Kindle版もあります。
【人類の永遠の悩みに挑む!】
「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「疲れていると、スマホを見て時間をつぶしてしまう」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではないか。
「仕事と趣味が両立できない」という苦しみは、いかにして生まれたのか。
自らも兼業での執筆活動をおこなってきた著者が、労働と読書の歴史をひもとき、日本人の「仕事と読書」のあり方の変遷を辿る。
そこから明らかになる、日本の労働の問題点とは?
すべての本好き・趣味人に向けた渾身の作。
僕も働きはじめてから本を読まなくなったし、歳を重ねるにつれて、読書量が減ってきているのです。
子どもの頃や学生時代に比べれば、「本を読む時間がない」のは確かなのだけれど、現在、40代後半に救急や当直がある職場を離れてからは、残業も休日出勤もほとんどない生活ではあるのです。子どもたちもそれなりに成長して、それぞれ、やりたいことを自分でやることが多くなりました。
にもかかわらず、僕が仕事から帰ってきてやることは、元気なときでNintendo SwitchのゲームやNetflixでのアニメや映画鑑賞です。
ちょっと疲れたなあ、という日には、YouTubeでいろんな動画をだらだらと眺めているうちに、一日が終わっていきます。
著者は「子どもの頃から『読書の虫』で、本について勉強したくて文学部に入った文学少女」だったのですが、「好きな本を買うために」IT企業に就職してから、いつの間にか、全然本を読んでいない、ことに気づいたそうです。
正直、本を読む時間はあったのです。電車に乗っている時間や、夜寝る前の自由時間、私はSNSやYouTubeをぼうっと眺めていました。あるいは友達と飲み会で喋ったり、休日の朝に寝だめしたりする時間を、読書に充てたらいいのです。
だけど、それができなかった。本を開いても、目が自然と閉じてしまう。なんとなく手がスマホのSNSアプリを開いてしまう。夜はいつまでもYouTubeを眺めてしまう。
あんなに、本を読むことが好きだったのに。
そういえば最近書店にも行ってない。電子書籍も普及してきて、その気になればスマホで本が読める時代なのに、好きだった作家の新刊も追えていませんでした。なんだか自分が自分じゃないみたいだった。だけど翌朝電車に乗ると、またSNSを見るだけで、時間が過ぎる。同級生は器用に趣味と仕事を両立させているように見えるのに。
私には無理でした。
ああ、三宅香帆さん、あなたは僕ですか……
思い返してみると、僕は就職してからしばらくは、仕事のプレッシャーから逃避するように、けっこう本を読んでいたような記憶もあるのです。
それはたぶん、僕が就職した1990年代半ばには、スマートフォンは存在せず、スマホのソーシャルゲームやSNS、YouTubeで時間を過ごす、という選択肢そのものが存在しなかったから、なのでしょう。
その時代は、鞄に入れた文庫本が、僕にとっての数少ない「現実逃避の場」だったのです。それからインターネットが普及してきて、2000年代の初めは、なにかに取り憑かれたように個人サイトやブログを書いていました。
働いていたら、本が読めなくなるなんて、当たり前のことじゃないか!
そう言いかけて、僕は『本の雑誌』の創設者である故・目黒考二さんのことを思い出しました。
目黒さんは、椎名誠さんと一緒に、広告関連の業界誌で働いていたのだけれど、「仕事をしていると、本を読めないから」という理由で、会社をやめてしまったのです。
そこで、目黒さんが作っていた書評の同人誌を見そめた椎名さんと『本の雑誌』を作っていくことになりました。
三宅さんや目黒さんのことを考えると、僕などは、長年本を読んできたけれど、本が好き、というよりも、「現実逃避の場」だったのかなあ、なんて、思いながら、これを書いています。
僕のような人間が、典型的な「仕事に追われて、本を読めなくなってしまうタイプ」なのかもしれません。
本書は、日本の近代以降の労働史と読書史を並べて俯瞰することによって、「歴史上、日本人はどうやって働きながら本を読んできたのか? そしてなぜ現代の私たちは、働きながら本を読むことに困難を感じているのか?」という問いについて考えた本です。
著者は、明治維新以降の「本を売るという産業の変化」とともに、大衆の本の読み方、買い方を紹介していきます。
明治時代は、比較的実力主義の社会で、立身出世を目指して、多くの人が本を読んでいたのです。
そのなかで、自己研鑽の一手段として、労働者階級は「修養」のために「立身出世した人の本」や「実用的な本」を読み、エリート層は(直接生活の役には立たない)知識を得て、「教養」を身につけるための読書をするようになっていきました。
エリートたちが、『ビジネスに役立つ◯◯」や『教養としての××』のような「お手軽なノウハウ本のベストセラー」を読む庶民をバカにする雰囲気というのは、かなり昔から存在していたようです。
明治の「修養」主義は、大正時代、ふたつの思想に分岐していった。
一方が戦後も続くエリート中心の教養主義へ、一方が戦後、企業の社員教育に継承されるような、労働者中心の修養主義へ。
だとすれば──本章冒頭にて問題提起した「ビジネスに使える、効率重視の教養」の正体は何なのだろう。それは一見、令和にはじめて流行したような、ビジネスパーソンの不安や焦りを反映した現代のトレンドに思える。だが実際のところ、大正以降に分岐したはずの「教養」と「修養」が再合流したものが、その正体なのではないだろうか。
