琥珀色の戯言

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【読書感想】街場の親子論-父と娘の困難なものがたり ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

わが子への怯え、親への嫌悪。誰も感じたことがある「親子の困難」に対し、名文家・内田樹さんが原因を解きほぐし、解決のヒントを提示します。それにしても、親子はむずかしい。その謎に答えるため、1年かけて内田親子は往復書簡を交わします。「お父さん自身の“家族”への愛憎や、恨み、思い出を拾い集めて文字に残したい」「るんちゃんに、心の奥に秘めていたことを語ります」。微妙に噛み合っていないが、ところどころで弾ける父娘が往復書簡をとおして、見つけた「もの」とは?


 内田樹さんのような有名人で、信奉者も多い人の子どもって、大変なのだろうな、と思いながら、この本を手にとったのです。 
 この本に対しては、「親子論」というよりは、「内田樹という人は、極めて身近な存在である、娘のるんさんにとって、どんな父親だったのか?」に主な興味があって読み始めたんですよね。

 いろんな立派なことが書いてあるだろうけど、この親子は「特例」みたいなものだろうし。

 僕自身、自分の親との関係は、とくに父親に対しては、なるべく接点を少なくする、という感じでしたし、自分の子どもたちにも「いいお父さん」だと胸を張ることはできないのです。
 自分の親からされてイヤだったことを、自分の子どもにやってしまって、内心「しまった……」と悔やむことも多いですし。

 
 この本を読んで、僕はなんだか少しだけ「救われた」ような気がしました。


 内田先生は、この本の冒頭に、こう書いておられます。

 家族の絆はつねにこの「変化するな」という威圧的な命令を含意しています。だから、若い人たちは成熟を願うと、どこかで家族の絆を諦めるしかない。子どもの成熟と家族の絆はトレードオフなんです。「かわいい子には旅をさせろ」と言うじゃないですか。
 絆が固ければ固いほど、成熟を求めて絆を切った子どもと残された家族とのその後の関係修復は困難になる。だったら、はじめから絆は緩めにしておいた方がいい。その方があとあと楽です。僕はそう思います。
 僕は高校生のときに「役を降りて」学校を辞め、家を出て、その後経済的に困窮して、尾羽打ち枯らして家に舞い戻りました。まことに面目のないことでしたけれど、父は黙って、「そうか」と言っただけでした。意地っ張りの息子が何を考えているかを理解すること共感することをその時点までに父は断念していたようでした。でも、この「何を考えているかわからない少年」を再び家族の一員として迎えることを決断した。その困惑した表現をいまでも覚えています。父は僕が50歳のときに亡くなりました。よい父親だったと思います。一番感謝しているのは、このときの「息子を理解するころは諦めたけれど、気心の知れない息子と気まずく共生することは受け入れる」という決断を下してくれたことでした。


 この文章を読んで、僕は涙が止まらなくなりました。
 「家族」っていうものに、今の世の中は、「わかりあえること」「仲が良いこと」を理想として求めているけれど、それは理想論でしかない。
 むしろ、「わかりあえないし、噛み合わないところだらけだけれど、それでも気まずく共生することを受け入れる」のが家族であっても良いんだな、って。
 内田先生と、るんさんには、「噛み合わない」ところもたくさんあるのです。
 親が想像している子どもの気持ちと、子どもの側が考えていることは、大概、違っているのです。
 僕も含めて、多くの人が、子どもの頃は「大人は子どもの気持ちなんてわかってくれない」と嘆いていたはずなのに、自分が大人になると、「自分は子どもの気持ちを理解している、想像できる」と勘違いしてしまう。


 るんさんは、この往復書簡本を引き受けたきっかけについても書いておられます。

 私は、「私のお父さん」でもなく、研究者でもなく、ただの、ひとりの少年、ひとりの青年、ひとりのおじさんとしての「内田樹さん」がどんな人間であるか、じつはとても興味があるのです。でもお父さんは、自分が考えていることを、どんどん読みやすくてわかりやすいパッケージで世間の人々に伝えているうちに、誰もが持っている「めんどくさい」部分、理性的でなく、矛盾に満ちて、ナイーヴな部分を、「しばらく用が無いかな」と仕舞い込んでしまっているように見えます。そういう風にキレイに剪定されて、いつも笑顔でフラットな「内田樹さん」としか会えなくなってしまったのを、娘の私としては少し寂しく思っているのですよね……。


 内田先生の若かりし日のことや、経済や人間の生き方について、お互いがいま考えていること、るんさんが子どもの頃に行った「あまりにも暇だったバカンス」の話……
 たしかに、この本には、ふたりの「ナイーヴな部分」が散りばめられているように感じました。 
 

