が置かれ、オーストリアが議長となった。このドイツ連邦は、主権を持った39の構成国からなる連盟であり、構成国の独立と不可侵を保障する、集団安全システムを基本原則としていた。普遍的な皇帝権はもはや復活する余地はなかったが、政治体制では神聖ローマ帝国と多くの点で類似している。
1867年、プロイセン主導で結成された北ドイツ連邦、さらに1871年に成立したドイツ帝国にもこの政治的特色は引き継がれた。
1949年に成立したドイツ連邦共和国(西ドイツ)も連邦制を採用し、整理統合されたかつての領邦を受け継ぐ11州から構成された。そして1990年、ドイツ民主共和国(東ドイツ)を吸収・併合する形で、ドイツは再統合された。東ドイツの5州を引き継いで16州となり、現在に至っている。
各州の独立性を保ちながら、国全体としての問題にはまとまって対処していく、といえば、アメリカもそうですよね。
現代の世界でいえば、中国やロシアのような、中央集権的・独裁的な政体をとる国がある一方で、それぞれの地方の状況を尊重しながら、必要時には国としてまとまる、という連邦制をとっている国も多いのです。
「緩い結びつき」だからこそ、完全に分裂しなくて済んでいる、という面もあるのです。
神聖ローマ帝国というのは、ずっと荒波に揉まれ続けていることによって、したたかさを身につけて生き延びた国であり、むしろ「時代を先取りした帝国」だったようにも思われます。