そもそも明治時代の「修養」は青年に自己研鑽を促す思想だった。それはアメリカの自己啓発思想に基づいて、家のためではなく個人のために自己を磨くべきだとする、新しい立身出世の思想潮流だったのだ。
しかし大正時代、自らを労働者と区別しようとする「読書階級」ことエリート新中間層が登場した。それによって「修養」=労働者としての自己研鑽と、「教養」(労働の内容には関係なく)エリートとしてのアイデンティティを保つための自己研鑽、そのふたつの思想に分離した。とくに新中間層の主な担い手であった都市部のサラリーマンは、自らの見栄のために食費を削る人間とみなされており、教養もまたそのようなエリート層としてのアイデンティティを規定する手段のひとつでもあった。
つまり私たちが現代で想像するような「教養」のイメージは、大正〜昭和時代という日本のエリートサラリーマン層が生まれた時代背景によってつくられたものだった。労働者と新中間層の階層が異なる時代にあってはじめて「修養」と「教養」の差異は意味をなす。
だとすれば、労働者階級と新中間層階級の格差があってはじめて、「修養」と「教養」の差異は意味をなす。
昔ほど「階層社会」ではなくなった現代の日本では、「安易なノウハウ本」やベストセラーをバカにすることによって、プライドを保つ人が増えている面もありそうです。
実際は、活字を読む大人自体が貴重な存在になっているのに。
人々に多く読まれる本は、その社会にともなって変わっていくのです。
これまでの読書史でも、サラリーマン、という存在が一般的に、多数派になれば、会社を舞台にした小説が売れやすかったし、「ビジネスマンの愛読書」として、司馬遼太郎さんの歴史小説が通勤電車で読まれるようになっていました。
僕がまだ学生だった頃、1980年代から90年代は、司馬遼太郎さんの『龍馬がゆく』は「みんなが勧める、大ベストセラー』だったのです。
高校の図書館で、村上春樹さんの『ノルウェイの森』を読んで、「大学生になったら、こんなに女性とやりたい放題なのか」と驚きました。実際は全然違ったわけで、大学時代は騙された気分でしたが、受験のモチベーションを高めてくれた、という恩義も多少はありました。
平成を代表する作家を挙げろと言われたら、私は彼女の名前を出すだろう。さくらももこ。──言わずと知れた国民的アニメ、漫画『ちびまる子ちゃん』の作者だ。
(中略)
1990年代の到来とともに、さくらももこの時代はやってきた。
1990年(平成2年)に『ちびまる子ちゃん』がフジテレビ系でアニメ化され、主題歌『おどるポンポコリン』の作詞で第32回日本レコード大賞を受賞。1991年(平成3年)にエッセイ集『もものかんづめ』(集英社)を刊行し、ベストセラー2位となる(ちなみに1位は宮沢りえの写真集『Santa Fe』)。1992年(平成4年)には『さるのこしかけ』が年間3位、1993年(平成5年)に『たいのおかしら』が年間4位、1995年(平成7年)に『そういうふうにできている』が年間15位と、ベストセラー街道を突っ走った。
ほとんど平成の幕開けとともにはじまったさくらももこの作家生活は、平成の終わりとともに、幕を閉じた。彼女のエッセイは、それまでの女性エッセイストと大きく異なり、読者を女性に限定しなかった。向田邦子や林真理子のエッセイの多くが女性読者をターゲットとし、自分のセンスや毒舌で読ませる一方、さくらももこは老若男女でも読めるエッセイを書き続けた。
冒頭に引用した『そういうふうにできている』もまた、誰でも読めるエッセイのひとつだ。妊娠・出産という、ともすると女性読者向けに閉じそうな題材を、彼女は誰でも読める文章に開いた。それは女性エッセイストの歴史で見ても、真似できる人がほかにいない。しかし、さくらももこの文章を今読むと、なんだか奇妙だと思う点はある。そのうちのひとつが、どこかスピリチュアルな感性が当然のように挟まってくるところだ。
著者は、僕より20年くらい後に生まれて、ずっと本を読んできた人なのですが、僕も、さくらももこさんのエッセイが大ベストセラーになったのは記憶に残っています。
さくらさんのエッセイは、文字通り「面白かった」し、(当時の感覚でいえば)女性のエッセイにも関わらず、「飲尿療法」とかがさらっと登場してきて、「こんなことまで書くのか!」と驚きました。
あまりにも売れすぎてしまったがために、語られにくいのかもしれませんが、たしかに、文章の世界においても、さくらももこさんは、「平成を代表する作家」でした。
著者が「働いていても本が読める社会を実現するため」に提言している後半部に関しては、もう僕自身が年齢的に労働生活の終わりに近づいていることもあり、「仕事にばかりとらわれず、家庭、趣味などを重視した生活を」というのは、「理想論ではあるけれど、本当にそんなことが可能なのだろうか?」とも考えずにはいられませんでした。
そういう結論にするしかない、というのもわかるのだけれども、50年生きていると、結局人は、自分がやりたいことをやることしかできない(できなかった)のではないか、とも思いますし。
目黒考二さんやこの本の著者の三宅さんのような「趣味を結果的に仕事にしている」人は羨ましいけれども、スポーツ選手だって、マイナー競技だったらオリンピックでメダルを取れるような人でもお金に困ることはあるわけで、「運」の要素は否定できません。
ワークライフバランスが重視される社会というのは、そのバランスをうまく取れない人には生きづらい面もある。
ただ、僕がそう感じている一方で、若者たちはどんどん時代に適応して、「うまくやっている」ようにも見えるのです。
実際、Kindleなどの電子書籍のおかげで、その場にいながら新しい本が買え、隙間時間にも読みやすくなっているわけですから、「本より面白い(あるいはリラックスできる)ことが現代には多すぎる」だけなのかな、とも考え込んでしまいます。