 話は少し逸れますが、私(るんさん)は両親が離婚したときに、すっかり精神的にめげてしまっていた両親にものすごく気を遣って、嘘ばっかり言っていました。そう言ってほしいんだろうな、と子どもながらに考えを巡らせ、相手が喜びそうなことをその場しのぎでペラペラと演説し、「だから安心して!」とフォローすることに熱心でした。でもいま思うと、そんな変なことをして嘘八百をついたツケが、その後の人生をめんどくさくて苦しいものにしてしまったと思います。愛している相手には、どうしても手加減してしまいがちです。これは相手が自分より弱く見えたときに起こりがちな現象で、逆の場合は「なんでああしてくれない、こうしてくれない」と不満を持ったりすると思います。
 当時、離婚で精神的ショックを受けて、瀕死の子犬のようだったお父さんを憐れに思い、私はできるだけ自分の意見を譲っていました。でもお父さんは「小さな我が子が自分のために自分を押し殺している、自分がそうさせている」と、余計に自信を失ってしまったのでは、と思います。ある意味で私の「愛情」がお父さんを何年もスポイルしてしまったのだと反省しています。でもやっぱり、あのときはああするしかありませんでした。私は子どもだったし、お父さんは本当に精神的に参っていて、小さな私のワガママを聞いてあげるような余裕は持てなかった。かといって、私がお父さんを力づけてあげる方法なんて、6歳の頭で容易く思いつくはずもなく、「正解」なんてなかったんだな、といまは思います。


 これに対して、内田先生は、こんな返事をされているのです。

 離婚直後に僕は「瀕死の子犬」のようでしたか。言い得て妙ですね。もうへろへろなんだけれど、日々のルーティンワークはそれでもこなさなくちゃいけない。なんだか、朝から晩まで「はあはあ」舌を出していたような気がします。
 るんちゃんのこともすごく心配していたんですけれど、これから自分が一人で育てるのかと思うと、その責任の重さに呆然として、眠れない夜中に、ほんとうに必死になって神さまに祈ったことがあります。「ぼくのことはとりあえずいいですから、この子だけは無事に育つようにお守りください」って。あれほど真剣に神仏のご加護を求めたのは、あとにもさきにもあのときだけです。それくらいに自信をなくしていたんでしょうね。
 だから、そのときにるんちゃんが僕の意見を優先してくれて、とりあえずは僕の思い通りになるように「嘘をついていた」というのをいまになって聴くと、「ごめんね」と「ありがとう」と両方の気持ちです。6歳の子どもにそこまで気を使わせたことは謝らなくちゃいけないんだけれど、るんちゃんに必死で気を使ってもらったおかげで、僕はなんとか最悪の時期を乗り切れたというのも事実なわけです。


 30年前、自分のことで精いっぱいで、「子どもは自分が守らなくては」と思っていた内田先生は、この往復書簡で、るんさんの当時の気持ちを知り、「自分のほうが守られていた面もあったのか」と理解したのです。

 ほんとうのこと」を言うと人が傷つくことってあります。自分が傷つくこともある。
 というか、それを言うと誰かが深く傷つくことを僕たちは「ほんとうのこと」というふうに形容しているのかも知れません。
 一人が意を決して「じゃあ、「ほんとうのこと」を言おうか」と言うと、その場にいる全員が凍りつく……というのは小説や映画でよくある場面です。それは、その言葉を聴いたときに、誰かが(あるいはそれを告げた当人を含むその場の全員が)深く傷つくことが予感されるからです。
 だから、僕は誰かが「ほんとうのことを言うと……」という前振りをすると、「あ、言わないでいいよ。別に、無理してまで言わないでいいよ」と遮ることがあります(ほんとに何度かあります)。
 そう言うとたいていの人はびっくりしちゃうんですよね。
 でも、そういうのって、「あり」だと思いませんか?
「ほんとうのこと」なんか、わざわざ言って頂かなくてもけっこうです(だいたいのことは察しがついているから)ということって、ありませんか?
 いや、どうしてもそれを言っておかないと「先へ進めない」という場合には、仕方がありません。でも、それを言わずおいても、別に「迂回路」があって、最終的な目的地にたどりつけそうなら(「幸せになる」とか「人間的に成熟する」とか、そういう最終目標が達成されそうなら)、「ほんとうのこと」は暫定的に「かっこに入れて」おいて、「棚上げしておく」ということもあっていいんじゃないでしょうか。
 そのうちにもっと「大人」になったら、「ほんとうのこと」をそこそこ手際よく扱うことができるようになる。
 それまでは「ほんとうのこと」にはちょっとお控え頂く。
 それでもいいんじゃないかと僕は思います。


 僕も、それでもいいんじゃないか、と思うのです。
 
 以前、松たか子さんが、あるラジオ番組で、「自然体」と周囲から言われることについて、こんなふうに話していたのを思い出しました。

「周りからは自然体といわれることもあるけれど、私にとっての自然体というのは、その場の雰囲気を読んで、それにあった、相手が自分に期待しているであろう行動をすることなんです。それが『自然体』と言われているだけで」


 「ほんとうのこと」なんて知らなくても、共生することはできるし、それで良いのではなかろうか。
 だいたい、自分の「ほんとうのこと」なんて、自分でもよくわからないものではありますし。


サル化する世界 (文春e-book)

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そのうちなんとかなるだろう

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